聴診器を発明した偉大なる医師 ~ルネ・ラエンネック~

聴診器、それは現代の医師にとって欠かせない医療器具です。
今でこそ「使って当然」と思われていますが、実は古代ギリシア時代から19世紀初頭まで、聴診は「医師の耳」によって行われていました。
それはつまり、医師が自らの耳を直接患者の胸に当てるということ……。

その様を想像して、ゾッとする女性は多いはず。
その様を想像して、ゾッとする男性も多いはず。

しかし今から200年前、1人の医師の働きによって、その悲しき未来の到来は防がれました。
ルネ・ラエンネック――道具による聴診の概念がなかった当時において、聴診器の原型を発明した偉人の名です。

師は音による診療方法の提唱者

ルネ=テオフィル=ヤサント・ラエンネックは、1781年にフランス・ブルターニュ半島のカンペールという町に生まれました。5歳のときに母を肺結核で亡くし、12歳でナントへ移住。大学の医学部で先生をしていた叔父の下で医学を学び始めます。

1799年にパリへ移ったラエンネックは、有名な医師たちから本格的に医学を学びます。彼はそこで師事した医師の1人、ジャン=ニコラ・コルヴィサールから音による診療方法を学びました。

師のコルヴィサールは、かつてレポルト・アウエンブルッガー(※)が提唱して注目されなかった、音に基づく診断方法を世間に広めた人物でもあります。

※オーストリアの医師で「打診法」の考案者。

 

聴診器を発明した理由は「恥ずかしい」から?

1816年、ラエンネックの診察室に1人の女性が訪れます。若く、とても“ふくよか”な女性でした。
打診と触診を試みたラエンネックでしたが、女性が“ふくよか”なので何も分かりません。困った彼の頭の中には、当然「直接聴診」の文字が浮かびました。
しかし、目の前にいるのは、“ふくよか”だけれども、お年ごろの女性です。

「彼女はきっと恥ずかしいに違いないし、私も恥ずかしい!」
ラエンネックはこんなことを考えたのでしょう。ノートを手に取った彼は、それを筒状に丸め、片方の穴を女性の胸に当て、もう片方に自分の耳を当ててみました。 すると、自分の耳を直接当てたときよりも、心臓の鼓動が鮮明に聞こえたのです。

「これなら女性が恥ずかしい思いをしなくて済む!」
そう思ったかどうかは分かりませんが、ラエンネックがその場で機転を利かせられたのは、ある光景を思い出したからでした。

ある日、彼は子どもたちが木の棒で遊んでいる姿を目撃しました。中身が空洞になっている棒です。子どもたちは片方の穴に耳を当て、もう片方をピンで引っかき、音が出るのを楽しんでいました。この光景が、彼にヒントを与えたといわれています(※)。

※木の棒で遊ぶ光景はラエンネック自身が体験した記憶によるものとする説もあります。
※ラエンネックがフルートを趣味としていたことも聴診器の発明に影響を与えたとする説もあります。

 

世界初の聴診器はこんな形だった

ラエンネックがまず作ったのはボール紙の聴診器でしたが、雑音が混ざってしまうため断念。その後、彼は正確な診察が行えるように試行錯誤を繰り返し、何度も図面を引き直したそうです。
そうして完成した世界初の聴診器は、3つの部品に分解できる、木でできた筒状の棒のようなものでした。

Laennec's stethoscope, c 1820.

それまで医師の耳によって行われていた「直接聴診」に対比させて、ラエンネックは聴診器による診察を「間接聴診法」と名付けました。

 

「音」と「疾病」を関係付けたのもラエンネック

ラエンネックは胸に疾患を持った患者を診察することが多い医師でした。彼は聴診器から聞こえる音の変化と疾患を関係付け、その後の結核や気胸、肺炎、心疾患などの診断精度を格段に向上させました。

■ラエンネックが分類した音
・ラ音(水泡音)
・ブリュイ音(雑音)
・ヤギ音
・振とう音

亡くなった人の死体を解剖しては音と疾患の関係を研究し、治療に役立てたラエンネック。その研究成果については、1819年に発表した論文に記されています。

ただ、ラエンネックが発明した聴診器は万人に受け入れられるものではありませんでした。
「耳があるのに、なぜ聴診器など使うのか?」
そんなことを言ってかたくなに聴診器の使用を拒む医学者は、19世紀後半になっても消えなかったそうです。自分が行っていた診察方法を否定されたと思い、気を悪くしたのでしょう。

とはいえ、聴診器のおかげで診断精度が上がったのは事実。時代の流れとともに形を変えながら、聴診器は現在まで使われ続けています。

聴診器を使うラエンネック

 

自らが発明した聴診器によって「不治の病」と診断される……

日本語で「硬変」を意味する「シローシス(cirrhosis)」や、「悪性黒色腫」を意味する「メラノーマ(melanoma)」という用語を生み出すなど、ラエンネックは疾患の研究と解明にも尽力していました。
彼が特に熱心に研究していたのが、当時「不治の病」として恐れられていた結核でした。5歳のとき、肺結核で母を亡くしたことも関係していたのかもしれません。

1822年、ラエンネックはフランスにおける教育機関の頂点「コレージュ・ド・フランス」の医学教授に就任しますが、わずか4年後、45歳でこの世を去りました。

その体をむしばんでいた病の名は、肺結核。それだけでもじゅうぶんに皮肉ですが、さらに皮肉なことに、彼は自分が発明した聴診器による診察で、その事実を知らされたのでした。

ラエンネックが発見した聴診器は、たしかに肺結核の早期発見に役立ちました。しかし、彼の生きた時代には、結核を治療するすべがまだ存在していなかったのです。

 

恥ずかしくないのはラエンネックのおかげ

人生最大の遺産。
ラエンネックは死の間際、聴診器を指してそう表現したそうです。

聴診器があるからこそ、医師は患者からそれほど嫌がられずに診察できているし、患者も大きな抵抗を感じることなく受診できています。

彼の功績がなければ聴診器はこの世に存在しなかった――というのは言いすぎかもしれませんが、その登場はもっと遅れていたかもしれません。

(文・エピロギ編集部)

<参考>
長崎大学病院 広報委員会「長崎大学病院ニュース Vol.23」(2009)
http://www.mh.nagasaki-u.ac.jp/others/pdf/23.pdf
ClassicoLAB「第1回 なぜ聴診器はこのカタチなのか?」
http://www.clasic.jp/2016/01/26/classico_stethoscope_teaser1/
SOCIETAS「ルネ・ラエンネック生誕235週年:聴診器を発明した医師の生涯とは?」
http://societas.blog.jp/1052217369
吉澤泰介「近年再び猛威をふるい始めてる結核。」(「はなせ診療所そよ風だより No37」、2013)
http://www.itihara.or.jp/asset/00094/hanase/sinryousyo/soyokaze/soyokaze37.pdf
BS-i(現:BS-TBS)「メディカルα 第5回 聴診器」
http://www.bs-tbs.co.jp/alpha/archive/05.html
早島町 木村医院 木村丹「打診法と聴診器の起源」(2005)
http://www.k2.dion.ne.jp/~drkimura/dasintotyousinn.htm
川田志明「耳寄りな心臓の話(第4話)『酒樽で打診、紙筒で聴診』」(公益財団法人 日本心臓財団「日本心臓財団刊行物」)
http://www.jhf.or.jp/bunko/mimiyori/04.html

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