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いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

【最終回】散った夫がくれた途~戦中、戦後を駆け抜ける~ 96歳現役の女医・梅木信子

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成24年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/12/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。

シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見てきました。

最終回となる今回は、96歳の今もご活躍されている女性医師、梅木信子先生からいただいたお手紙をご紹介します。いばらの道を駆け抜け、なおも医師として働く梅木先生に、その半生を綴っていただきました。

 

96歳で現役医師を続けている「梅木信子」先生は、23歳のとき、最愛の人を戦争で亡くしました。海軍軍人だった婚約者の梅木靖之さんが散ったのは、結婚式の1カ月前の出来事。

靖之さんの死から3カ月後に裁判を起こして婚姻関係を認めてもらった彼女は、軍人遺族の特典である優先入学制度を利用し、女子医専に入学しました。
女医の道を志した理由は、軍医になって戦場で死に、亡き夫の元へ行くためだったといいます。

梅木先生は89歳まで東京都日野市で内科医を務め、現在は靖之さんとの思い出の地である神戸市垂水に暮らしながら、健康診断業務に携わっています。

 

 

96歳、女医の仕事

生涯現役……と時流に乗ったせいか、週刊誌やテレビ、と全く意に反した反響で困惑し切っています。
私がお手伝いしているのは健康診断業務ですから、殆んどの人が若く健康体です。心肺の聴診など、有難いオサライなんです。

心電図を呼んだり、X-phを診たり、楽な仕事です。
ただ、遠隔地が多いので豊岡とか香住とか、レントゲン車にゆられる2時間は、腰にこたえます。
但しゆられてお腹はペコペコ。家にいる何倍も食べて来ます。

 

医師としてのやりがい

人間、「貴下はもういらない」と云われたら最後ですよね。誰かに必要とされてる、役に立ってる、これが生きがい。
寝た切りの母さんだって、娘にとっては役に立ってるんです。息をしてるだけでよい。この世の空気を吸ってるだけでよい。ただ、生きていて欲しい。

障がいを持って生まれてきた児だって、兩親にとっては健常な児以上に愛の対象となり、いき甲斐になっています。この子より先にしねない、と。 生きる目標となっているんです。

家族のない私には、やはり医者という職業が生き甲斐だったんでしょう。私は当直が好きでした。何百人もの入院患者、他科も含めて、です。何しろ内科はいざという時、どの科からも頼られましたから。

大きな大きな船の船長さん気分でした。そして平穏無事な夜は、よく末期の癌患者を診にゆきました。
苦しそうに痛みに耐えている寝顔を見ると、ついつい手を差し述べてしまいました。胃癌の人には、上腹部腫瘤の人には、下腹部にじっと手を当ててあげると、不思議、安らかになって下さるんです。
暖かい手。手当て、という言葉そのまゝ。

「こんなにやすらかに眠られたのは何日振りでしょう」と、家族が涙ぐみます。
「ねえ、じっと見守ってるだけでなく、こうして手を当ててあげたり足の裏をもんであげたり、いつもいつも身体に触ってあげてね」と、申し上げました。

 

医師になろうと思ったきっかけ

職業婦人という言葉、知ってます? 戦前はレッキとした固有名詞だったんです。昭和初期、まだ戦争の足音も小さく、まずは平穏な頃。
女は總て良妻賢母が目標でした。女は結婚して、父母に仕え夫に仕え、子供達を育てる。夫は社会人として外で働き、女は家の中にいて一家を守る。これが女の道でした。

職業につく女というのは、夫を亡くして生計の途を絶たれて子供を抱えた未亡人。殆ど生命保険の勧誘員とか家政婦でした。子供を母に預けて住み込みで働く女中仕事もありました。
一方、お金も才もある人は、数少ない女医とか薬剤師を目指しました。足が悪かったり、上唇裂を患って生まれてきた人達も、結婚できないと諦めて職を身につけようとしたのです。
ですから私が許婚を戦死で失い女子医専へ入学した時、近所の奥様方がお祝いに見えておっしゃった言葉、

「お宅のお嬢さまはどこもお悪くないのに、どうして職業婦人になられるんですか?」

私は正眞正銘の軍國の乙女でしたから、「仕事ぢゃありません。軍医になって戦争に征きたいんです」と答えました。
夫のあとを追って戦死したかったのです。当時、お國の為に死ねたら、此上ない幸せでした。
こうして、いや応なく医者という職についた私でした。

高邁な理想、天職など考えてもいなかった。
たゞ戦争に参加して戦死したかったんです。

 

夫、靖之のこと

九州男児、「唐竹を割ったような」の表現そのまゝの人。一本気で純心で明るくてウィットに富み、いつも周囲を笑わせてた人。何かトラブルの起こった時は「梅木君に頼めよ」と云われた人。私を「なでしこ」と呼んでくれた人。
私たちはお互いがお互いの者であって、神さまから与えられた相手だと心から信じていました。

18才で知り合って、23歳で彼を失うまで、私は幸福でした。常に常に、別れの不安に戦き乍らも幸せでした。そして、召集、出征、戦死。
彼は自分の死後の事まで考えて、私が医者として立って歩ける途を用意してくれたのです。

あの忌まわしい8月15日、なぜ潔く自決しなかったのか。この思いは罪悪感となって、あらゆる時に責め苛みました。私は決して幸せになってはいけない。
どんな美味しいものもどんな美しいものも、どんな楽しいことも、私には無縁なのです。
笑うことさへ控えるようなりました。そう、私は贖罪に徹しなければならないのです。

表面的には人に合わせます。でもそれは總てパフォーマンス。本当の信子はあふれる涙とポトポト落ちる涙の世界にいます。
テニソンの詩にありますよね。残された者に涙が乾かぬのは、先に逝った人がまだ遠くから愛してる澄據だと。
そう、私の彼はいまもいまも私を見つめ、涙にぬれたこの哀れな顔をみつめてくれてるんです。泣くなよ、泣くなよ、といい乍ら。

でも涙の中にいて幸せなんですよね、とこしえの愛を信じてるから。

 

梅木先生_文中画像

梅木信子先生からいただいたお手紙

 

医学校時代のエピソード

ノートうつし、の一言につきます。教科書もなかった。講義だけが頼り。頭の良い人のよく整理されたノートはクラスの貴重品。どんどん廻されて必死でうつしました。よいオサライになったでしょう。
ドイツ語のSpellなんかもよく分かったし、有難かった。
一班13名で、一人として落伍者を出すまい、と皆で手を引き足を引き助け合いました。恐くてカンニングは出来なかった。

着るものなんて無頓着。ズボンの上にワンピースなんて珍妙な格好で早稲田通りを闊歩してました。今はこのスタイル流行ってますね。
又、ララ物資とやらの配給で、スカートと上衣が別々の人に当たるもんだから、外出の時は借りたり貸したり。

それから、クラス委員を◯◯党の人ばかりがやるんで私が提案し、アイウエオ順にみんなでやりましょう、と。ウですから一番に委員になりました。吉岡博人先生へ挨拶にいったら「梅木さん◯◯党ですか?」と。No No.

体育の美濃部先生は英国留学が長かったので、ソシヤルダンスの名手でした。私も夢中になり、クラス会費捻出のため何回もダンスパーティーを開きました。 私のお相手は東大精神科の白木助教授。白人に間違われて患者達が騒いだという白皙の美青年。友達からうらやましがられた。

空襲で十三番線(都電)がなくなり、ペンペン草を踏み乍ら新宿まで歩き、ドタ靴で伊勢丹へ入り一番安いホットケーキをいつも食べました。

そして、私が卒業できたのは友人のおかげでしょう。医師国家試験にパスできたのもそう。結核に罹った私のアパートまで来てその日の講義をしてくれたんですから。
本当に、有難かった。

 

東京で開業医をしていたときのエピソード

■梅干し事件

或時、病院中で赤痢が発生した事がありました。食事配給係の人が保菌者だったのです。内科はもう大騒ぎ、一人で何百人も受持って食事のヒマもありません。やっと食事にありついた途端、「先生、排便を見て下さい」とプレさんが血便の入った膿盆を見せに来ます。
精神科の先生で病院食のおコボレにあづかっていた方も発生して、バレてしまいました。
私はふと總婦長の関さんに「梅干しでもどんどん食べさせたら腸内を殺菌するでしょうに」と云ったんです。すると、まあ翌日から、ありとあらゆる食事に梅干しが入ることになっていました。
みなさん食べ切れなくてビンに詰めて枕元に置いてました。梅干だってバカになりません。大変な出費だったろう、と一寸申し訳なくなりました。

■教授に誤診させたこと

40才を過ぎてホルモンの枯渇を感じた私は、ふといたずらに婦人科の友に頼んで男女混合ホルモンを注射してみました。アッという間に全身眞赤な発疹に被われました。アレルギーです。
ちょうど猩紅熱の流行時で、何人も受持っていたのです。教授は直ちに猩紅熱と診断し、私は伝染病棟へ隔離されました。
約3週間、それはそれは天國でした。ゆっくりと寝ころがって読書三昧、食事もおいしい。毎日の注射だけは一寸閉口でしたが。
ところが皮膚科の連中が見舞い(?)に来て、オカシイ、オカシイと云い出しました。
「シャールラッハぢゃない。どうしたの?」
白状しました。そして頼み込みました。黙ってて、お願い。
3週間の有給休暇は無事降りました。

■夜間の救急指定病院

とてもにがい経験があります。或る夜、救急隊員がドアを叩きました。
「先生、もう息がないですが、診て頂けますか」
仕方なく往診です。仲間の隊員が息をしていません。
「いや、風邪気味といって救急病院へいったんです。一本注射して、直ぐ返されましたが、その途中でもう息してなかったんです」
ソセゴンという痛み止め、解熱剤でした。とてもよく利くのですが、反面恐い薬で、医局時代も注意して使ってました。
このままでは大変な事になる、と私は直ぐ、私立病院へ運ぶことにしました。当直医の方は困惑して、「先生、もう無理ぢゃないですか」と後ずさりされました。「先生、お願いです、兎に角救命措置をやってみて」。
約30分救命が行われましたが、勿論ダメでした。
救急病院の院長が眞夜中かけつけて来られました。開口一番、
「先生何といって下さったんですか?」
「何も。ごらんの通りです」
後日伺った所では、大動脈瘤の破裂という事で決着がついたそうです。
あんなにひどい思いをした私には、一端の釈明もありませんでした。

■母親と死児、孫夫婦と高齢者

最近、我が子を殺す若い親達がいますね。泣き止まないからとかミルクを飲まないからとか、些細な面に腹を立てて、ギュッ!
本当に人間が動物以下になっちゃった様なきがします。そして、開業してた時の事件を思い出します。
赤ちゃんの窒息死です。壁際に寝かせていたら、ぶら下げていた衣類がフワッと落ちてきて顔面を覆い、息が出来なくなった。
死児を抱きしめて泣きくずれている母親を見ると、とてもとても殺したなんて想像も出来ません。新生児に時々起こる緊急呼吸停止という診断で、検察沙汰にはしなかった。そして時々、あれが眞実だったのかな? とふと思うのです。
又、孫夫婦の世話になっていた高令者のことも思い出します。夕刻帰宅したら死んでいたというのです。まるでリスのように口中食べ物が詰め込まれていました。
若い夫婦、出勤を急いで大いそがしで食べ物を押し込んだのでしょう。勿論飲みこむなんて難しいです。これも届け出ませんでした。
時々老人病院へ自分のクランケを見舞いにいって、同じ状況を見ます。4人並んだ老人の口中は詰め込まれた食物で顔一ぱいふくらんでます。そして後日死亡時間を聞いて……。恐らく食物の誤嚥か窒息でしょう。

 

最後に、働く医師の皆さんへ

日本人は總てヘルシー、と私は思います。
現在40代50代の人達が、恐らく150才を超えられるでしょう。それもヨレヨレ、フラフラでなく、恐らく杖も使わないで。
老人病院で老人の取り合いっこが始まるでしょう(もう始まってるという説もある)。

さあ、元気で、動きましょう、と一言申上げます。

 

(文・梅木信子/編集・エピロギ編集部)

 

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梅木信子(うめき・のぶこ)
1920年、大分県生まれ。23歳のとき婚約者の梅木靖之を戦争で亡くす。1944年、結婚確認の裁判を経て入籍。軍人遺族特典を利用して東京女子医専に入学し、1950年に卒業。31歳で医師国家試験に合格し、大学などでの勤務を経て1960年に東京都日野市で開業。89歳で閉院し、夫・靖之との思い出の地である神戸市垂水に移住。96歳となった現在も現役で医師を続けている。

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