“医”の道を切り拓く~世界の女性医師たち~

第4回 医師から幼児教育者へ~イタリア初の女性医学博士~  マリア・モンテッソーリ

厚生労働省が2014年に発表した「医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」によれば、医師数311,205人のうち、女性は63,504人(総数の20.4%)。若い年代ほどその割合は高く、29歳以下では34.8%と3割を超えるなど、日本における女性医師の割合は年々増加を続けています。

しかし、かつての日本には、男尊女卑の慣習から女性が医師になることすら許されなかった時代がありました。この事実は、国外に目を向けても同じことがいえます。
女性に対してのみ閉ざされていた医学教育の扉。それをこじ開けるように、時代の流れに逆らうことで医師となった女性たちが、世界各地に存在していたのです。

 

日本の女医を紹介するシリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」を承継し、舞台を世界に再設定した本企画。第4回の主人公は、イタリア人女性として初めて医学博士号を取得し、世界中で知られる幼児教育法を考案した偉人「マリア・モンテッソーリ」です。

 

マリア・モンテッソーリ “子ども”に導かれ、医師を目指した女性

一つのことに打ち込む少女

1870年8月31日、イタリア・マルケ州の農業が盛んなキアラヴァレという町で、マリア・モンテッソーリは生まれます。厳格な父と大らかな母のもとで、マリアは1人娘として大切に育てられました。5歳で両親とローマへ移住した少女は、大都会でたくさんの刺激を受けて育ったといいます。

6歳のとき、マリアはローマの聖ニコロ通りの公立小学校に入学します。理数科目を得意としていた彼女は技師を目指し、13歳から技術学校(現在の王立ミケランジェロ・ブォナローティ技術学校)に通いました。
子どもの頃のマリアは一つのことに熱中する少女だったようで、特に数学に夢中だった中学生の頃は、観劇中もひたすら数学の本を読んでいたといいます。

マリアを医学の道へ導いた不思議な体験

マリアの弟子、アンナ・マッケローニによると、マリアはある“不思議な体験”をきっかけに医師を目指すようになりました(マリアのもう一人の弟子、E・M・スタンディングによれば、これは医学部入学後の体験だとされています)。

それはマリアが20歳頃の出来事でした。ある日、通りを歩いていた彼女は乳飲み子を抱いた貴婦人とすれ違います。乳児は、赤く細長い紙切れを小さな手で掴み、紙きれをゆらゆらと揺らして遊んでいました。
――なぜか、その無造作に何かを探るような乳児の手の動きから、彼女は目が離せませんでした。

マリアは後に、幼児教育者として大成する人物です。
この出来事が「子ども」という存在に対するマリアの探究心を掻き立て、それを学ぶには医学がふさわしいと感じさせたのかもしれません。
明確な理由はわかっていませんが、一説には、彼女はこの体験を機に医学の道へ進むことを決意したといわれています。

父との対立

ローマ大学医学部に進学したいと父に伝えたマリア。しかし、断固として父はその選択を受け入れませんでした。
当時、医師は男性がなるものという考えが一般的だった職業です。たとえマリアが医師になれたとしても、女性であることを理由に差別を受け、働き口を見つけられないかもしれない――。父が娘の意見を聞き入れなかったのは当然のことでした。ましてや医学校は男だけの世界。「ほかの男子学生から手荒に扱われでもしたら」などと考えて、なおさら父は娘の進路に反対したのかもしれません。

しかし、マリアは折れずに父に対抗します。そこまでして彼女が医学部にこだわった理由は明らかにされていませんが、後年の活躍から推測するに、「子どもの手助けをしたい」という使命感のようなものがマリアを突き動かしたのではないでしょうか。
マリアと父の主張は激しく対立し、次第に2人の関係は疎遠になっていきました。

それでも私は医師になる

医師になる夢を捨てきれなかったマリアは、ローマ大学の臨床医学の教授であったグウィード・バッチェッリ教授に直訴します。「医学部に進ませてもらえませんか」。彼女は教授に尋ねますが、教授の返答は“不可”。マリアの医学部進学への道は閉ざされたかのように見えました。

しかし、マリアは諦めませんでした。「必ず医学部に入ってみせる」。バッチェッリ教授の部屋を去るとき、彼女は教授に向かってそんなふうに言い放ったそうです。
一度決めたことは貫き通す強い姿勢を持ったマリアは、その後宣言通り医学部生になりました。

実は、当時のローマ大学医学部と自然科学部の最初の2年のカリキュラムはほぼ同じで、動物学や比較解剖学、一般生理学などの科目に加え、ラテン語とイタリア文学の単位を取得すれば医学部への転学が可能だったのです。2年間自然科学部で勉学に励むという“回り道”を経て、マリアは医学部進学の夢を叶えたのでした。

男子のからかいをものともしなかった医学生時代

1892年、22歳で念願のローマ大学医学部への転部を果たしたマリア。医学部に女子はマリア1人でした。異性から心ない言葉をかけられることもありましたが、マリアはひるむことなく堂々と言い返したといいます。
普通ならば傷心してしまいそうな状況ですが、父の反対を押し切り、2年間他課程で耐えてまで医学部に進んだ彼女の意志は固く、男子の冷やかし程度では揺らぎませんでした。

ただ、そんなマリアもある実習を行うときだけは強気でいられなかったようです。当時は男尊女卑の考えから、男女は同室で解剖実習を行うべきでないと考えられていました。そのため、女性のマリアは1人で解剖実習を行わなければなりませんでした。グロテスクな遺体を目前にして、初めは身が震えるほどの恐怖を感じましたが、母の励ましを受けて何とか乗り切ったといいます。

父との和解 ローマでただ1人の「女医」に

父娘の冷たい関係は、マリアの公開論文発表を機に雪解けを迎えます。大学で神経病学などを学んだマリアが提出したのは、『拮抗的諸幻覚に関する研究による臨床的貢献』というタイトルの論文でした。知人に説得され、半ば無理やり発表会場に連れて来られた父は、娘の発表を聞いて驚きました。聴衆全員から拍手喝采を受けるほど、素晴らしい出来だったからです。
娘がこんなにも周囲に評価され、成果を残しているとは――。父は、この出来事をきっかけに娘を認めるようになりました。

1896年、マリアは卒業試験を110点満点中105点という好成績で通過し、26歳でイタリア人女性として初めて医学博士号を取得します。ローマで唯一の「女医」が誕生した瞬間です。大学には男性用の卒業証書しかなかったため、卒業式ではマリアのために新たな卒業証書が作られたといいます。

マリアの30歳の誕生日には、彼女の活躍を報じた新聞記事の切り抜きを父が娘にプレゼントしたそうです。過去の疎遠な関係は解消され、父にとってマリアは自慢の娘になったのでした。

子どもの扱いに衝撃を受け、教育学に傾倒

25歳頃から臨床研究を重ね、27歳でローマ大学付属病院に精神科医の助手として配属されたマリア。しかし、彼女が現場で目にした光景は、実に悲惨なものでした。
そこには、子どもらしい教育を受けられないどころか卑下され、同じ人として平等な扱いを受けていない知的障がい児たちがいたのです。その様子にマリアは衝撃を受けました。病院の監視スタッフはパンくずをあさってはいまわる彼らを気持ち悪がり、玩具の1つも与えませんでした。

あまりの光景にショックを受ける一方、マリアはパンくずをこね回す子どもの手の動きが気にかかっていました。
一度探究心が芽生えると、傾倒せずにはいられないのがマリアの性格です。子どもたちを悲惨な状況に追いやった根本的な原因は、医学よりもむしろ教育にあると考えたのでしょうか。マリアはこの頃から教育学に傾倒し始め、知的障がい児研究の先駆者であるイタールやセガンなどの文献を読み漁りました。そうしてマリアは先人たちの研究をベースに、モンテッソーリ・メソッドを打ち立てたのです。

モンテッソーリ・メソッドとは、パズルや積み木のような「教具」を用いて、手を動かしながら五感を刺激し、知性の発達を助ける幼児教育法のこと。マリアはこの教育法を用いて実験を重ね、障がい児の知能を向上させることに成功します。当時は「教育不可能」(※)とされていた障がい児たち。その認識を覆すこの研究結果は、医学界・教育界に衝撃を与えました。
※引用元:早田由美子「モンテッソーリによる知的障害児教育研究 : E.セガンの思想との関連から」(1998年)

世界中の子どもに影響を与えたモンテッソーリ教育

1907年1月、37歳のマリアは、不動産協会からローマの貧困層の子どもたちを収容する「子どもの家」の監督を委任されます。ここでもマリア独自の教育法は効果を上げ、モンテッソーリ・メソッドに興味を持った多くの研究者が視察のために訪問。
4月には、同じローマのサン・ロレンツォ地区に、2件目の「子どもの家」が新設されました。

やがて世界中でモンテッソーリ・メソッドに対する関心が高まり、教育法の導入を試みるモンテッソーリ運動が盛んになってゆきます。
1911年、マリアは41歳で医師を辞め、本格的にモンテッソーリ・メソッドの普及に専念します。同年にはイタリアとスイスの小学校にモンテッソーリ・メソッドが採り入れられ、パリ、ボストン、ニューヨークの3都市にもモデル校が開設されました。

1910年代から1930年代にかけて、マリアはヨーロッパ各地で講演を行ったり、国際モンテッソーリ会議を開催したりと積極的にモンテッソーリ・メソッドの普及に努めました。1939年から1946年のあいだには、当時モンテッソーリ運動が興隆していたインドに住み、教育活動を実施します。
「生涯、朝8時から深夜1時まで働いた」という言い伝えが残っているほど、老齢でも精力的に活動を続けました。

子どもの“あるべき姿”を求めて

子どもの人格を尊重した教育こそが平和を実現する。そう主張し、晩年は教育を通じて世界平和を求める活動も行っていたマリア。1950年には活動の功績が認められ、ノーベル平和賞にノミネートされました。

1950年、81歳になっていたマリアは息子から「アフリカのガーナで教員養成のための人員が不足している」という話を聞きます。マリアはこう言って聞かなったそうです。
「たとえ1人でもガーナに行く」

その話をした直後、息子がマリアの部屋を訪れると、彼女は息を引き取っていたといいます。マリアは永遠の眠りにつくその瞬間まで、すべての子どもがあるべき教育を受けられる世界を目指し、行動し続けたのでした。

 

世界の著名人に与えた影響

マリア・モンテッソーリは医師から教育者に転向し、それからは生涯「子どもの教育」に心を傾けた女性でした。『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクや、時のアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの夫人ジャクリーン・ケネディ、さらにはAmazon創業者のジェフ・ベゾスやGoogle創業者のラリー・ペイジとセルゲイ・ブリン、Wikipedia創業者のジミー・ウェールズもモンテッソーリ教育を受けた人物として知られています。
彼女がモンテッソーリ・メソッドを生み出すことがなければ、世界の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

 

(文・エピロギ編集部)

 

<参考>
H・ハイラント 著 平野智美・井手麻理子 訳「マリア・モンテッソーリ―その言葉と写真が示す教育者像」(東信堂、1999) オムリ慶子、前之園幸一郎、早田由美子「イタリア教育研究におけるモンテッソーリの思想:新しいモンテッソーリ像の発見(ラウンドテーブル6,発表要旨)」(2015)
http://ci.nii.ac.jp/els/110009999595.pdf?id=ART0010554802&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1479778377&cp=
学校法人広島信望愛学園「マリア・モンテッソーリ 略史」(2015)
http://www.hiroshima-shinbouai.ed.jp/honbu/wp-content/uploads/2012/11/db8a1862ad9ff4dc18196057c45d2369.pdf
コトバンク「マリア・モンテッソーリ」(2012)
https://kotobank.jp/word/マリア・モンテッソーリ-190091
日本モンテッソーリ教育綜合研究所「マリア・モンテッソーリについて」
http://sainou.or.jp/montessori/about-montessori/index.php
日本モンテッソーリ協会「モンテッソーリとは」
http://montessori-jp.org/montessori.html
早田由美子「モンテッソーリによる知的障害児教育研究 : E.セガンの思想との関連から」(1998年)
http://ci.nii.ac.jp/els/110000978898.pdf?id=ART0001153969&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1483612199&cp=
前之園幸一郎「マリア・モンテッソーリの自己選択」(2004)
http://ci.nii.ac.jp/els/110001050368.pdf?id=ART0001213095&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1479774158&cp=
前之園幸一郎「マリア・モンテッソーリと祖国イタリア」(2006)
https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD90039160/Body/link/y60u0153-176.pdf
正岡里鶴子「マリア・モンテッソーリ小伝」(2013)
http://seiiku.shisei-hoiku.jp/contents/monte/photo/monte-course.pdf

 

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