ノーベル賞で辿る医学の歴史

第6回 時代に翻弄された奇跡の粉・DDT

「その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする」
アルフレッド・バルンハート・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞。その一分野である医学・生理学賞の受賞を振り返ると、人類と病の闘いの歴史であることがわかります。
いまでは当然と思われている医学の常識が成立するまでに、研究者たちは多くの困難を乗り越えてきました。その苦難の歴史、医学の発展の歴史を紹介します。
第6回は殺虫剤DDTの歴史をたどります。現在は自然環境に配慮してほとんど使われていませんが、第二次世界大戦中から戦後にかけて、多くの命を救った奇跡の粉でもありました。

スイスの化学者、ミュラーの大発見

戦中から戦後にかけて流行した“発疹チフス”はシラミが媒介する感染症で、別名「戦争熱」とも呼ばれます。発熱や頭痛などの症状を呈し、赤い発疹が手足に広がるのが特徴。現在は抗生物質が開発され致死率も低い病気ですが、戦時中は医療技術が未熟であったことから、たくさんの命が奪われました。戦争が終わっても流行は止まらず、多くの命が危険にさらされました。

1935年、スイスの製薬企業ガイギー社(現ノバルティス社)の染料研究所に、一人の化学者の姿がありました。彼の名はパウル・ヘルマン・ミュラー。衣類を虫から守るための殺虫剤開発に携わっていた人物です。

ミュラーは大変研究熱心な青年でしたが、実験は失敗ばかりで試行錯誤の連続だったといいます。同僚たちがその熱中ぶりを揶揄して「ハエのミュラー」と呼んだほどです。

しかし、ミュラーの努力は思わぬ形で実を結ぶことになります。
ある朝、実験用のガラス瓶の中で虫が全滅しているのを発見したミュラー。慌てて原因を調べると、実験の溶媒として用いていたDDT(Dichloro-diphenyl-trichloroethane:ジクロロジフェニルトリクロロエタン)に非常に強力な殺虫効果があることが分かりました。求めていたものは身近なところにあったのです。ミュラーがこれを発見したのは、第二次世界大戦が勃発した1939年のことでした。

 

世界各国で活躍したDDT

ミュラーの発見――DDTの殺虫効果――に真っ先に注目したのはアメリカ軍でした。アメリカ政府はDDTの効能を調べるため昆虫学者を派遣。その結果、DDTはごく少量でも驚異的な殺虫効果を持つ上、1カ月以上効果が持続すること、さらに人間に毒性がないことが判明しました。「安価」「少量で効果を発揮」「人間に無害」の三拍子が揃ったDDTは実に好都合で、すぐに実用化の準備が進められました。

「この薬は戦場を一変させる」。アメリカ軍はそう確信しました。
当時、戦場は衛生環境が悪くシラミやダニが繁殖し放題。チフスをはじめとした感染症の流行は避けられず、“弾丸よりも感染症で亡くなる兵士の方が多い”と言われたほどです。感染の根源を断つことは、一門の大砲かそれ以上の戦力となったことでしょう。

1944年、アメリカ軍がいたイタリアでもチフスが流行の兆しを見せていました。そこで軍はDDTを130万人に散布してパンデミックを防ぎます。この作戦が功を奏したか、連合軍はイタリア侵攻で見事勝利を収めました。

もちろん、疫病の危機に晒されていたのは枢軸国も同じ。大陸の戦場やユダヤ人収容所でも発疹チフスが蔓延しました。『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクも、この病気で命を落としたとされています。

日本では太平洋戦争中にチフスが流行しました。終戦後もその勢いは衰えず、1946年には患者数が3万人を超す事態に。そこで1947年からGHQはDDTの散布を開始。子供の頭に薬品を噴霧する姿はニュース映画として報道されたので、ご存じの方も多いでしょう。この処置により、日本では推定200万人に及ぶ人命が救われたといわれています。

終戦から3年後の1948年、ミュラーは「節足動物に対するDDTの毒作用の発見」でノーベル生理学・医学賞を受賞しました。ちなみに賞金は、全額を研究資金として若き後輩たちに譲ったそうです。

 

DDTの危険性を指摘した『沈黙の春』

やがてDDTは農薬として活用されます。強力な殺虫効果に期待が高まりましたが、1962年に出版された『沈黙の春』(レイチェル・カーソン著)が、DDTの評価を一変させました。

『沈黙の春』はDDTを代表とした合成化学物質の危険性を指摘したものです。特に強力な殺虫作用を持つDDTによって、自然界の生命が脅かされていることがあらわになりました。これはDDTの力を過信し、必要以上に薬剤を振りまいた人間の責任といえるでしょう。
この本は大きな反響を呼び、危惧した世界各国が相次いでDDTの製造・使用を禁止しました。

現在DDTの使用には制限がかけられ、WHO推奨のもと、発展途上国のマラリア対策として用いられています。しかし、DDTに耐性を持つ昆虫も増えており、「かつてと同様の効果を発揮できるのか?」という疑問の声も。DDTに頼らない感染予防策を探る一方で、マラリアのワクチン開発が期待されています。

 

まとめ

ミュラーは『沈黙の春』が出版された1962年に企業研究者として一線を退いたものの、1965年に心臓発作で亡くなるまで研究を続けたといいます。彼は生涯をかけて、あらゆる感染症を駆逐する「完璧な殺虫剤」を追い求めていたのかもしれません。
命尽きるまで自らの研鑽を怠らなかった彼の姿勢は、研究者の鑑ともいえるでしょう。

 

(文・エピロギ編集部)

 

<参考>
サイエンスジャーナル「生物濃縮を起こす環境ホルモン「PCB」「DDT」「PCDD」とは何か?」
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/930219.html
サイエンスジャーナル「第48回ノーベル生理学・医学賞パウル・ヘルマン・ミュラー「DDT殺虫効果の発見」」
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/4689586.html
日本学術会議 おもしろ情報館「ミューラー先生とDDT」
http://www.scj.go.jp/omoshiro/nobel/muller/muller2.html

 

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