“医”の道を切り拓く~世界の女性医師たち~

第1回 台湾初の女医 蔡阿信

産前産後休暇や育児休暇は取得すべきか。院内保育所や託児所は設置されているか。
現代日本における女性医師が抱えているのは、このような仕事と育児の両立に関する悩みではないでしょうか。
しかし、かつての日本には、男尊女卑の慣習から女性が医師になることすら許されなかった時代がありました。この事実は、国外に目を向けても同じことがいえます。
女性に対してのみ閉ざされていた医学教育の扉。それをこじ開けるように、時代の流れに逆らうことで医師となった女性たちが、世界各地に存在していたのです。

 

日本の女医を紹介するシリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」を承継し、舞台を世界に再設定した本企画。第1回の主人公は、その一生が小説・ドラマ化されている台湾出身の女性医師「蔡阿信(さい・あしん)」です。

 

蔡阿信 台湾人女性として初めて医師になった人物

シンプアに従わなかった幼女

1899年、まだ日本に統治されていた台湾で、蔡阿信は生を受けました。5歳で父を亡くした彼女は、シンプアという制度によって牧師の家に送られます。シンプアとは、女の子が幼いうちに将来の結婚相手を決められる制度。将来夫となる男児の家に引き取られ、成人するまで育てられたあとに結婚するという、中国や台湾の古い婚姻様式です。
見知らぬ男児の家に送られた蔡阿信でしたが、彼女がそれで結婚することはありませんでした。幼いながらに「決められた結婚」を嫌がったのでしょうか、自分で家まで戻ってきたといいます。

優秀だった学生時代

8歳のときに「大稻埕公學校」で日本語を学習し、12歳でキリスト教による台湾初の女子学校「淡水女學校」に入学した阿信。第1期生として入学した彼女は最年少の学生でしたが、物理、数学、英語を得意としていました。

その優秀な成績が評価されてか、阿信はカナダ人の女性教師から日本の医学部への留学を勧められました。ところが、母親に反対されてしまいます。 若い女性が1人で海外に行くなんて危険だ。今のように平和ではない時代のこと、母親がそう危惧したのは当然のことでしょう。
しかし、阿信は反対を押し切って日本へ渡ったのです。

日本への留学

まずは「立教高等女学校(現在の立教女学院)」で2年間、阿信は日本語を学習しました。その後、1917年に「東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)」に入学。
当時、台湾からの留学生は100名ほどいたそうですが、女性の数はごくわずかだったといいます。

女性が少ない状況に恥ずかしさを感じることもあったようですが、この頃、阿信は未来の夫となる彭華英と出会いました。
彼は台湾民族運動に参加する青年の1人でしたが、阿信は政治的な運動には参加しなかったようです。

芽生えた“ひとの気持ちに寄り添う心”

阿信が台湾に戻ったのは1921年のこと。日本の医学部に留学して医師となった女性の帰国を迎えたのは、多くの記者でした。翌日の新聞には、こんな見出しが踊りました。
「萬綠叢中一點紅(紅一点)」
「華陀再世,見面病除(華陀の生まれ変わり、見るだけで病気が治る)」
当時は、彼女の服を真似して着る人が現れるほどの人気ぶりだったようです。

阿信の専門は婦人科で、台湾では「日本赤十字社台湾支部病院」での勤務を希望していましたが、空きがなかったため、眼科医のもとで働くことになりました。
このときの実習で、彼女は目隠しをして3日間、ベッドの上に寝かされたといいます。目的は、目の見えない患者さんの不便さ、心細さを感じるため。ここでの経験が、彼女に“ひとの気持ちに寄り添う心”を芽生えさせたのかもしれません。

医院の開業と学校の開設

1924年、阿信は台北市日新町の自宅で医院を開業し、その年に彭華英と結婚しました。1926年には台中市に清信醫院を開院。このときまだ27歳でした。夫は医院の経営や管理を行っていたようですが、すれ違いがあったのか、後に離婚しました。

阿信の医院では、すべての人が同じ料金で診療してもらえるわけではありませんでした。基準は、こうです。
「富者多收(お金持ちはたくさん取る)、貧者少收(貧困者からは少し取る)、赤貧免費(極めて貧困の人は無料)、赤貧的產婦生完小孩之後,還免費贈送兩套嬰兒衫和幾罐鷹煉乳(極めて貧困の妊婦が子供を産んだら無料になるほか、赤ちゃんの洋服2着とミルク缶をプレゼント)」

また、阿信は自分の医院に「清信產婆學校」という学校を開設しました。半年ごとに30名の学生を受け入れ、1年間学習させ、助産師を育てたのです。食事も寝泊まりも医院でできる。学生にとってはありがたい環境だったことでしょう。
阿信の教育のおかげで、たった数年のあいだに数百人の助産師が誕生しました。

戦争が邪魔した母国での医師活動

台湾の医療界に貢献した阿信の医院と学校は、しかし、長くは続きませんでした。1937年、大東亜戦争が勃発したのです。
母国での医療活動に限界を感じたのでしょう、阿信は翌年1938年に渡米。39歳の彼女はハーバード大学の医学部に研究の場を求めたのでした。

1941年にはカナダを訪問。太平洋戦争の影響で台湾に戻れなかったため、バンクーバーの「セイント・ヴィンセント病院」で医師として働きました。このほか、日本の統治下に生まれた彼女は日系人であったことから、日系人収容所の医師も務めたようです。
1949年にはカナダ国籍のギブソン牧師と再婚。その4年後、バンクーバーでの定住を決意しました。

母国のために高齢で設立した慈善団体

1982年、阿信は83歳という高齢で、母国台湾に「財団法人至誠社会福祉基金」を立ち上げました。私財をなげうって、友人とともに設立した基金です。身寄りのない老人や寡婦の精神的・身体的な相談に乗ることで、彼女は多くの人を助けました。
こうした慈善の精神は、医師になりたての頃に実習で得た、“他人に寄り添う心”のおかげだったのかもしれません。
1990年、阿信はカナダの病院で息を引き取りました。91歳、大往生でした。

 

母国を想い続けた女性医師

台湾初の女性医師とされながらも、母国で医師を務めた期間はそれほど長くなかった蔡阿信。医師として成熟する頃には、すでにカナダの医療に従事していました。
医師であり続けるには国を出なければならない。高齢にもかかわらず医療の枠を飛び超えて慈善団体を設立した彼女の心にあったのは、母国を去ったことに対する償いの気持ちか、医師としての矜持か。
戦争という悲劇に道を阻まれながらも、蔡阿信は最期まで、国を想い続けたのでした。

 

(文・エピロギ編集部)

 

 

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