ノーベル賞で辿る医学の歴史

第13回 ナチスに阻まれた受賞~兵士を救った魔法の赤い粉・サルファ剤

「その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする」
アルフレッド・バルンハート・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞。その一分野である医学・生理学賞の受賞を振り返ると、人類と病の闘いの歴史であることがわかります。いまでは当然と思われている医学の常識が成立するまでに、研究者たちは多くの困難を乗り越えてきました。
今回紹介するのは、第二次世界大戦で多くの兵士を細菌感染から救ったサルファ剤。薬を開発したのは、あるドイツ医師です。そこには、ノーベル賞を受賞するもナチス・ドイツに受賞辞退を強制されるなど、戦争に翻弄された歴史がありました。

 

第一次世界大戦の悲劇

第一次世界大戦において、数十万人の兵士の命を奪った原因をご存知でしょうか。それは創傷による細菌感染やガス壊疽であり、銃撃戦で亡くなった兵士の数よりも多かったとされています。
しかし、第二次世界大戦では一転して、感染症等による犠牲者の数が大幅に減少しました。殺虫剤(DDT)や抗生物質(ペニシリン)が登場し、シラミなどの感染源や細菌そのものを駆逐できるようになったためです。これら抗菌薬の類は、戦中・戦後に多くの命を救いました。

特に、1939年にスイスで開発されたDDTは間もなくアメリカ軍の手に渡り、感染症から兵士の命を守りました。一方で、抗菌剤を入手できない国は感染症のパンデミックで戦力を削がれ、じわじわと疲弊していきます。「奇跡の粉」と賞賛されたDDTは、連合国を密かに勝利へと導いたのです。

これと同様に、第二次世界大戦の戦況を大きく左右した薬があります。それがナチス政権下のドイツにて開発された「サルファ剤」です。
世界で最初のサルファ剤を発見したのは、ドイツ東部出身の医師ゲルハルト・ドーマクです。彼は1913年にユトランド半島にあるクリスティアン・アルブレヒト大学キールの医学部に入学した後、第一次世界大戦で衛生兵として従軍します。1915年に負傷したことで戦線から遠のき、復学して医学の道へ進みました。

ドーマクは、戦場で負傷した兵士の多くが、創傷からの感染で命を落とすことを知りました。衛生状態の悪い戦場では感染症が蔓延しやすく、破傷風菌やブドウ球菌、連鎖球菌などが兵士の命を脅かしていたのです。この現実を目の当たりにしたドーマクは、抗菌薬の研究に興味を持ちます。

同じ頃、イギリスのアレクサンダー・フレミングも医師として第一次世界大戦に参加しました。多くの兵士を看取ったフレミングは細菌学の道に進み、後に抗生物質となるペニシリンを発見します。当時のドイツとイギリスは敵国同士でしたが、医師を志す2人が求めるものは不思議と一致していたのです。

 

赤い染料から発見された抗菌薬

大学を卒業したドーマクは、複数の大学で病理講師を歴任。その経験を活かし、1927年にドイツの製薬企業バイエル社(後に他社と統合してIGファルベン社となる)に就職します。彼はここで細菌感染に対する治療薬の研究に取り組み、1932年に染料の赤色プロントジルという粉末に抗菌作用があることを発見しました。赤色プロントジルから抗菌薬(サルファ剤)を作り、連鎖球菌に感染したマウスの治療に成功したのです。サルファ剤は「魔法の赤い粉」として、医学界で大きな話題となりました。そしてフランスを始めとしたさまざまな国がサルファ剤の実用化に乗り出します。

しかし、ドイツはサルファ剤研究において一つ大きな勘違いをしていました。それは、サルファ剤の抗菌作用が赤色プロントジルの「色素」にあると考えていた点です。実は、抗菌作用は赤色プロントジルが体内で分解されてできる「スルファミン」という物質にあります。1935年にこの事実を突き止めたのが、フランスのパスツール研究所でした。フランスはドイツにとって長年覇権を争ってきた相手ですから、フランスに出し抜かれたと知ったときの研究チームの落胆は計り知れないものでした。

 

愛娘を救うための挑戦

1935年12月、クリスマスムードに湧いていたドイツのとある病院に、一人の少女が搬送されます。少女の名前はヒルデガルドといい、ドーマクの娘でした。階段から落下し怪我をしたため、処置を受けに来たのです。しかし、彼女は傷口から連鎖球菌に感染して高熱を出し、意識を失う重体に陥ります。腕には膿瘍ができ、小さな命は死の危機に瀕していました。
「大事な娘の命を失うわけには行かない」――ドーマクは一世一代の決断をします。実用化されていない、研究中のサルファ剤を娘に投与したのです。このサルファ剤は動物実験の段階で、人体における効果や安全性は保証されていませんでした。しかし、彼は医師として、何より父親として目の前の娘を救いたいと考えたのでしょう。

ドーマクの英断が功を奏して、ヒルデガルドは見事生還を果たします。その後、サルファ剤の実用化が進み、1936年頃からドイツをはじめとした欧米各国で薬として用いられるようになりました。第二次世界大戦下の1943年には、イギリス首相チャーチルも重篤な肺炎から救われています。もしサルファ剤が開発されていなければ、第二次世界大戦は史実と違う結末を迎えていたかもしれません。

 

第二次世界大戦とサルファ剤の衰退

1939年、ドーマクは「プロントジルの抗菌効果の発見」によりノーベル賞を受賞します。しかし、当時はヒトラーがドイツ人のノーベル賞受賞を禁じていました。
ノーベル賞といえば研究者にとって最大の名誉です。
「この機を逃せば後はない」
そう考えたドーマクは政府に抗う姿勢を見せます。するとたちまちゲシュタポ(※)がやってきて、彼に手錠をかけました。ノーベル賞選考委員会も、ドイツ人の受賞を許可するようドイツ大使館に掛け合いますが、その訴えは届きません。
結局、ドーマクはゲシュタポに強要されるまま受賞を辞退します。彼と同様に複数の辞退者がドイツから出たこと、そして第二次世界大戦の影響もあり、1939年のノーベル賞授賞式は中止になりました。
※ナチス・ドイツ期の警察の中にあった秘密警察部門。

ドーマクの不幸と重なるように、サルファ剤も衰退の様相を見せます。
例えばアメリカのマッセンギル・アンド・カンパニーの事件があります。この企業は、サルファ剤を飲みやすくするために工業用溶媒を混ぜて「エリクシール」という名前で販売しました。しかしその溶媒が原因で腎不全が起こり、67名の犠牲者が出ました。エリクシールは子どもによく用いられたため、その犠牲者の多くが幼い子どもや若者でした。この悲劇をきっかけに、アメリカではFDA(米国食品医薬品局)が設置され、新薬の承認・認可制度が設けられました。

また、サルファ剤の構造が単純だったことから1938年頃より耐性菌が表れました。それに代わって、フレミングが発見したペニシリンなどの抗生物質が用いられるようになります。サルファ剤よりも優れた効果を持ち、耐性菌の発生も比較的遅かったペニシリンがその地位に取って代わりました。第ニ次世界対戦では連合軍がサルファ剤やペニシリンを携帯し、創傷からの壊疽や敗血症を防いだとされています。これらは感染症による死者の減少に大きく貢献しました。

 

まとめ

このように、サルファ剤が医学の世界を席巻したのは歴史の一瞬でしかありません。しかし、その存在が残した功績は偉大なものです。多くの民衆や兵士を細菌感染の脅威から救い出しました。また、サルファ剤の誕生は製薬のフローを整え、FDA設置を促しました。薬の販売に関する法律が整備され、新薬開発のビジネスモデルを築くきっかけとなった存在ともいえます。

なお、ドーマクは終戦後の1947年に改めてノーベル賞を受賞します。ヒトラーの弾圧に涙を呑んだあの日から8年、ようやく彼の努力は報われ、世界的な評価を受けるに至りました。スウェーデンで行われた授賞式では、1939年にドーマクが受賞のためナチスに抗ったことについても言及されています。選考委員会は、彼が優秀な医師であるとともに、人道主義者かつ平和主義者であると称えたのです。
戦争や弾圧に挫けず、最後に栄誉を手にしたドーマク。彼の日記には、こんな言葉が刻まれています。
「最後には上手くいく。嵐や雨の日はあるけれど、太陽は決してなくならない」

(文・エピロギ編集部)

<参考>
トーマス・ヘイガー(著)、小林力(訳)『サルファ剤、忘れられた奇跡』(2013年、中央公論新社)
サイエンスジャーナル「第39回ノーベル生理学・医学賞 命を救った赤い染料「プロントジル」の抗菌効果!」
http://sciencejournal.livedoor.biz/archives/4468174.html
連載JP「第39回ノーベル生理学・医学賞 命を救う赤い染料、「プロントジル」に抗菌効果発見!」
http://rensai.jp/50494
メディカルα「第26回 抗生物質」
http://www.bs-tbs.co.jp/alpha/archive/26.html
紀伊國屋書店 HONZ「歴史をかえた魔法の弾丸 『サルファ剤、忘れられた奇跡』 」
https://www.kinokuniya.co.jp/c/20130410112044.html
佐藤健太郎「歴史を変えた医薬品」第9回 サルファ剤と二つの世界大戦
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38101?page=6
バイエル薬品株式会社 会社概要
http://byl.bayer.co.jp/html/images/upload/company/corporate_profile/bayer_co.pdf

 

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