医師と自然写真家、二つの視点で“いのち”を見つめて【後編】

井上 冬彦(井上胃腸内科クリニック 理事長・院長/自然写真家)

一九九七年、アマチュア写真家の最高賞と謳われる林忠彦賞に一冊の写真集が選出されました。『サバンナが輝く瞬間(とき)』と題された本には、雄大なサバンナの自然と、そこで暮らす動物たちの姿が収められています。動物たちの生き生きとした表情が高く評価された作品ですが、その写真集を作り上げたのは、当時大学病院に勤めていた医師・井上冬彦氏でした。
医師と写真家――この二つの仕事は、一見何のつながりもないように見えます。しかし、井上氏は三十年以上もの長い年月を掛けて、医業と写真家業に本気で取り組み、双方に通じる「癒し」と “いのち”について問い続けてきました。その挑戦は現在も続いています。

二つの視点で「いのちの表現者」を目指す井上冬彦氏に文章をお寄せいただきました。前編・後編に分けてお届けします。

 

生命の表現者を目指す

家族の病気や目指す医療とのギャップにストレスを抱えながら苦難の日々を続けていたが、写真活動は順調だった。
二〇〇〇年には二冊目の写真集『サバンナの風に吹かれて』を出版し(ページトップの写真はその表紙に使用)、プロとしての活動も始めた。
その出版記念写真展で次なる転機が訪れた。ある女性が涙を流しながら会場を巡った後に書いてくれた感想文には、「すべてのいのちはつながり、私もその大きな流れの一部。その気付きに勇気付けられた (一部抜粋)」と書かれていた。
私の写真を観て、生命の本質を感じる人がいる……。この瞬間、私の中に「生命の表現者を目指したい」という想いが湧き上がってきた。

当時、サバンナで大自然の営みを観ていると、生が死に、死が生に変化しながら悠久の時を生きているもう一つの生命の存在を感じるようになっていた。その生命を私は“いのち”と呼び、それが生命の本質だと感じていた。

一方、通常の生活や医療の現場では、われわれが通常思っている“命”に向き合わざるをえない。多くの人が生命そのものと思っている現実的な“命”であるが、本当にその生命観で良いのだろうか。確かに、命を守り、延長させようとする医療が人の幸せに貢献しているのは事実だろう。しかし、医療の光の部分ばかりを重視し、闇から目を背けることで本質を見失っているのではないだろうか、という思いもあった。
医療の進歩がもたらした爆発的人口増加。それが生む深刻な環境破壊。今の地球では人間のおこないによって、地球誕生以来六度目の大量絶滅が進行していることをほとんどの人が知らないか、知っていても見ないふりをしている。

 

画像3

画像3 写真集『Love Letter』表紙写真

 

“いのち”と“命”の関係はどうなっているのだろうか。当時はよく分からなかったが、「目を背けず、自然を見つめ続けていれば、やがてみえてくるはず」と感じ、サバンナに通い続けた。
思索を重ねて三年後に出版したのが三冊目の写真集『Love Letter』だった(画像3)。写真のキャプションは動物のことではなく、“いのち”のメッセージのみを書くつもりだった。文章は湧いてきた。それまでの思索の蓄積もあっただろうが、ちょうど執筆中に妻は、生まれることなく死んでいった我が子の遺灰を持って四国一周・歩き遍路の旅に出ていた。妻と子に思いを馳せているうちに、“いのち”の文章は天から降るように湧いてきた。

 

第三の転機・開業

その翌年、三度目の転機が訪れた。二〇〇五年に自分の医療を目指すために、五十歳で開業を決意したのである。
当時は、医局時代の先輩の経営する消化器内視鏡専門病院に移って七年が経っていた。そこは自分の専門性が活かせるだけでなく、年に二回、三週間ずつの取材休暇が許されるという最高の環境だった。休みをとることに対してまったく気兼ねがなかったわけではないが、今までの環境に比べると格段にストレスは少なかった。「自分の目指す医療からは少し離れている」という思いはあったが、何かを得るには何かを捨てなければならない。「両立するためには多少の妥協はやむを得ない」と思っていた。

だが、五十歳になり、医療と写真の両立にあたって最高の環境にいるがゆえの惰性にも気付き始めた頃、それまで順調に来ていた写真活動の依頼が急に減った。これは何かのメッセージなのだろうが、すぐに行動に移れなかったのは、あまりにも恵まれた環境にいたからだ。しかし、妻は私の惰性を見抜いていた。「自分の医療を目指すためのラストチャンス」と開業を勧めてくれた。この言葉は、「このままでは両者とも中途半端に終わってしまう」と漠然と感じていた私に開業を決断させたのである。

五十歳という年齢に対する不安、あれほど執着していたアフリカでの写真活動を断念せざるを得ない無念さはあったが、決断後の行動は早かった。医師として進化することが、写真家・表現者としてさらに一歩進むことだと思えたからだ。写真から一時撤退し、より困難な環境に身を置いたとしても、乗り越えて再びアフリカに行ける環境を作ってみよう。それが今の私がすべき選択と判断し、開業準備に取り掛かった。

一年の準備期間を経て、横浜市綱島に井上胃腸科・内科クリニックを開業した。
私の医療に対する姿勢が受け入れられたのだろう。初めから多くの患者さんが訪れ、経営的にはすぐに軌道に乗った。

 

開業後の生活

開業後大変だったのは、自らの心身の管理だった。もとから呼吸器や消化器が強いわけではなく、大病はしないものの、風邪をひきやすく、おなかの不調は日常茶飯事だった。
開業当初は忙しさと不慣れな経営者としての心労から感染症を繰り返した。感染を起こすと疲労は何倍にもなる。自分の目指す医療をおこなうためには心身の安定が不可欠なのに、疲労困憊していてはどうしようもない。良い医療どころではなかった。悪戦苦闘の日々が続き、年に一~二回ほど軽いうつ状態にもなっていた。

救ってくれたのは妻だった。疲労困憊し、しゃべる気力もなく帰宅する私を、休日になると山歩きに連れ出した。歩きたくない気持ちに鞭打って、日光を浴びながら、朝から夕まで歩き通した日々。息を切らしながら坂道を上る時は無心になれた。深く規則的な呼吸は脳内のセロトニンを増やしていったのだろう。その日は疲れ果てて帰宅しても、数日すると抑うつ気分は軽くなり、それを何度か繰り返すことで抜け出すことができた。
ヨガや体幹トレーニングなどを勧めてくれたのも妻だった。
このような経験を経て、心身の安定を図るために始めたのが、日々のウォーキング(今も仕事帰りは三駅間歩いている)、ヨガ、呼吸法などだった。これらを繰り返すことで、体調不良の日はあきらかに減っていった。これらの実践から得た知識は、「治癒力を高める」という自分の医療の幅を格段に広げていったことは間違いない。
私の解剖学的弱点である体のゆがみや股関節の硬さ、睡眠時の口呼吸、鼻閉などが、さまざまな身体症状や自律神経の不安定さに関係していることも分かってきた。その対策を学び続け、得た知識・手法がどれほど日常診療の役に立ってきたことか……。
さらに胃腸の弱い自分が、自らを実験台にしておこなってきた食養生法は、胃腸科専門医として臨床の幅を広げてくれた。噛み方の悪さ、糖質の摂取過剰(痩せているのだが)、乳製品やパン小麦(通常の小麦よりグルテン量が各段に多い)などがおなかの弱い私の腹部症状の原因であることが分かってきた。これらの経験は、近年激増している胃腸の機能障害や逆流性食道炎の理解と治療に、論文などでは学べない多くのことを教えてくれたように思う。「世の中で体に良いと言われている食品の多くは、実はおなかの弱い人には合わない」のだ。よく噛み、食事内容を変えるだけで、驚くほど症状は軽減することを学んでいった。

このように開業後の激務とストレスまみれの生活は、自己管理の大切さを再認識するきっかけになるとともに、そこでの学びが臨床力アップにつながり、目指す医療に一歩ずつ近づく原動力になってきたように思う。
また、院長として徹底的に忍耐・寛容を学んだことは大きく、明らかに精神的に鍛えられた。
六十歳を超えた今でも年々医療の質の向上を自覚できているのは、開業し、より困難な状態に身を置きながら挑戦し続けたおかげだと思っている。
「向いていない」と思いながら続けていた医師の仕事も、「心身が敏感すぎる自分だからこそ分かることも多く、同様の体質の患者の不調の原因に気付いてあげられる」と解釈できるようになり、ようやく天職・ライフワークと思えるようになってきた。
いまだに人事面での苦労は絶えないが、スタッフは増え続け、今では二十人を超えている。
経営的には順調で、九年目の二〇一五年には徒歩一分圏の場所に拡張・移転した。
新たな夢として掲げていたのが、機能的なクリニックと写真美術館の融合だった。そのコンセプトをもとに設計し、癒しの空間を目指して院内には約七十点の写真パネルを展示している。

 

写真表現活動の本格再開

アフリカ取材自体は、予想よりはるかに早い開業一年目から再開することができた。
三年目にはパートで勤めていた現副院長を常勤に迎えた。以後、年に一~二回のペースで取材に通わせてもらっていたので作品はたまっていったが、本格的に写真家活動をするには時間的にも体力的にも厳しかった。写真展や執筆依頼があれば応じる程度に自粛していたが、途切れることなく依頼が続いていたのは、「まだやめるな」というメッセージだったのだろう。細々と続けながらも、本格的に再開の機会を狙っていた。

開業九年目におこなった移転も一年で落ち着き、生命に対する思索も深まってきた六十歳を契機に写真・表現活動を本格的に再開しようと思った。
一年の準備の後、久しぶりに大きな写真展を開き、一週間の会期中に約一万人の方が来場され、次の写真展の開催にもつながった。

 

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画像4 写真集『Symphony of Savanna』表紙写真

 

翌年には写真活動三十周年記念となる大規模企画展を開催することができ、十三年ぶりとなる四冊目の写真集『Symphony of Savanna』の出版(画像4)も実現した。
この本で、長年問い続けてきた生命について、「自分なりに答えが出せる」と思っていた。しかし、いざ出来上がってみると、これはあくまでも写真集。生命、すなわち“いのち”と“命”の関係について、多くの人が分かるように表現することは困難だった。
その矢先に、次の企画が舞い込んできた。有名な教科書メーカーから「子ども向けのいのちの写真集を」という声が掛かったのである。編集スタッフと検討を重ね、写真絵本(写文集)の形にすることにした。コンセプトは、自然の摂理の理解といのちの意味を伝えること。その難解なテーマを、子どもから大人まで平易に読めるようにするために苦心したが、私の三十年の思想の集大成として初めて満足できる表現ができたと思っている。この写文集『マイシャと精霊の木』は二〇一八年七月二十日に出版された(写真5)。

 

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画像5 初めての写文集(写真絵本)『マイシャと精霊の木』

 

この制作中に次なる目標もでき、新たな挑戦が始まっている。
それは愛するセレンゲティ・ンゴロンゴロを、生き物やいのちの視点ではなく、美の視点から表現するという試みだ。非常に大きなテーマだが、挑戦するやりがいも大きいとわくわくしている。

 

エピローグ

この三十年以上の取り組みの中で学んだもっとも大切なことは何だろうか。
それは、好きなことに打ち込みながら命を燃焼させていく過程で、その行為が自らを癒し、その行為や成果が他者を癒せば、さらに癒しのレベルが深まっていく、ということだ。
自らを癒し、何らかの形で他者を癒すものをライフワークというのだろう。その意味で、二つのライフワークを持てたことはとても幸せなことだと思っている。
また、まったく違う視点で生命を見続けたことは、光と闇が折り重なって出来ているこの現実社会を両面から見る目を養ってくれたと思っている。

六十歳を過ぎ、ようやく森羅万象の理が少しずつ分かりかけてきたように思う。
非現実に思える“いのち”が本質で、“命”は脳が創った幻影だが、紛れもない現実なのだ。人間の向かう方向性は、その両者を生きる自覚を持つことではないか……。具体的には、自らの欲望を肯定しつつも、過剰にならず、他者のために生きることなのだろう。そして、死んだら自然の循環に還ること。それは本当のいのちになることで、究極の癒しなのかもしれない。最近、そう思うようになってきた。

 

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井上 冬彦(いのうえ・ふゆひこ)
(医)井上胃腸内科クリニック理事長・院長。日本内科学会認定医、日本消化器病学会認定専門医、日本消化器内視鏡学会専門医・指導医。
1979年東京慈恵会医科大学卒後、1992年同大学第三病院内科講師。恵仁会・松島クリニック診療部長を経て2005年井上胃腸科・内科クリニック(現・井上胃腸内科クリニック)を開院。
1996年に写真集『サバンナが輝く瞬間(とき)』を出版し第6回・林忠彦賞を受賞。クリニックの院長を勤める傍ら、複数の写真集を出版するなど自然写真家としても精力的に活動している。いのちの表現者を目指し、2018年7月、初の写文集(写真絵本)『マイシャと精霊の木』出版。
『マイシャと精霊の木』
写真・文:井上冬彦
発行所:光村図書出版
発行日:2018年7月20日 初版第1刷
内容:
自然界は弱肉強食といった単純な図式ではなく、もっと複雑なバランスの上に成り立ち、われわれが思っている命は大きな生命の一部を見ているにすぎません。
本書は、この哲学的で難解なテーマを、マサイの少年マイシャが精霊の木との対話のなかで学んでいく寓話形式で表現し、子どもに分かる内容に昇華させています。
読後には、きっと新しい自然観、生命感を得ることができるでしょう。
『Symphony of Savanna』
写真:井上冬彦
発行所:新日本出版社
発行日:2016年12月 初版第1刷
内容:
生命とは何か。
その深い思想に裏付けられた精緻な写真には、動物の生態写真を超えた何かを感じる人がたくさんいます。
サバンナの美しい光景とそこに生きる生き物たちが発する無言の声から、深遠な生命の意味を感じてみてください。

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