育児の経験は医師としての自分を育てる糧になる。【前編】

~3人の子どもを育てながら臨床・研究の現場で働く~

大西 由希子 氏(朝日生命成人研究所 治験部長 糖尿病代謝科)

朝日生命成人研究所に勤務する大西由希子医師は、9歳(男児)、14歳(女児)、16歳(男児)の3人の子どもをもつ母として子育てをしながら、臨床と研究、そして治験のマネジメントという重責をこなす医師として活躍されてきました。

子育ての中で人の温かさを知り、自分自身も成長してきたという大西医師。医師が母として働く苦労や子育ての喜びについて伺いました。

人と接して、人と関わり、人を支える仕事がしたい。

——お父さまが物理学者であり、ご自身も実験がお好きだったことから、東大理科一類(理工系)に入学されたということですが、なぜ3年生のときに医学部進学を選択されたのでしょう。

高校2年生のとき、祖父の臨終に立ち会う経験をしました。目の前で突然始まった心臓マッサージに驚きながら「人の命を救うことができる職業」「死を見守る仕事」があることを知りました。今から思えば、そのときの経験が医師を志す原点になったのかもしれません。

しかし、臨終を迎える患者の親族に囲まれて患者の生死を担う医師の姿は、当時の私にとっては強烈な印象でした。果たして自分にそれができるのかと思い悩み、慶応大学医学部にも合格をいただいていたのですが、結局東京大学の理科一類に進むことにしました。身内に医者がいなかったので医師の職業イメージが定まらない一方、物理学者として好きな研究に没頭している幸せな父や、理科一類から工学部に進学した姉の影響もあったと思います。

入学してみると三度の飯より数学や物理が好きな人や、時間さえあればパソコンに向かって嬉しそうにプログラミングする同級生が多くいました。理学部の研究室を見学できるゼミなどにも参加しました。勉強と化学実験は大好きだけれど、将来なりたい自分のイメージと少しちがう。自分は人と接する仕事、人と関わる仕事がしたかったのだと気がつき、東大独自の進学振り分けという制度を利用し、大学3年になるときに医学部へ進みました。
大学入学時には医者になる決意が足りなかったために少し遠回りをしましたが、自分に「臨終に立ち会う覚悟があるのか」「人の命を預かる仕事が自分に務まるのか」といったことを考える時間を経て決断できたことは、よかったと思っています。

——数ある専門の中で糖尿病内科を選ばれたのは、なぜですか。

今はかなり変わりましたが、当時、東京大学医学部では女性が入局できないと言われている科が外科系にいくつかありました。学生時代には女性であることによる制約を意識したことはありませんでしたが、いつか女性であることを理由に入局不可などの壁が立ちはだかる日が来るのだろうか、と漠然と思いました。

ただ、私は体が小さく体力があるわけでもなかったですし、外科系の選択をして手術がうまくなりたいと思うことはなく、内科を選びました。内視鏡やカテーテルの達人になることなどにもあまり興味がありませんでした。
内科の中で血液内科と糖尿病内科のどちらの専門に進もうか迷いました。当時の血液内科は白血病などで亡くなる人が多く、お看取りするたびに切ない気持ちになりました。一方、糖尿病内科は、糖尿病と診断された患者さんの糖尿病合併症が進行しないように病気と上手に付き合っていくのを励ましながら、他職種と連携してチームで患者さんを支える明るいイメージがありました。また、糖尿病内科の研究室が非常にアクティブで能力・人格ともに尊敬する素敵な先輩方がたくさんいらしたことも入局を決めた大きな理由の一つでした。糖尿病を専門とする今、患者さんの日々の健康を前向きにサポートすることができ、とても充実感があります。

 

育休中は申し訳なく、復帰後にがんばるしかないと。

——大学院中に結婚され、卒業後に初めてのお子さんを出産されています。

独身時代は、大学院で毎日深夜遅くまで研究をして、週末も研究室に通う日々。大学院3年目の28歳のときに結婚しました。夫が「結婚しても仕事のスタイルは変えなくていいからね」と言ってくれたため、独身時代からの働き方は結婚後も大きくは変わりませんでした。

ただ、妊娠をきっかけに働きたくても働けなくなる状況になりました。悪阻のけだるさと吐き気がひどく、それぞれの子どもたちの妊娠のたびに仕事をするのに体がとてもつらくて悩まされました。悪阻を体験して、意思の力だけでは制御できない体調不良状態があることを身をもって知りました。あまり病気をしない私にとって、悪阻は体調の悪い患者さんの気持ちを実感する貴重な経験だったかもしれません。妊娠がわかったときにはすでに今の職場から大学院卒業後の4月からの就職の内々定をもらっていたため、勤務開始の予定を延期してもらい5月に無事出産した後、8月から就職しました。

2人目の出産の際には産前産後合わせて3カ月間、休業制度を利用させていただきました。私がこの研究所で育休を取得した最初の医師だったと聞いています。
産前産後合わせて3カ月間という休業取得は少し短いように思われるかもしれませんが、当時の女医の産休・育休としては短くなかったのです。担当していた外来は私が休んでいる間、同僚に負担してもらうことになりました。彼らは当直や外来の負担が増えて、こなす業務は1.5倍です。育休中はそれがほんとうに申し訳なくて、できるだけ早く復帰しなければ、と思いました。そして復帰後は自分にできるならば断らずに何でもやろうとがんばりました。

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——復帰するための保育園探しは、苦労されましたか。

長男のときは産休明けの勤務に向け、確実に保育園をキープしようと必死でした。今のように便利なインターネットによる検索情報もない時代でしたので、産休中にあちこち歩き回って保育園を探したり、評判を聞いてまわったり。長女はすぐには長男と同じ保育園に入園できず、彼女は0歳児の間に三つの保育園を経験しました。次男のときには幸運なことに区の保育園の審査に合格し、最終選考のくじ引きに行ってくれた夫が「当たり」の入った封筒を引いてくれて認可保育園に入れることができました。保育園確保はまさに綱渡りのようでした。

職場では、外来がない日に一般職員と同じように育児時間制度を利用させてもらって30分早く帰宅したり、子どもが発熱したときは看病するために同僚の医師に業務の交代をお願いすることもありました。ですから常に同僚には申し訳ない気持ちでいっぱいでした。勤務時間中は負担していただいている分を少しでもお返ししようと、自分にできることは一生懸命がんばりました。それでも結局はお世話になることのほうが多くて肩身が狭かったです。

子育てについては周りに先輩がいなかったため、不安ばかりでした。1人目の子どもは、お母さんにとってすべてが初めてですから、わからないことばかりだと思います。地域や病院にはそれぞれ育児のルールがありますから、自分から困っていることや不安に思っていることをSOS発信して、信頼できる職場の育児経験のある先輩や保育園の先生、保育園に通わせているママ友に相談するのがいちばんだと思います。

 

潔く諦めなければいけないときもある。

——大学院時代からずっと続けてきたインスリンシグナル伝達の基礎研究を断念されたとか。きっかけとなったのは、真ん中のお子さんの食物アレルギーでした。

長女(第2子)が通っていた認証保育園で粉ミルクによるアナフィラキシーショックを起こしたのが発端でした。母乳のみで育てていて、搾乳した冷凍の母乳を子どもと一緒に毎日保育園へ届けていたのですが、保育園側で母乳が足らないと判断し、粉ミルクを飲ませたことによるアナフィラキシーでした。
「母乳にこだわらなければ」とか、「認証ではなく、認可保育所に預ければ事故は起きなかったのに」とか、ずいぶん自分を責めました。

幸い命は助かったものの、「重症な発作が起こる子どもは預かることはできない」と園長先生に言われてしまい退園させられることに。職場復帰しているのに子どもを預けられないという状況に陥りました。
そのときはさすがに、当直のないところへ転職するか、パートタイムで働くことも考えました。でも、当時の所長が「そんなことで辞める必要はない。預ける保育園がないなら、うちの病院内につくればいいじゃない」と仰ってくださったのです。

おそらく「空いている会議室を使ったらいい」くらいのつもりで仰ってくださったのかもしれませんが、私は「ここに留まれと言ってくださっている」という強い励ましとして受け取りました。そのときの言葉があったから、ずっと頑張ってこられたと思います。
いつも感じることですが、子育てと仕事の両立に悩む人にとって、相談したり、話を聞いてもらったりする相手は、必ずしも子育て経験がなくてもいいんですよね。

退園させられた直後は、食物アレルギーをもつ0歳児の食事対応とわんぱくな2歳児の世話、授乳している私もアレルゲンとなる食べものを避ける毎日で、精も根も尽き果て、結果的に研究用の細胞や動物の世話をする気力がなくなり、研究を断念しました。
長女の食物アレルギーが治って何でも食べられるようになったのは、彼女が3歳のときでした。

インスリンのシグナル伝達に関する基礎研究を諦めたのは挫折だと思います。けれど、あの状況下で時間の制約を受ける細胞や動物の世話をすることは困難でした。悔しい思いは残っていますが、ギリギリまでがんばっての決断だったので仕方なかったと納得しています。潔さが必要なこともあるかな、と。
研究はテーマや手法を変えて再開できますし、医師を続ける限りやる気になれば一生続けられると思います

救われたのは、悩んでいたときにも励ましてくださった所長が、細胞や動物の世話をしなくてもいい「日系アメリカ人と日本人の糖尿病に関する比較研究」を勧めてくれたことです。このように私の好きな臨床と研究を続けさせてくれるような研究所附属病院は、他にはないと思いますし、病院を辞めようかどうしようかと悩んだとき、改めて自分はこの病院で患者さんを診るのがすごく好きでやりがいを感じていると気づきました。基礎研究は断念しましたが、診療を続けられ、なおかつ新しい研究テーマを与えてもらえたことに今でもとても感謝しています。

 

子どもの成長とともに夫も父親になった。

——キャリアを形成していく中で「子どもを持たない」という選択肢はなかったのでしょうか。

いつ、どの時点で子どもを産むかという計画はありませんでしたが、母が幼稚園の先生で、私自身も母の勤務先に遊びに行くほど子どもが好きだったので、いつかは結婚して子どもを産み、子育てしながら仕事も続けようと思っていました。ですから「産まない」という選択肢はなかったですね。
もちろん、その両立がとても難しいのは、周囲の数少ない女性の先輩方を見ていればわかりました。でも、人のためになる医師としての仕事もしたいし、自分の子どもも欲しい。どっちも諦めたくありませんでした。

とはいえ、仕事と家庭を両立できるか不安だったので、学生時代は周囲の女性の先輩医師に子育てと仕事の両立について尋ねて回りました。みなさんとても苦労されていて、新聞の求人欄でシッターさんを募集したり、家事はお手伝いさんを頼んだりされている方もいました。忙しすぎてご主人やお子さんとの関係がうまくいかなくなってしまった方の話も多く耳にしましたし、自分が思い描く子育てをしてらっしゃる方には、なかなか出会えませんでしたね。働く女性にとっては今よりずっと厳しい時代だったと思います。
それでもやっぱり、どちらも諦めたくなかった。私、欲張りでしょうか(笑)。

——さらにもう1人、お子さんを授かっていらっしゃいます。3人の子育ては仕事をもっていない方でも大変だと思います。

3人目を産むことを考え始めたのは私が35歳のとき。自分の年齢的なこともありましたし、2人目の子どものアレルギーが治って気持に少し余裕が持てるようになっていたのかもしれません。周囲の3人兄弟がすごく楽しそうに見えて、夫と「3人いたら楽しいだろうね」と話していているうちに、幸運にも授かることができました。ただ、実母には「もう1人子どもがいたら楽しいからって、それですぐつくる!?」とあきれられましたし、他の人からすれば、行き当たりばったりに見えてしまうかも(笑)。
さすがに母からは「もう上の2人のときのように助けてあげられないからね」とも言われました。長男と長女のときにサポートしてくれた両親も70歳近くになっていました。
そんな周囲の変化もあり、3人目は初めて親にできるだけ頼らない夫婦での子育てになりました。そこへ今度は義父母の介護が加わり、これまでとはまったく違う大変さを知ることになりました。

そんな中、結婚した当初は家事がほとんどできなかった夫が、私の当直日に子どもたちの食事や翌朝のお弁当を作ってくれるようになりました。彼がいっそう頼もしい父親になっていく姿を見るのはすごく嬉しいですし、本当にありがたい限りです。
子どもたちも私の仕事を理解してくれるようになりました。学校の行事と仕事の日程が重なるときは、子どもに相談するようにしています。「来てほしい」と子どもに言われたら可能な限り子どもの行事を優先すると決めているのですが、先日は運動会と日本糖尿病学会総会の「ジェンダーギャップを克服する」というシンポジウムの講演依頼が重なってしまいました。「運動会に行こうか、学会の講演をしようか、迷っているんだけれど」と子どもに相談したら、「今年は、僕、リレーの選手じゃないから仕事に行って大丈夫だよ。運動会は来年もあるからね、ママ」と。そんなときは子どもの成長と家族があっての私の幸せを感じます。

とはいえ、子どもとの時間が絶対的に少ないことも事実で、自分が仕事に夢中になるあまりに子どもに悪い影響を与えてしまったらどうしよう、という強迫観念は常にあります。
長女の小学校入学の日のことは一生忘れられないでしょう。その日はお休みをいただいていて、入学式まで少し時間があったので、家で仕事に没頭していました。すると小学校3年生になる長男が「ママ、僕、今日学校に行かなくていいの?」って。その日は長男も始業式だったんです。驚いて時計を見ると、彼を学校に送りだす時間をとっくに過ぎています。「ごめんね、ごめんね」と謝りながら、2人で学校に走りました。謝り続けていた私を気遣って学校から戻ってきた長男は「始業式だってこと忘れて学校に来なかった子もいたし、ママは始業式があることをちゃんと覚えていたから、大丈夫だよ」ってなぐさめてくれました。申し訳ないことをしたと反省しました。それからは、子どもが起きている間はなるべく没頭してしまいそうになるような仕事はせず、家事をしながら子どもとのコミュニケーションの時間を大切にするように心がけています。

子どもが大きくなれば、保育園のお迎えなど物理的に構ってあげなくてはいけない時間は減るので、もう少し家で仕事ができるようになるのかなと思っていた時期もありましたが、甘かったですね。成長したらしたで、今度は精神的なケアやコミュニケーションが大事になってきますから、なかなか家での仕事時間を増やすことはできていません。

ですから、勤務時間中の仕事に没頭できる時間がとても重要になります。その時間をいかに確保するか、いかに時間内に仕事を終わらせるかが、常に自分にとっての大きな課題です。

医師に限りませんが、時折、家事はすべて奥さんがやってくれて、「自分は仕事に邁進しています」という男性を見ると、「やりがいのある仕事を最優先に精神を集中し続けることができる環境は、自分にはないな」とか「私の夫はずいぶん家事を分担してくれていて、なんだか申し訳ないな」と考えたりします。
他の人が羨ましいとか、そのような生き方をしたいとかではなく、自分の状況を客観視できるくらい成長したのかな、成長させてくれたのは家族なのかなと思うのです。

【修正版2】大西医師の1日スケジュール

(聞き手・よしもと よしこ/吉本意匠)

【後編】は臨床と治験、好きな研究を続けるためにされてきた努力、子育てとの両立に悩む医師をサポートする「ママドクターの会」の発足などについて伺います。

 

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大西 由希子(おおにし・ゆきこ)
朝日生命成人研究所治験部長(糖尿病代謝科)
東京大学医学部医学科を卒業後、同大学附属病院、日立製作所日立総合病院で内科研修をする。その後、東京大学医学系大学院に入学して在学中に結婚、卒業後に長男を出産する。現在は3児の母として子育てをしながら週5日のフルタイムで働いている。総合内科専門医、糖尿病専門医。研究領域は糖尿病疫学。
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コメント一覧(2件)

  • 2. 元大学教員 中西敏和 さん

    女性の会社役員について関心をもっており、友人からお話を聞いて当記事を拝読しました。前向きな姿勢と取組みに心動かされました。おそらく、このような姿勢や取組みが、ご家族を始め周囲を動かしたのだ思います。まさに目からうろこ、目を覚まされる思いがしました。
  • 1. 元朝日生命:門脇弘子 さん

    私も3人男の子、出産前1日、産後2週間以内に復帰しました。今3人とも内科医です。早く復帰したほうが、体が元気です。今、犬をかわいがりながら人を良く診られるようになりました。

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