いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医

公許女医の誕生[江戸~明治初頭編]

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成24年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/12/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。

そこで今回は、幕末から現代に至るまで、時代ごとに医師として活躍した女性たちをピックアップしました。
以下、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。

1回目は、女性が医師として働く道を切り開いた2人の女性、シーボルトの娘「楠本イネ」と、日本初の公許女医「荻野吟子」についてご紹介します。
通説と異なり、江戸時代において庶民の間では比較的男女間の差別は少なかったといわれています。しかし、幕末から明治にかけては逆に男尊女卑の傾向が強まり、女性の自立や社会進出、ましてや男性と同じ職業に就くことは大変難しい時代となりました。
女性が医師になるための試験を受けることすらできなかった時代、幕末から明治を生きた2人は、どのようにして問題に立ち向かったのでしょうか。

 

楠本イネ 日本で初めて西洋医学を学んだ女性

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父、シーボルトとの別れ

1827年、楠本イネは長崎で、日本における西洋医学の普及・発展に大きく貢献したシーボルトの娘としてその生を受けます。母親は遊女であった楠本瀧でした。
しかしイネが2歳のとき、シーボルトが禁制品をドイツに送った罪で国外追放となり、親子は離別します。

多くの女性の命を救いたくて

父と離ればなれになったイネ。シーボルトの容姿を受け継いだその目は青く、髪は茶色でした。当時はハーフが珍しかったため、異人の子として好奇の目を向けられたことでしょう。しかし、そんな逆境に負けることなく、イネは、5歳から寺子屋に通い始めるなど勉学に熱中します。「勉強などしないで家事修行をしなさい」と言う母とは、たびたび衝突していたそうです。

イネが親元を離れたのは14歳のときでした。シーボルトの愛弟子であった二宮敬作を頼って宇和島(現在の愛媛県)に移り住み、そこで5年間、医師としての教育を受けます。
19歳になったイネは、二宮から産科医を目指す事を勧められ、シーボルトの弟子であった石井宗謙のもとへ向かいます。当時も男性の医師から産科の診療を受けることに抵抗を示す女性は少なくありませんでした。難産の際、産婆にできることは限られていましたが、恥ずかしさから医師を呼ばずに命を落とす女性もいたそうです。イネが産科医を志した理由は、「多くの女性の命を救いたい」という想いがあったからだといわれています。

西洋医学を極める

イネが石井のもとで産科の修行をした期間は6年8カ月。その間、石井とのあいだに娘のタダ(楠本高子)をもうけます。その出生については諸説あり、石井の強姦によるものだったとも、普通の男女関係の結果だったともいわれていますが、いずれにせよ産科医を目指していた彼女は堕胎を嫌い、シングルマザーの道を選びます。

25歳で帰郷したイネは、2年後、再び二宮敬作のもとへ向かいます。そこで出会ったのが、宇和島藩の蘭学者であり、もともと医師でもあった村田蔵六(のちの大村益次郎)でした。イネは月に何度も村田の元を訪れ、医学や蘭学の教えを請うたといいます。
二宮と村田から指導を受けていた彼女でしたが、32歳のとき、シーボルトが来日するという知らせを受け、長崎へ。親子は再会を喜び合ったそうですが、流れた月日が長すぎたせいか、心が通い合うことはなかったといいます。
ただ、イネはのちにポンペやボードウィン、マンスフェルトといったオランダ医から医学を学ぶことになりますが、これは父のシーボルトの力添えがあったからだといわれています。

医師としての実力が認められた瞬間

30歳頃にはすでに開業しており、産科医として日々研鑽を積んでいたイネ。ところが43歳のとき、母の滝を亡くします。また、同年恩師の大村益次郎が刺客に襲われ、その最後を看取ることになります。
この頃のイネは大阪に住んでいましたが、44歳で東京への移住を決意。異母兄弟であるアレクサンダーとハインリッヒの援助を受け、築地に産科医院を開業します。イネの医院は凄まじい盛況ぶりで、あの福沢諭吉が絶賛するほどでした。

そして1873年、イネは宮内省御用掛を拝命し、明治天皇の第一子の出産に立ち会います。このとき47歳。明治の日本において、女性であるイネが医師として宮中に招かれるほどの社会的な承認を得られたことは、紛れもなく偉業といえるでしょう。

医師資格を取るには遅すぎた

1875年、医術開業試験制度が開始されますが、女性には受験資格がなく、1877年にイネは長崎へ帰郷しました。1884年、女性にも受験資格が与えられますが、このときイネは58歳。試験は受けず、63歳で再び上京するまで産婆として医療に従事し、最後まで正式な医師となることなく、77歳で人生の幕を閉じました。

 

荻野吟子 日本で初めて医師と認められた女性

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医師を目指すきっかけは、「羞恥」と「屈辱」

1851年、武蔵国(現在の埼玉県)幡羅郡俵瀬村の名主の家に生まれた荻野吟子は、幼少の頃から才色兼備で知られていました。18歳で「両宜塾」の松本萬年に師事。彼は公許女医2号である生沢クノの師でもあります。

吟子は18歳で結婚しますが、その生活はたったの2年で終幕。夫に性病をうつされたことが離婚の原因でした。入院した吟子は一時、生死をさまよう状況に陥りますが、なんとか回復。このときの、男性の医師に診療される羞恥と屈辱の経験から、吟子は「女医がいれば女性の悩みも消える、自らが女医になろう」と決意しました。

成績は抜群だったけれど……

22歳で上京した吟子は、まず井上頼圀の「神習舎」に入舎します。その後、「東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)」で第1期生として学び、さらに29歳で私立の「好寿院医学校」に入学しました。しかし、当時の医学校は女人禁制。男子のなかに混じったことで周囲からのいじめを受けたそうですが、吟子は髪を短く切り、袴に高下駄の男装で対抗します。医師になるという志を強く持った吟子は、いずれの学び舎でも群を抜いて優秀な成績をおさめました。
ところが、当時、女性には医術開業試験の受験資格が与えられていませんでした。また、官公立医学校であれば卒業と同時に医師免許が与えられる制度でしたが、女性の入学を認める学校もなかったのです。吟子は好寿院卒業後、医術開業試験の願書を何度も提出しましたが、すべて却下されてしまいました。

日本人初の公許女医第1号に

吟子は、かつて光寿院に入学できるよう助力してくれた陸軍医監の石黒忠悳を頼ることにしました。
石黒は、当時の医師制度を策定していた内務省衛生局の局長、長与専斎を説得。また、吟子も自ら、神習舎時代の恩師である井上頼圀に調書をもらい、古代日本にも女性の医師がいたということを訴えました。長与と面会するための紹介状を書いてくれたのは、吟子に同情した豪商の高島嘉右衛門だったといいます。これらの協力者たちが実際にどのようなはたらきをしたかについては諸説あるようですが、多くの人が吟子の熱意に心を打たれことは間違いありません。

周囲の人々の力添えもあり、1884年に女性の医術開業試験の受験が許可されました。その翌年の1885年、吟子は35歳にして、ついに日本公許女医第1号として認められたのです。このとき女性の受験者は4人いましたが、合格したのは彼女ただ1人でした。
その後、吟子は上京し、「産婦人科荻野医院」を開業。世間は日本初の女性医師の誕生を新聞や雑誌で大々的に報じました。

女性の権利問題と闘った女医

以前からキリスト教に関心を持っていた吟子は洗礼を受け、矢嶋楫子らが組織した「東京婦人矯風会(のちの日本キリスト教婦人矯風会)」に入会。風俗部長として、婦人覚醒運動・婦人参政権運動・廃娼運動・禁酒禁煙運動などに積極的に取り組みました。このほか、「大日本婦人衛生会」の幹事に就任するなど、吟子は女性の社会的地位を向上させるための活動にも奔走しました。もちろん、明治女学校の生理・衛生の講師、校医となるなど、医師としても着実にキャリアを積んでいきました。

吟子は40歳のとき、周囲の反対を押し切り、キリスト教会で知り合った志方之善と結婚します。1度目の結婚は親の意思によって決められ、結果的に失敗した吟子。「自分に理解を示してくれる人とこそ結婚すべきだ」と考えていた吟子は、今度こそ自らの意思で生涯のパートナーを選んだのでした。
欧化政策が終わり、国粋主義が台頭すると、キリスト教徒である2人は北海道へ移住します。吟子は瀬棚町で婦人科・小児科医院を経営しながら、「淑徳婦人会」で信仰を普及させました。

志方が亡くなったとき、吟子は54歳でした。夫を愛していた彼女はその地に3年留まりましたが、57歳で上京。本所新小梅町で医院を経営しながら、姉と娘と暮らしました。
そして1913年、吟子は63歳でこの世を去ります。葬儀には、吟子を慕った多くの女医が訪れたそうです。

 

女性にも医術開業試験の受験資格が与えられたが……

楠本イネと荻野吟子が直面した問題は、「女性が医師になることが認められない」という、男尊女卑の慣習でした。それを乗り越えるために、2人は血の滲むような努力によって医術を習得したのでしょう。

女性に医術開業試験の受験資格が与えられたのは、非常に大きな出来事でした。
吟子が公許女医となって以降、医師を志す女性も、実際に医師となる女性も増え続けました。
しかし、彼女たちの前には新たな壁が立ちはだかるのです。次回は、女性医師の社会的地位向上に大きく貢献した「吉岡彌生」の足跡をたどります。
明治時代を生きた女医たちが乗り越えなければならなかった試練とは……?

(文・エピロギ編集部)

<参考>
公益社団法人 日本女医会「日本女医会の紹介」
http://www.jmwa.or.jp/jsyokai.html
愛媛県西予市 総務課秘書係「楠本イネの生涯について」
http://www.city.seiyo.ehime.jp/docs/2013031700366/files/ine.pdf
愛媛県教育委員会人権教育課「えひめ人権の道しるべ(改訂版)
http://ehime-c.esnet.ed.jp/jinken/michishirube.html
熊谷市教育委員会「日本最初の女医 荻野吟子」
http://www.kumagaya-bunkazai.jp/kounanmatinoiseki/p14oginoginko_web.pdf
北海道瀬棚町「荻野吟子の生涯」
http://www.town.setana.lg.jp/archive/setana/k12.htm

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