日本近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~

第4回 日本近代医学の父~明治天皇の主治医 エルウィン・フォン・ベルツ

学問、技術、制度など多くの西洋知識を伝え、日本の近代化に深く関わった明治のお雇い外国人たち。その功績は、医学にも深く影響しています。当時の日本人医学生は、オランダやドイツなどの国々から派遣されたお雇い外国人たちから、進歩的な西洋医学を教わりました。シリーズ「日本の近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~」では、日本の西洋医学の礎づくりに貢献したお雇い外国人たちの、日本医学史に残る功績をご紹介します。

第4回で取り上げる人物は、東京医学校(後の東京大学)で26年間にわたり多くの日本人医学生を育て上げた「日本近代医学の父」、明治天皇の主治医のエルウィン・フォン・ベルツです。

 

相良元貞との出会い

1849年1月13日、南ドイツの田舎町ビーティッヒハイム・ビッシンゲン市でベルツは生まれました。両親と8人の兄妹が暮らすにぎやかな家庭で育ち、12歳で高校に進学。1867年には17歳で天文学者ケプラーや哲学者ヘーゲルを輩出したテュービンゲン大学に入学し、基礎医学を2年間みっちり学んだ後、1869年の秋、ドイツで2番目に長い歴史を持つ名門ライプツィヒ大学に転学します。
その動機は、「内科学教授ウンデルリッヒのもとで臨床医学を学びたい」という思いでした。ウンデルリッヒは、1日数回の体温測定で疾患の経過を追う発熱の評価方法を確立し、当時のドイツで名声を得ていた医学者です。科学的な姿勢を貫き、理論と直感を組み合わせて総合的な判断を下すウンデルリッヒは、ベルツの憧れでした。
1872年4月、最優秀の成績で学士試験を通過した後も、ベルツはライプツィヒ大学病院の内科に入局し、ウンデルリッヒに師事し続けました。

ベルツと日本との出会いは、彼が23歳になった1875年のこと。ある1人の日本人留学生が肺病を患って入院し、ベルツが治療を担当することになりました。その日本人留学生の名前は相良元貞。明治新政府の医療担当者として医学制度改革を推進していた佐賀藩医、相良知安の弟です。
ベルツの献身的な治療を受けた元貞は、兄にその腕前と人格の素晴らしさを伝えます。弟の推薦を受けた知安は明治政府を通して、ベルツを東大医学部の前身である東京医学校の教師として招来しました。ちょうど知安は、ドイツ医学を日本の規範としたいと考えていたのです。もともと好奇心の強かったベルツはその誘いを快諾。1876年4月2日、24歳で日本へ旅立ちました。

 

教師・研究者・医師、ベルツの3つの顔

1876年6月7日、ベルツは横浜港に到着します。東京医学校の教師として生理学の講義を開始したのは、着任から5日後のこと。彼は当時の日本人医学生たちのことを高く評価していました。

「どうしてウェルニッヒ(※1)やヒンゲンドルフ(※2)のように『日本の学生からは、優れた医師は決して出ない』などといえるのか、自分には全く不可解である。われわれは八種の等級に分けた成績をつけることになっているが、自分の場合、全学生の半数に最優秀点『Ⅰ』を与えざるを得なかった。」
引用元:トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳「ベルツの日記(上)」(1979年、岩波文庫、p56-57)
※1 当時の東京医学校の内科教師。
※2 当時の東京医学校の博物学教師。

1876年の暮れにウェルニッヒが帰国し、ベルツは入れ替わりで内科学を担当することになります。その傍ら、病理学・精神医学・産婦人科学・診断学など幅広い科目も教えました。内科学への転換について、「予定外だったが非常に満足するものだった」と彼は日記で回想しています。
配置転換後も講義と臨床の両方を重んじ、「役に立つ技術を教える」ウンデルリッヒ仕込みの姿勢で、ベルツは日本人学生に対して熱心に指導を行いました。
彼の講義メモを訳した『内科病論』や臨床知識をまとめた『鼈氏内科学』などの書籍は、今も東京大学医学図書館の資料室に残されています。

ベルツは研究にも熱心に取り組みました。特に興味を持ったのが、日本の風土病。脚気やツツガムシ病、ハンセン氏病などに強い関心を抱き、『寄生虫性喀血病』や『多発性末梢神経炎と脚気との関係』などの論文をドイツの医学雑誌で発表しました。肺の中で咳、血痰、胸痛などの症状を引き起こす肺吸血虫卵を世界で初めてヒト喀痰から発見したのも、日本滞在中のベルツです。また、人類学・民族学にも深い興味を抱いた彼は「日本人の身体的特徴」について研究し、1885年には日本人幼児の臀部に表れる薄青いあざを「蒙古斑」と名付け、モンゴロイドの特徴として発表しました。

教師・研究者と並行して、ベルツは医師としても活躍しました。自由民権運動の主導者である板垣退助、第8・17代内閣総理大臣の大隈重信、明治天皇、大正天皇など、彼が診察した日本史上の重要人物は枚挙にいとまがありません。特に明治天皇については、ベルツが50歳を迎えた1902年、天皇・皇太子の主治医として任命されるほどに信頼を得ていました。そして、ベルツが53歳になる1905年には、日本で最初の勲章として制定された旭日章の最高位「勲一等旭日大綬章」が彼に授与されたのでした。

 

草津の恩人――日本文化に向けた深い愛

ベルツは日本医学における教育や研究の発展だけでなく、日本文化の保護と世界への伝達にも貢献しました。
日本美術・工芸品を収集し、弓道・剣道・柔道など日本古来の武道をたしなんだベルツ。『ベルツの日記』(1979年、岩波文庫)に「とくに柔術については、維新後ほとんど忘れかけた状態にあったものを国民的スポーツになるまで育て上げた」と記されています(医史学者・酒井シヅが日本語版に寄せた序文より)。彼の日本通ぶりは、世界的権威を持つ『マイヤー百科事典』における「日本」の項目の執筆を依頼されたほどでした。

彼の日本文化に対する功績として最も有名なのが、温泉の医学的効能を発見し、世界に紹介したことです。
1878年ごろから草津温泉に通い出したベルツは温泉の効能について研究を始め、1884年に「持続温浴について」という論文を『ベルリン臨床医学雑誌』に発表しました。これは、日本の温泉治療を近代医学の観点から研究した世界初の論文です。

また、温泉はベルツにさまざまな着想を与えた場所でもあります。例えば「ベルツ水」。現在でも化粧水として用いられていますが、元は箱根の温泉地で女中の荒れた手を見たベルツが、ひびやあかぎれを防ぐ薬として調合したものです。さらに、皇室の避暑地として箱根に離宮をつくるよう進言したのも、箱根温泉によく足を運んでいたベルツだと言われています。彼は、療養地としての温泉の価値をそれほどまでに認めていました。

このようなベルツの温泉愛に感謝を示す意味で、草津市が付けた称号が「草津の恩人」。死後100年近くたった今でも、草津市には彼の顕彰碑が残されており、ベルツの故郷ビーティッヒハイム・ビッシンゲン市とは姉妹都市としての交流が続いています。

 

日本医学の成長とベルツ基金

1905年6月10日、52歳のベルツは日本からドイツへ帰国しました。
東京大学医学部(1977年の帝国大学[現・東京大学]創立に伴い、東京医学校を母体に日本初の医学部が設立された)の教職を辞したのは、その3年前の6月10日のこと。26年にわたる教師生活に幕を閉じることを決意した彼は、第一回日本医学大会の開会式において「日本への遺言」と称したスピーチを行っています。
それは、医師にとっての理論と臨床の重要性を説き、日本医学の成長を讃える力強いものでした。

「医学教育の歴史においてこそ、日本人の特質の最も良い面がはっきりと見られるのであります――すなわち、新しい意図への激しい熱意、それを成就するためのたゆまぬ忍耐と献身、あらゆる困苦欠乏と危険を平然として意に介しない心構えなどがそれです。(中略)その結果、ヨーロッパのあらゆる学術専門雑誌に日本人の名門が再三再四見られるようになり、今や日本の医学界はもはや外人教師を必要としない有様となった次第であります。」
トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳「ベルツの日記(上)」(1979年、岩波文庫、p258)

彼は日本医学の成長を心から喜び、今後の発展を真剣に望んでいました。
帰国から3年後の1908年1月、日本を再訪した際、ベルツは東京大学に5千円(現在の540万円ほど)を寄付します。それを元にベルツ基金が作られ、物理療法の分野で優れた業績を上げた学生に賞金と記念メダルが与えられることが決定しました。

ベルツが亡くなったのは1913年5月10日。享年64歳、死因は大動脈瘤でした。その際、遺言により基金にさらに1万円(現在の1,017万円ほど)が加えられ、東京大学医学部を優秀な成績で卒業した者にドイツ留学資金が授与されることになりました。

 

日本近代医学の父、ベルツ

ベルツ基金は、ドイツの戦争敗北に由来する貨幣価値の下落により、消滅してしまいます。しかし1964年、ベルツが抱いた日本医学発展の願いは、新たな形でよみがえることになりました。
東京オリンピックが開かれたその年、ドイツの製薬会社ベーリンガーインゲルハイム社が、日独の医学的な交流をさらに深める目的で、ベルツの名を冠した医学賞を設立したのです。この「ベルツ賞」は毎年常任委員会の定めるテーマに即した医学論文の中で特に優秀な論文に対して贈呈されるもので、1位の受賞者には賞金800万円と賞状、メダルのセットが授与されます。

2017度でベルツ賞は第54回を迎え、授賞論文の総数は118件となり、受賞者は共著者も含め378名を数えました。過去の受賞者には、2016年ノーベル医学・生理学賞の有力候補として名前が挙がった本庶佑(ほんじょ・たすく)京都大名誉教授など、多くの優秀な日本人医学者が見られます。
死後90年以上が経過した今も、日本医学の発展を支えているベルツは、まさしく「日本近代医学の父」といえるでしょう。

(文・エピロギ編集部)

<参考>
・トク・ベルツ編 菅沼竜太郎訳「ベルツの日記(上)(下)」(1979年、岩波文庫)
BUSHOO!JAPAN「お雇い外国人エルヴィン・フォン・ベルツ 日本の良いとこ悪いとこ」
エピロギ「医局の歴史│第1回 医局の成立と大学への医師の集中」
湯LOVE草津「縁のある人物・都市」
国立感染症研究所「ツツガムシ病とは」
BoehringerIngelheim「ベルツ賞」
BoehringerIngelheim「第54回(2017年度)「ベルツ賞」で募集する学術論文テーマは、「睡眠の機構とその障害」に決定」
BoehringerIngelheim「第21回~30回の受賞論文」
京都府立医科大学「京都における寄生虫疾患―その歴史と現状」
香寺大好き「エルウィン・フォン・ベルツ」
UNIVERSITAT TUBINGEN「テュービンゲンの町と大学」
鈴木康弘「神経学の歴史」
我が国近代医学制度創設の功績者 相良知安「相良元貞(知安の弟)とベルツ博士」
東京大学医学部の歩み 江戸~明治
日本呼吸器学会「肺寄生虫症」
nippon.com「ベルツ博士が日本とドイツにもたらしたもの」
静岡県沼津市「沼津御用邸の沿革」
温泉百科「草津温泉を世界に紹介したドイツ人・ベルツ博士」
永井良三「ベルツ博士と日本の医学」(日本国際医学協会誌)
TABIZINE「蒙古斑の不思議トリビア!実はドイツ人が日本で『発見』【TABIZINE BLUE WEEK】」
箱根の温泉公式ガイド 箱ぴた「【ベルツと温泉治療】」
日本銀行「昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?(公表資料・広報活動)」
毎日新聞「ノーベル賞 日本人 本庶、前田、松村の3氏が有力」
公益財団法人 全日本柔道連盟「嘉納治五郎(1860~1938年)柔道の創始者(06.11.29)」
・東京大学創立120周年記念東京大学展-学問の過去・現在・未来第一部 「学問のアルケオロジー」「エルウィン・ベルツ」

 

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