日本近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~

第1回 日本の近代西洋医学教育の道を開いた医師 ポンぺ

学問、技術、制度など多くの西洋知識を伝え、日本の近代化に深く関わった明治のお雇い外国人たち。その功績は、医学にも深く影響しています。オランダやドイツなどの国々から派遣されたお雇い外国人たちに、当時の日本人医学生は進歩した西洋医学を教わりました。シリーズ「日本の近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~」では、日本の西洋医学の礎づくりに貢献したお雇い外国人たちの、日本医学史に残る功績をご紹介します。

第1回で取り上げる人物は、日本初の西洋式医学校と西洋式教育病院を造った功績から“西洋医学教育の父”と称されるお雇い外国人、ヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトです。

 

海軍士官の教育のため、日本へ

1829年5月5日、北のヴェネチアと名高いベルギーの古都ブリュージュでポンぺは誕生しました。父は若き陸軍将校ヨハン・アントワヌ・ポンペ・ファン・メーデルフォールト。ポンペは幼いころから陸軍将校の息子として恥ずかしくない十分な教育を受け、1845年に16歳でオランダ中部の州、ユトレヒトの名門「国立陸軍軍医学校」に入学しました。医学校で教わる科目は、病理学、外科学、内科学から気絶の取り扱い方、解剖学、医学法規まで幅広く、学生は1時間の昼休み以外はほとんど休む暇もありませんでした。当時としては珍しい、理論よりも実学を重視する校風の中で、ポンペは講義と実習に明け暮れます。
1849年、20歳になった彼は卒業を迎え、三等軍医として軍艦スヘルデ号に乗り込みました。その後の数年間は、軍艦でオランダと植民地の東インド諸島を行き来しつつ、乗組員の診療や現地での調査活動に従事しました。

ポンペがオランダと東南アジアを往復する日々を送っていた1853年、日本では歴史的な事件が起こります。ペリー率いる黒船が来航したのです。開国を余儀なくされた幕府は欧米諸国に対抗するため海軍士官の育成の一環として、日本に対する軍医の派遣を、長い交流の歴史があるオランダに要請しました。

オランダの海軍大臣によって、日本に派遣する人員の確保が海軍に命じられたのが1856年のこと。その当時、軍艦ヤパン号(後の威臨丸)に乗り込んでいた28歳のポンペは、第二次海軍教育団の班長ファン・カッテンディーケに、日本への同行を打診されます。普段から恩義を感じていた直属の上司の誘いを、ポンペは迷わず受け入れました。そして、1857年3月25日、ヤパン号は長崎へ向けてオランダ、ロッテルダム港を出発したのです。

 

西洋医学教育の父、ポンペ

1857年9月21日に日本に上陸したポンペは6週間ほど準備に費やします。そして、同年11月12日、長崎奉行所が置かれている役所の一室で、日本人の医学生12名を相手に医学に加え物理や化学の講義を開始しました。その翌日には学生たちの医学知識を試すため、早速テストを行います。
しかし、その結果は、散々なものでした。学生たちのほとんどは、古い医学書から得たオランダの治療法をわずかに知っているだけで、西洋医学の知識がほとんどなかったのです。彼らには、西洋医学の基礎から教える必要がありました。さらに、ポンペの前には「言葉の壁」も立ちはだかります。授業開始当初、彼はオランダ語しか、学生たちは日本語しかほとんど話せませんでした。
それでもポンペは一切の妥協をせず、西洋の医学教育と同じく内科と外科に属する全過程を、日本人の医学生たちに教えると決意していました。彼には、日本初の本格的な西洋式医学校を開設するという使命があったのです。
そこでポンペは、以下の手順で授業を進めることを考えます。

まずポンペが行ったのが、物理、化学、解剖、病理といった授業科目の簡単な手引書の制作です。授業では、学生にオランダ語で書かれたその内容をノートに写させ、口頭で説明を加えました。その上で、自身の説明と手引書の内容を通訳に訳させ、もう一度ノートに書き取らせるのです。こうすることで、オランダ語で書かれている上に専門用語が多い教科書の内容をわかりやすく伝えられるだけでなく、オランダ語と医学療法の理解を同時に促すことができました。
手引書づくりには時間がかかりましたが、知識の不十分な学生たちに、自分が学んだ国立陸軍軍医学校のカリキュラムと同じ内容を理解させるため、熱心に取り組みました。そして、数カ月たったころには、ポンペと学生双方ともに語学力が高まり、より高度な授業が可能になっていました。

授業の中でも、ポンペが特に熱心に教えたのが解剖学です。最初はキュンストリーキという紙製の模型を使って講義していましたが、それでは人体の知識が不十分なものになると考え、解剖用の死体の提供を長崎奉行に願い出ました。しかし、人体の解剖という概念が一般的でなかった当時、それを知った長崎の住民が混乱することを恐れた奉行は、許可を出すことを渋ります。しかしポンペは根気よく必要性を訴え続け、ついに死刑囚の死体で解剖を行う許可が出されました。
1859年9月9日、解剖は現在の長崎市西坂「二十六聖人の丘」付近で、ポンペ自らの手で行われました。ひと目見ようと集まった者は、医師や学生合わせて45人。その中には、シーボルトの娘であり、日本で初めて西洋医学を学んだ女性、楠本イネもいたといいます。ポンペは2日間かけて全身を解剖し、脳や眼、耳、睾丸などの部位を実習用の標本にした後、死体を火葬場で丁寧に葬りました。

 

日本初の西洋式教育病院“小島養生所”の設立

ポンペは学生らに医学を教える傍ら、医師として多くの日本人患者を治療しました。
彼が来日した翌年の1858年、長崎ではコレラが流行し、人口の約0.02%である1,583人がコレラ患者となります。ポンペとその弟子はそのうち601人の治療に取り組み、多くの命を救いました。
医師としてのポンペの特徴は、全ての人間に平等な治療方針です。当時の日本にはまだ封建的な身分制度が根強く残っていましたが、ポンペは身分や国籍を問わず治療を施し、その上、貧しい者からは治療費を受け取りませんでした。

コレラの流行は、日本の医学教育に意外な影響を与えました。それは、日本初の西洋式病院の早期設立です。来日直後の1857年、ポンペは現在の大学病院のように医学教育と診療を行う西洋式教育病院の設立を提言していました。その翌年、コレラが長崎で流行。これにより西洋式教育病院の設立は急務となり、予定以上のスピードで設立の運びとなりました。コレラの治療により、ポンペに対して長崎町民から信頼と尊敬が寄せられ始めていたのも、その助けとなったといいます。長崎奉行高橋美作守の反対など障害もありましたが、前任の長崎奉行岡部駿河守や、オランダ商館長ドンケル・クチルウスも巻き込んだ熱心な訴えにより、1859年に病院設立の許可が下りました。

そして、提言から4年が経過した1861年8月6日、日本で最初の西洋式教育病院「小島養生所」(現在の長崎大学医学部)が設立されました。病院が開かれると毎日大勢の患者が来院し、1~2週間がたったころには、入院患者は70名を数えました。この病院でポンペは厳しく医学生を指導しつつ、コレラ・肺病・気管支炎・心臓病・眼病・梅毒などさまざまな病の治療にあたりました。

病院開設から1年後の1862年11月1日、34歳となったポンペは後任である陸軍軍医学校教授一等軍医ボードインの着任を待って、帰国の船に乗り込みました。帰国前には、医学校を卒業した61名の学生に、修了証書を授与したといいます。ポンペが日本に滞在した5年間に診療した日本人患者数は1万3,600人に上りました。

 

松本良順、長与専斎、佐藤尚中……ポンペの優れた弟子たち

ポンペが日本に残したものは、今も日本の医学の礎となっています。

ポンペが12名の学生に対して初めて講義を行った日は、長崎大学医学部の創立記念日とされています。1865年に小島養生所は「精得館」と名前を変え、明治維新前後の日本の近代医学・薬学教育を支え、多くの優秀な医師を送り出しました。
ポンペの一番弟子として名高いのが、江戸幕府の医官出身の松本良順です。彼はポンペに「怜悧な理解力に富む人物」と称され、医学校内における学生の監督を任されました。卒業後は、江戸の医学所頭取や初代陸軍軍医総監などを歴任し、日本の陸軍軍医制度の確立に貢献します。
長崎・大村藩の侍医の息子である長与専斎は、卒業後、岩倉遣欧使節団に同行します。帰国した後は防疫・検疫制度の導入など、日本の衛生医療行為を創始しました。彼は、現在一般的に使われている「衛生」という日本語を発案した人物でもあります。
良順の勧めで長崎に留学してきた佐藤尚中は、後に大学東校(東京大学医学部の前身)の初代校長を務めたほか、順天堂医院の開設者としても歴史に名を残しています。

後の医学や薬学教育の礎となる場所を一から創り上げ、また多くの優秀な弟子を育て上げた功績から、ポンペは“西洋医学教育の父”と呼ばれるようになりました。
精得館は1868(明治元)年に長崎府医学校、1869年に長崎県病院医学校と改称を重ね、1949年につけられた「長崎大学医学部」という名前で、現在も世に多くの医学生を送り出し続けています。

 

医師は病める人のもの

「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」

これは、長崎大学医学部、基礎研究棟の銘板に彫られたポンペの言葉です。この言葉は松本良順ら門弟に深い感銘を与え、長崎大学医学部医学科の建学の基本理念となりました。
患者に寄り添うための金言として、今もさまざまな医師の心に受け継がれています。

(文・エピロギ編集部)

<参考>
長崎大学医学部医学科「医学部長メッセージ」
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/message/dean_message.html
長崎大学医学部 創立150周年事業報告「創立150年記念事業」
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/150th/programs/building.html
長崎大学医学部医学科「医学科について」
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/introduction/rinen.html
ナガジン「西洋の風が吹く―長崎の医学史を支えた人物」
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken08121/
長崎大学学術研究成果リポジトリ「"長崎大学医学部 創立150周年記念誌 〜近代西洋医学教育発祥から現在まで〜"」
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/28534
CHOHO vol.18「『医学は長崎から』連載vol.4「近代西洋医学教育の父 ポンぺ・ファン・メールデルフォールト」」
http://www.nagasaki-u.ac.jp/info/publicity/choho/choho-018/c018-05.pdf
長崎大学附属図書館医学分館所蔵近代医学史デジタルアーカイブズ「『ポンぺと養生所』「近代西洋医学教育の父ポンぺ」」
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/pompe/pompetoyojosho.html
長崎大学医学部医学科「「小島養生所」遺構について」
http://www.med.nagasaki-u.ac.jp/med/iko
小路武彦 相川忠臣「ポンペの解剖学教育」
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/21953/1/ActaAnatNippon83_101.pdf
沼田次郎 荒瀬進 訳『ポンぺ日本滞在見聞記―日本における五年間―』(雄松堂書店)
https://goo.gl/SD5vB4
長崎大学学術研究成果リポジトリ「長崎医学百年史」
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/6559
佐倉市「佐倉順天堂に関わった人物たち」
http://www.city.sakura.lg.jp/0000014730.html
順天堂「佐藤尚中先生の顕彰碑」
http://www.juntendo.ac.jp/way/monument/
国立国会図書館「現代日本人の肖像 長与専斎 ながよ せんさい」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/306.html
長崎大学薬学部「長崎薬学史の研究」
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp3/chapter3-4.html
長崎大学附属図書館医学分館所蔵近代医学史デジタルアーカイブズ「松本良順と長与専斎」
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/index2.html
宮永孝『ポンぺ 日本近代医学の父』(1985、筑摩書房)
新村出 編『広辞苑 第六版』(2008、岩波書店)

 

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