いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

番外編[其ノ貮] 夜明けを目にした二人の女医 榎本住・高場乱

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成24年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/12/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。


シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。

▼これまでの「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」
第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医(楠本イネ・荻野吟子)
第2回 時代の常識に抗った女医(吉岡彌生
第3回 志半ばで旅立った女医(右田アサ)
第4回 時の分け目に揺れた女医(丸茂むね)
第5回 異境の地に羽ばたいた女医(宇良田唯)
▼番外編
其ノ壹 幻の明日を夢見た女医(野中婉)

明治から昭和にかけての、激動の時代を生きた女性医師たち。本シリーズではこれまで、男尊女卑の慣習に悩まされながらも、強くたくましく生きた彼女たちを紹介してきました。

今回は番外編の2回目。前回の「野中婉」に続き、江戸時代後期に生まれた2人の女性医師「榎本住」と「高場乱」をご紹介します。
彼女たちが生きたのは、265年も続いた江戸幕府が終わった時代――日本が新たな国へと生まれ変わった時代でした。

 

榎本住 神のごとき医術を駆使した大和国の女性医師

父は「国手」と呼ばれた人物

江戸時代末期、大和国の葛上郡戸毛村(現在の奈良県御所市戸毛)で、榎本玄丈という男が医業を営んでいました。1816年4月、彼の長女として生まれたのが榎本住(えのもと・すみ)です。
父の玄丈は「国手」と称された医師。今でいう「名医」から医術を学んだ住は、終生、勉強熱心な女性だったようです。往診するときに乗っていた駕籠には文机が備えられていました。

当時の女性としては上背があり、勝ち気な性格で、口調も早口。いかにも「がさつ」な人間のように思えますが、彼女の行う診療は至極丁寧だったといいます。
23歳で父を亡くし、その後に夫も亡くし、それでも彼女はこの世を去るまでに2人の息子を医師に育て上げました。

天誅組を組織した吉村寅太郎を治療

今から200年も前に生まれた女医の名がこの世に残り続けているのは、なぜでしょうか。それは、ある人物の「手当てをした」という歴史的事実があるからです。

尊皇攘夷の動きが最も盛んだった1863年、大和国で尊攘派の「天誅組」による武力蜂起が起こりました。俗に「天誅組の変」と呼ばれるこの反乱は、明治維新の先駆けになった事件ともいわれています。
当初、天誅組は大和行幸の先鋒として兵を挙げましたが、尊攘派を排除するクーデター「八月十八日の政変」によって大義名分を失い、反対に討伐対象とされてしまいました。
天誅組は十津川郷士1,000人を援軍に高取城を攻めますが、あえなく敗走。その後、たった24名で決死の夜襲を仕掛けるも、高取藩兵の待ち伏せにあって負傷者を出し、何もできずに撤退しました。

このときに銃撃を受けたのが、天誅組を組織した土佐脱藩浪士、吉村寅太郎です。志士たちは重傷の寅太郎を担いでその場から逃げ去り、医師を探します。そうして見つけたのが、戸毛村で医業を営む榎本住でした。
彼女が外科的療法を行っていたかどうかは不明ですが、時代背景を考えると内科医だったのではないかと思われます。おそらく、止血、消毒、薬剤の塗布などの手当てを施したのでしょう。

静養が必要なはずの寅太郎は、住に応急処置をしてもらうと、すぐにまた行軍を続けました。奉膳で内科医をしていた小原元性にも治療をさせたようですが、やがて傷は悪化。最終的には駕籠に乗って移動しているところを見つかり、射殺されました。

江戸時代のゴッドハンド

「妙訣、神の如し」
これは、住の医術を評して用いられた表現です。当時、村人のあいだでは「住に診てもらえば病気があっという間に治る」と評判でした。彼女に診療を頼む患者は後を絶たなかったといいます。
その腕の良さは、明治期の日本を林業で動かしたといわれる「山林王」、土倉庄三郎から往診を頼まれるほどでした。

晩年は肺炎に侵され、病の床に伏していた住。そんな状況で、彼女は急患から「往診してほしい」と頼まれます。自分の具合も悪いが、患者の具合はもっと悪いだろう。彼女は人におぶってもらって患者の家まで行き、診察を行いました。そして自宅に帰って間もなく、息を引き取ったそうです。享年77歳。

住は技術面だけでなく、精神面でも素晴らしい医師でした。その最期を伝えるエピソードが、彼女が「医は仁術」を貫徹した人生を送ったことを物語っています。
住が亡くなる3カ月前にはその功績を称え、「女醫榎本住紀念碑」と刻まれた顕彰碑が建てられました。こうした碑は死後に建立されるのが一般的ですが、生前に有志によって建てられたことから、彼女が村人からいかに慕われていたかをうかがい知ることができます。
現在も、この碑は御所市戸毛に立ち続けています。

 

高場乱 教育者として名を残した男装帯刀の女性医師

男として生まれた女性

高場乱(たかば・おさむ)が生まれたのは、1831年の10月8日。筑前国博多(現在の福岡県福岡市)の眼科医だった高場正山の次女として誕生しました。幼名は「養命」。のちに改めて付けられた「乱」という名は、「乱を治める」という意味から「おさむ」と読ませました。

高場家は福岡藩の藩医を務める、江戸時代初期から続く眼科の名門でした。乱には腹違いの兄がいましたが、父の正山は、なぜか末っ子の娘である乱を跡継ぎに選んだのです。「養命」という幼名が付けられたことからも分かるように、彼女は生まれたときから男として育てられました。

10歳のとき、乱は男として元服します。このときの元服は、福岡藩が公式に認めたもの。父からは医術のほか、当時の男性の嗜みでもあった漢学を学びました。
16歳で一度結婚しますが、早々に自分から離縁を申し出た乱。その後は生涯、男として生き抜きました。

人参畑の女傑

20歳で家業を継いだ乱は、その頃、儒学者の亀井昭陽が開いた「亀井塾」に入塾します。亀井塾は身分や性別を問わずに学べる、当時としては珍しい塾でした。
そこでは儒学だけでなく武術をも習得し、「四天王」と呼ばれるまでに腕を上げた乱。
本業の医業では、往診をするときは腰に刀を差し、両隣に血気あふれる青年を従えていたといいます。

乱は42歳になると、私塾「興志塾」を開きました。眼科業を営みながら、教育者として歩み始めたのです。薬用人参畑の跡地に建てられたことから、「人参畑塾」の通称で親しまれました。血気盛んな教え子が多かったため、乱自身も「人参畑の女傑」などと呼ばれていたようです。
弟子たちと寝食を共にしながら、乱は一切の金銭を取りませんでした。教え子の生活費は、すべて医師としての稼ぎだけで賄っていたのです。

教育者になった理由

興志塾が輩出した人材の数は、総勢300人超。なかには頭山満、平岡浩太郎、箱田六輔といった、のちに国家主義を掲げる「玄洋社」の中心メンバーとなった人物の名前もあります。明治期の日本に影響を与えた人材を多く排出したことから、「あの吉田松陰より優れた指導者だ」と評価する人もいるほど。
乱は自分が専門とする儒学の経典『論語』や『孟子』のほか、『史記』『三国志』『水滸伝』などの英雄伝を扱ったそうです。

国家を変える、革命児となれ。そんな教育をしていたのでしょうか。1877年には、西南戦争に呼応した弟子たちが「福岡の変」と呼ばれる反政府暴動を起こしています。この反乱を扇動したとして乱も拘束されますが、のちに釈放されました。

それにしても、男として生きた乱は、なぜ自分で国事に関わろうとしなかったのでしょうか。
「亀井塾の四天王」「人参畑の女傑」と呼ばれた乱は、しかし、生まれながらにして虚弱だったといいます。男装こそしていたものの、その体は華奢で、正体が女性であることは明らかだったようです。
きっと、勤王の志士として駆け回るほどには頑丈でなく、小さな体だったのでしょう。これは憶測ですが、だからこそ乱は、自らの夢を血気盛んな若者たちに託したのかもしれません。

己を省みた晩年

教育者としての務めを終わらせ、眼科医として余生を過ごしながら、教え子たちの働きを見つめていた乱。そんななか、弟子の1人である来島恒喜が、ある事件を起こします。

1889年、来島は、時の外務大臣だった大隈重信の条約改正案に反対して爆弾テロを敢行。大隈は右足を切断する重傷を負い、来島は爆破を見届けたあと、自らの首を掻き切って自害しました。
寝食を共にしたかつての弟子の行動を、乱は「匹夫の勇」――思慮分別に欠けた、血気にはやるだけのつまらない勇気――と評しました。

乱が病に倒れたのは、その翌年のこと。来島の行いを「つまらない勇気」と蔑みながらも、彼女はその死を無念に思い、悲嘆に暮れたのです。
自らが医師であるにもかかわらず、彼女は一切の治療を受けませんでした。その心中は推し量ることしかできませんが、きっと、晩年は教育者としての自分を省みていたはずです。多くの若者を育てた彼女は、多くの若者よりも長く生きました。
1891年、多くの教え子たちに囲まれながら、乱は静かにこの世を去ったそうです。59歳でした。

 

2人の女医が示した「権威ある女性の人生」

時代がどう流れようとも、最後まで医師としての役目を果たした榎本住。
時代の流れに加わろうと、国事に奔走する若者を育てた高場乱。
幕末を生き、明治維新を目撃した2人の女性医師は、対照的な人生を送ったように見えます。

彼女たちの存在や働きが、その後の女性の社会進出に貢献したという事実は、特に見当たりません。
しかし、榎本住はその優秀な医術を、高場乱はその指導力をもって、周囲から尊敬を集めました。
どんな時代であっても、女性は男性に劣ることなく活躍できる存在なのだ――彼女たちはそんなことを、私たちに示してくれている気がします。

 

(文・エピロギ編集部)

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<参考>
檀豊隆「高場乱(たかば おさむ)の『人参畑塾跡』発見」(博多の魅力、2013)
http://hakatanomiryoku.com/column/%E3%80%8E%E9%AB%98%E5%A0%B4%E4%B9%B1%EF%BC%88%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%B0%E3%80%80%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%80%EF%BC%89%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%BA%BA%E5%8F%82%E7%95%91%E5%A1%BE%E8%B7%A1%E3%80%8D%E7%99%BA
ふくおか先人金印記念館「高場乱 男装帯刀の女傑」
http://fukuoka-senjin.kinin.com/senjin/education/1781
「奈良県医師会勤務医部会 奈良県立医科大学授業に参画『医師のキャリアデザインのためのワークショップ』」(奈良県医師会「奈良県医師新報」、2013)
http://nara.med.or.jp/cms/wp-content/uploads/2018/07/kaihou_201302.pdf
探検!御所ガール 【奈良県御所市】
https://www.facebook.com/gosegirl/photos/a.384803791610688.90564.379025055521895/750527075038356/?type=1&theater

田原総一朗『日本近代史の「裏の主役」たち』(PHP文庫、2013)
永畑道子『凛 近代日本の女魁・高場乱』(藤原書店、1997)
石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』(海鳥社、2010)
舟久保藍「実録 天誅組の変」(淡交社、2013)

 

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