いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

第2回 時代の常識に抗った女医

女医養成機関の誕生[明治初頭~昭和中期編]

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成24年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/12/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。
シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。

第1回は江戸から明治初頭にかけて、女性が医師として働く道を切り開いた2人の女性、シーボルトの娘「楠本イネ」と、日本初の公許女医「荻野吟子」について紹介しました。
第2回は、明治初頭から昭和にかけて、日本で初めて女医養成機関を設立するなど、女性医師の教育に生涯を捧げた人物「吉岡彌生」を取り上げます。
女性に参政権が与えられたのは、1925(大正14)年のこと。女性参政権を求める声が大きくなったのは、明治の終わりから大正の半ばにかけてです。吉岡彌生の生まれた明治初頭は、まだまだ女性の社会的立場が弱い時代でした。
「女医が増えれば国が滅びる」とまで言われたこの時代を生きた吉岡彌生は、どのようにして女子のための医学教育体制を確立したのでしょうか。

 

吉岡彌生 日本初の女医養成機関を設立した女性

母の姿と、納得のいかない思い

1871年、静岡県小笠群土方村(現在の掛川市)で、漢方医である鷲山養斎とその女房みせの次女として、1人の女の子が産声を上げました。 名前は彌生。のちに吉岡彌生として日本初の女医学校を創立する人物です。
彌生は勉強熱心な子どもでした。小学校で優秀な成績をおさめる一方、弱い者いじめをする村の男子をこらしめるなど、強い正義感の持ち主でもありました。

勤勉で活発だった幼い頃の彌生は、しかし、心のなかにもやもやとした思いを抱えていました。家から外に出ず、朝から晩まで家事に追われる母の姿が、彼女の心に澱のようなものを積もらせたのです。
13歳で小学校を卒業すると、当時の一般的な女性と同じように裁縫や機織りなどの仕事を始めた彌生。その暮らしを送っている間、心から澱が消えることはありませんでした。

女性が家事をするという当時の「当たり前」に対してどこか納得のいかない気持ちを抱いていた、そんなあるとき。彌生は1つの新聞記事に目を奪われます。それは、医術開業試験に2人の女性が合格し、医師として正式に認められたという内容でした。
これだ、と彌生は思いました。女性でも自立できる、社会で活躍できる、と。漢方医の父と、医師を目指して東京で勉学に励む2人の兄の存在も影響し、彌生はこのとき、「医師になりたい」という明確な夢を持ったのでした。

旅立ちのとき

医師になるために医学校で勉強したい。ところが、父の養斎は彌生の夢に反対しました。彼は貧しい村人を無料で診察するうえ、米や野菜まで与えるような人物でしたが、「女性は家を守るべきだ」という考えに背くことに強い抵抗を感じたのです。このときの彌生は引き下がるほかに選択肢がありませんでした。

それから、彼女は独学で医学の勉強を始めました。夢を諦めなかったのです。父の了承を得られないまま机に向かい続けた彌生。
気付けば2年もの月日が流れていました。まだ十代の半ばだった彼女にとって、それは決して短い時間ではなかったはずです。
彌生の意志の強さに負けてか、養斎はついに娘の上京を許可。晴れて、兄が在籍する医学校「済生学舎」に入学することになったのです。村を離れるとき、かつて彌生の心にあった澱は、すっかり姿を消していました。

いくつもの壁を乗り越えて

済生学舎で彌生を待ち受けていたのは、これまで経験したことのない高度な授業でした。独学とはいえ2年間も勉強したのに、付いていくだけでもやっとという状況。
しかし、彌生を悩ませたのはこれだけではありません。済生学舎は女子にも門戸が開かれた珍しい医学校でしたが、「医師=男の職業」という認識がまだまだ常識だった当時においては、当然、女子学生は圧倒的少数派でした。いたずら、嫌がらせ、冷やかし。男子学生たちの心ない行動のせいで、彌生をはじめとする女子学生たちは、満足に勉強することができませんでした。「女のくせに医者になるなんて生意気だ」そんな言葉を投げつけられることもあったといいます。

辛い思いをしながら、肩身の狭い思いをしながら、それでも彌生は懸命に勉学に励みました。そして、21歳になった1892年、彌生は念願であった医術開業試験の合格を勝ち取り、日本で27番目の女性医師と認められました。入学した当時は18歳だった彌生。彼女はそれまで小学校でしか教育を受けたことがありませんでした。たったの3年で医師となった彼女は、いったいどれだけの努力をしたのか。その大きさは計り知れません。

臨床経験を積んだ彼女は故郷の土方村へ帰り、父が営む病院の分院で開業しました。彌生は産科の医師でしたが、内科、外科、歯科を問わず、あらゆる患者の診察をこなしたといいます。病院は大盛況でした。

吉岡荒太との出会い、母校の「女子の入学禁止」

1895年、彌生は24歳で再び上京します。ドイツに留学してスキルアップを図ろうとした彼女は、ドイツ語を学ぶために「東京至誠学院」に通い始めました。そこで出会ったのが、学院の経営者である吉岡荒太です。彌生は荒太と意気投合し、入学からわずか4カ月後に結婚。鷲山彌生は、吉岡彌生となったのでした。

結局、ドイツに留学することはありませんでしたが、彌生は東京で開業した「東京至誠病院」と学院の経営で、忙しい日々を送りました。夫との二人三脚。大変ながらも、それは幸せな日々でした。
そんなとき、彌生と荒太の元にある知らせが届きます。それは、彌生の母校である済生学舎が女子の入学を禁止したという内容でした。理由は「女子がいることで風紀が乱れる」ため。
彌生の心のなかには、かつて滞留していた澱が再び姿を現しました。彼女はのちにこの件について、「女子のみの医育機関の必要を感じた動機の一つ」になったと語っています。

東京女子医学校の設立

1900年、29歳になった彌生は、日本初の女医養成機関「東京女子医学校(のちの東京女子医科大学)」を設立します。開校当初の生徒はわずか4人。自宅の一室に粗末な机と椅子を並べただけの、お世辞にも整っているとはいえない環境でした。
ただ、夫の荒太と父である養斎の助力もあり、学校はどんどんその体をなし、生徒の数も増加。1908年には、ついに東京女子医学校から医師を誕生させるに至りました。

しかし、世間にはまだまだ「女性=家を守るべき存在」という認識が根付いていたため、「女性が医師になることは晩婚や独身を招いて、結果的に国を滅ぼす」という女医亡国論も唱えられていました。
そうした女性医師に対する否定的な意見に負けず、彌生の想いが込められた東京女子医学校は、続々と医師を誕生させたのでした。

叶えた夢の先にあった壁

その反面、生徒数増加に伴う校舎の移転や増築のせいで、吉岡家の暮らし向きは楽ではなかったようです。さらに、医師法が改正されたことで、「医学専門学校」を卒業しなければ医師になれないどころか、試験を受けることも許されなくなったのです。
廃校すら危ぶまれる危機的状況でしたが、当然、彌生は諦めませんでした。専門学校の認可を受けるべく、奔走します。新校舎の建築や附属病院の開設は、吉岡家の全財産をなげうって行われたそうです。

そして、申請から2年半がたった1912年。東京女子医学校は「東京女子医学専門学校」へと昇格しました。東京女子医学校の開設からここに至るまでの12年間は、まさにいばらの道でした。

女性の社会的権利を向上させるために

専門学校を運営する傍ら、彌生は女性の社会的地位を向上させるための社会活動に取り組んでいました。例えば、日本女医会代表としての第1回汎太平洋婦人会議への出席、女性として初めての内閣教育審議会医員の拝命など、あらゆる社会活動に参加していたのです。

ただ、愛国婦人会評議員、大日本婦人会顧問、大日本連合女子青年団理事長、大日本青少年団顧問といった地位に就いたため、敗戦後は一度、公職と教職から追放されました(のちに解除)。

たしかに、「軍医としての女性進出の奨励」などは、戦争に負けた日本では糾弾の対象となるべき行為だったかもしれません。しかし見方を変え、彼女の夢を追った姿を考えれば、そうした行為も「女性でも自立できる、社会で活躍できる」という、幼き日に抱いた想いの貫徹の結果だったように思えます。

その後、彌生の夢は専門学校の認可から医科大学への昇格へと変わります。関東大震災による被災、第二次世界大戦の空襲、最愛の夫であった荒太の死を乗り越え、1952年、ついに「東京女子医科大学」を発足させたのでした。彌生は81歳から7年間、学頭を務めました。

現在、世界で唯一となった女子医科大学を創設したその女性は、1959年、自宅で永遠の眠りにつきました。教え子たちに囲まれながらの最期だったそうです。88歳でした。

 

志を貫いたからこそ認められた女性医師の存在

吉岡彌生は生前、東京女子医学校の設立について「当時いかにも低かった婦人の社会的地位を向上せしめようとしたのが動機であります」と振り返ったうえで、次の言葉を残しました。

「終戦後の困難な時期にもついに初志をまげませんでした。(中略)その結果、ついに女子医科大学が認められることになったわけであります」

女性の社会的地位が低いのが常識であるとされた時代に抗い、傷付けられながらも決して折れず、女子の医学教育体制を確立した吉岡彌生。彼女の功績がなければ、その後の女性医師の増加と地位の確保は、もっと先のことになっていたかもしれません。

(文・エピロギ編集部)

<参考>
静岡県掛川市観光情報公式サイト「郷土の偉人 吉岡彌生(よしおかやよい)」
http://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/life/gakusyubunka/kyodoijin/y_yayoi/index.html
君川治「日本科学技術の旅 東京女医学校の創設者 吉岡彌生」
http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96{%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=130201&BACK=&CHCK=REV#
東京女子医科大学「吉岡彌生Q&A」
http://www.twmu.ac.jp/univ/about/faq.php
一般社団法人至誠会「創設者 吉岡彌生先生」
http://www.shiseikai.or.jp/A-yayoi-01.html
KAKEN 科学研究費助成事業データベース
「近代日本における女性とファシズムに関する歴史社会学的研究」研究概要(最新報告)
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/05851038.ja.html
東京女子医科大学「平成24年度(2012年度) 自己点検・評価報告書」
http://www.twmu.ac.jp/doc/top/2_jikotenken2012.pdf

吉岡彌生「女子医科大学創立と存在の意義」(「医人」7号5巻、1958年)

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