「自分の目標」を抱き、ゆっくりと、細く長く、しなやかに~子育てしながらの専門医&学位取得
他人と比較しない、自分が満足する人生を
本多 泉 氏(都立多摩総合医療センター 産婦人科医師)
臨床研修制度第一期生である本多泉医師は、大学での初期研修を選択せず、生まれ育った地元にある都立府中病院(現・多摩総合医療センター)を研修先として選択。結婚と第一子出産、第二子出産のたびに子育てとの両立に悩み、そのたびに周囲に助けられながら、「自分らしい選択」をしてこられました。マイペースを守りつつ、子育てと両立しながら専門医や学位を取得する。子育て・家事・家庭を抜きにした「自分の目標」に向かって、時に「割り切る」ことで歩み続けてきた本多医師に、肩の力を抜いた子育てと出産のたびに訪れたキャリアの転機について伺いました。
医師になれたことは、本当に幸せだと思う
—— ご両親に「人と関わる仕事」を勧められて医師を目指されたそうですね。
高校時代、理系科目、特に物理が好きだったので、将来は航空宇宙工学など未知の世界について研究するのはどうだろうかと、想像を膨らませていました。ところが、両親から私の性格を考えると「人と関わる仕事に就かないのはもったいない」と言われ、最終的に医師になると決めて医学部を目指しました。合格した瞬間は自分の人生が決められて窮屈な気分になりましたが、今は医師になれたことに幸せを感じています。
医師への道もそうですが、私の家事や子育ては小学校の教員を定年まで勤めあげた母親の影響も受けています。教員だけあって『赤毛のアン』は全巻読まなければ『赤毛のアン』ではなかったし、百人一首も小学校一年生で覚えさせられましたが、母の家事は決してほめられたものではなく、取り込んだ洗濯ものの山から服を取って着ることもありましたし、夕飯も手の込んだものは出てきません。父は家事をしない人でしたから、私と弟は小一で風呂掃除、小三で米とぎ、小六で味噌汁を作っていました。
「女性は家を守る」という家長制度の色濃い田舎に生まれた母は、家を飛び出して親戚の家に身を寄せ、一浪して大学へ進学した信念の人で、子育てしながら働くのは当然だったのでしょう。そんな母を支えてくれたのが、友人や知人、ご近所さんでした。保育園のお迎えは母の友人が来てくれて、学童保育後にはお隣で、まるでその家の子どものように過ごして母の帰りを待っていました。特に寂しい思いをした覚えはなく、親以外にも育ての親がいるという感じで、それは幸せなことだと感じて育ちました。
今、小学生の息子が2人いますが、手抜きの家事をしても負い目を感じないし、自分が幼稚園、小学、中学の受験をやらなかったので、子どもの受験は考えていません。子育てや家事に関して、それほどプレッシャーを感じず悩まずに済んでいるのは、いい意味で適当に育ててくれた母のおかげかなと思っています。
生まれ育った地元で医師になる
—— 本多先生は2004年に改正された臨床研修制度の一期生にあたりますが、生まれ育った地域の都立府中病院を研修先に選んだのは、どのような理由からですか。
今思えば、大学医局は安心して学べる指導員がいる病院に確実に派遣してもらえるところなのですが、当時は異動が多く振り回されるというネガティブなイメージがあって。働きながら子育てをしようと決めていたので、実家の近くで異動のない府中病院を初期研修に選びました。
産婦人科を選んだのは、大学の先輩が府中病院の産婦人科で、忙しくて大変な仕事なのに、とても楽しそうにしていたからです。当時の府中病院は総合周産期センターではありませんでしたが、地域の基幹病院としてお産もある程度は扱い、特に悪性腫瘍の診療に力を入れている病院でした。産婦人科の悪性腫瘍は、健診での発見から手術や抗がん剤治療、緩和ケアまで自分の科で診ることになります。最初から最期まで患者さんに深く付き合えるところがいいなと思っていました。ときどきお産でホッとできるのもバランスがいいと思っていました。
専攻を産婦人科医に決めてから、専門研修先を府中病院に決めるまでには「単一施設で研修を受け続ける」ことの不安はありましたね。医局に入局したらローテートする病院ごと、指導医ごとに方針があって治療の幅が広がりますが、単一施設研修だとそれらが限られてしまい、取り残されてしまうのではないかと。かなり悩んで、東京医科歯科大学や亀田総合病院にも見学に行きました。最終的に、結婚を目前にして実家や義理の両親の家が近いこの環境を手放すのはもったいないし、地元でお世話になった方の子どもをとりあげたり、知人の婦人科疾患を診てあげたりできる地元で働きたいという気持ちで、後期研修も引き続き府中病院で受けることに決めました。
周りに支えられ、育児をしながら専門医を取得
—— 後期研修中に結婚・出産され、復帰後は医科歯科大へ6カ月間研修に行かれています。仕事と子育ての両立はどのようにされていましたか。
想定外の妊娠でしたが、専門研修もある程度進み、当直も1人でできるようになっていたので、産休を取って現場を離れることにそれほど不安を感じませんでした。悪阻もなく、妊娠経過も良かったので、妊娠32週まで働きました。出産後は院内保育園に預けて働くことにしていました。
悩んだのは、出産後、いざ復帰するとなってからです。
産休前と同じように働くことはできないだろうとは思いましたが、具体的なイメージが湧きませんでした。子どもはどれくらいの頻度で熱を出し、私はどのくらい仕事を休むのだろうか。そういう状況で自分はどれくらい仕事量をこなせて、どれくらい皆の役に立つのだろうか。同僚や先輩に迷惑をかけないためには、どういう働き方をしたらいいのだろうか。悪性腫瘍の患者さんは急変したり、手術が長くなったり、本人や家族に説明する時間が長くなったりするから、初めから受け持たないことに決めた方がいいかもしれない。
不安ばかりが大きくなり、復帰当時に職場に伝えていた勤務条件は、かなり消極的なものだったように記憶しています。
一方で、いざ復帰すると、専門研修中でしたから、もっといろんな患者さんを受け持って経験値を上げたい、手術をしたい、という気持ちが出てきます。しかし、「やります!」と言いたいけれど、「本当にその患者さんを責任を持って診ることができるのか……」と自問し、やっぱり無理だと下を向くという毎日で、バリバリ働けない自分がここにいる意味はあるのだろうかという葛藤に苦しみました。
第一子ですべてが初めてなことに加え、子育てをしながら専門医資格を取り働き続けるというロールモデルが身近にいない環境に、どうしたらいいかわからなくなってしまいました。
「環境を変えてみたらどう?」。悩んでいる私に東京医科歯科大学での6カ月間の研修を勧めてくれたのは、厳しいけれど、個人の状況をよく考えてくださる当時の産婦人科部長でした。
働き続けたいと考えている今の職場から離れてしまっていいのか、現状の職住近接でもギリギリなのに、片道1時間の通勤時間はあまりにも大きなハードルで、かなり悩みました。それでも、腹腔鏡手術や不妊治療など、当時の府中病院ではできない症例が積めることもあり、研修に行くことを選びました。
大学での研修中は、子どもを7時30分に院内保育園に預けて1時間かけて大学へ行き、17時に研修を終えて18時過ぎにお迎えへ行く毎日でした。7時半に子どもを預けると8時からのカンファレンスに間に合わないのですが、途中からの出席でもいいように取り計らってくれました。当時の教授は、無理しなくていい、学べるものを学んでいけばいいと大変暖かく私を迎えてくださいました。帰り時間も指導医の先生が、自分から「帰りたい」とは言い出せない私を察して「このお産は私たちが診るから」とか「そろそろ帰りなさい」とさりげなく声をかけてくださって、さらに当直も免除に。今も学会などで先生をお見かけすると、思わず駆け寄ってしまうくらいお世話になりました。
また、勤務環境だけでなく、大学ならではの抄読会やリサーチカンファレンスなど学術的な世界にも触れられた点でも、とても恵まれていたと思います。
上手くいかない両立……。意を決して非常勤に
—— 専門研修を終了し、府中病院に常勤として復帰されましたが、専門医取得1年後に当直免除の常勤的非常勤になっています。大きな転機だったのではないでしょうか。
仕事と子育ての両立という意味では、大学から戻って常勤として働き出してからのほうがずっと苦労しました。往復2時間の通勤がなくなることや、長男が大きく丈夫になってきたことで、府中病院で常勤となっても十分働けるだろうと思っていました。しかし、復帰してみると避けようのない合併症が起きてトラブルになったり、思っていたように仕事が捗らなかったりで、空回りしている自分にイライラしていました。
産休復帰後のような不安にひるむことなく悪性腫瘍も当直もやっているのに、なぜ皆は私を評価してくれないのだろう? 仕事も家事も子育てもこんなに一生懸命頑張っているのに、なぜこんな辛い思いをしているんだろう?「なんで? なんで?」ともがいていました。
そんななか、「スタッフがみんな、あなたとは働きたくないと言っている」と部長面接で言われたときは、思わず部長の前で号泣してしまいました。今から思うと、あのときの私は自分のことに精一杯で、頑張ってくれているスタッフのことを思いやる気持ちが欠けていたのだと思います。
「ここを放り出されたらどこへ行ったらいいんだろう」と就業中も帰宅してからもずっと考え続け、日中の仕事も府中病院より楽で当直がないような病院へ行くことも考えました。でも、ここで辞めてしまったら子どもが大きくなって手がかからなくなったとき、自分がイメージしている「周産期専門医をとって、ガンガン勉強して、キャリアアップしている」方向からは外れてしまい、戻れなくなってしまうだろうとも思いました。
総合周産期センターに移行することが決まっているこの病院で「働き続けたい」という希望は持っていましたから、意を決して「非常勤でいいので置いてください」とお願いし、府中病院が多摩総合医療センターへ移行し、総合周産期センターとなった翌年度から、週5日勤務の常勤的非常勤になりました。受け持ち患者は変わらず、当直は免除でした。前年度までは常勤だったので、病院移転のための煩雑な事務仕事なども引き受けていましたが、非常勤となった後はそういった仕事での残業はなく、「常勤だから甘えられない」という気持ちの部分からも解放され、だいぶ楽になりました。
時間管理可能なキャリアアップの道~大学院進学
—— 非常勤の後、第二子出産直後に医科歯科大学大学院で5年間学ばれています。
苦肉の策で非常勤勤務を選んだものの、このまま「非常勤で当直なし」を続けた先のキャリアアップが見えず、ともすると「このまま非常勤でぬくぬく過ごせる」という状況に危機感を持っていた私に、大学院へ進んでいた先輩が、「大学院もいいのでは?」と勧めてくださいました。
細胞生物学はもともと好きな科目で、いずれは大学院へ行きシグナル伝達などの基礎研究にどっぷり浸かる日々を過ごしてみたいと思っていました。新生児脳性まひの治療研究、再生医療の分野の研究をさせてもらえるというのも大きかったですね。決して大学院を甘くみていたわけではなく、臨床より厳しいことは覚悟していました。一方で、人相手の臨床と違い自分で時間をマネジメントできるという点では家庭との両立が可能なのではないかと考えました。研究で得た知識は後々きっと役に立つはずですし、少なくともキャリアダウンにはならないだろうと考え、東京医科歯科大学の医歯学総合研究科博士課程への進学を決めました。夫も義理の両親も賛成してくれ、応援してくれました。そうと決まったらアクセルがかかり、事前にお世話になる予定の基礎研究の教室にご挨拶に伺ったり、夏休みに実験の見学に行ったりもしました。第二子妊娠がわかったのはそんな時。大学院進学を決めた夏頃で出産予定は来春でした。どうしてそのタイミング? と笑われそうですが(笑)。
第二子は、当然ですが第一子よりも精神的な余裕があります。熱を出す頻度もだいたい見当がつくし、保育園に預けられれば自分の時間が計算できますから。大学院へは「子ども産んでから来ます」と宣言し、3月末に出産。退院して3日後の入学式に出席しました。どうしても出席したかったので頑張りましたが、産後の無理はいけませんね。大学院は4~6月を休み、7月から通い始めました。そのため次男の授乳は4カ月間に。長男は6カ月与えましたが、その辺はあまりこだわりませんでした。早生まれで小さくて苦労するだろうなと思いましたが、弟は兄を見て育つのでいろいろなことが早くできるようになるんですね。
大学院は5年間かけて「子宮内感染に起因する脳室同囲白質損傷に対しての臍帯由来間葉系幹細胞の治療効果の検討」という論文を1本書き、卒業しました。教授について科研費をもらうためのレポートを作成したり、その研究費で抗体や細胞、試薬を買うなど、臨床では経験できないことも学べました。
もちろん、子どもがいなければ研究に割ける時間も増え4年で卒業できたのかもしれません。でもそこは「無理はしない」と割り切りました。
こうして研究と子育てとを両立できたのは、指導してくださった研究室の教授が子育てに大変理解があり、ディスカッションなどは厳しい方なのに「子どもが熱を出した」と言えば、「すぐに帰れ」と何度も助けてくださったおかげです。目標を見失いかけていた私に「大学院へ行け」とお尻を叩いてくださった先輩にも感謝ですし、周囲の方の励ましと支えがあっての大学院生活でした。大学院時代に長男が小学生になり、小一の壁をふわっと乗り越えられたのもラッキーでした。
「勇気あるね」の言葉をかみしめた、“浦島太郎”な現場復帰
—— 復帰して1年経ちました。現場を5年間離れていたわけですが、感想はいかがですか。
復帰した当初は、正直きつかったですね。復帰を前提にしていたので院生時代も多摩総合医療センターの当直に入っていましたが、通常の外来と妊婦健診は5年間離れていたため、浦島太郎状態でした。病院は総合周産期センターとして軌道に乗っていましたから、今までみたこともないような合併症妊娠や胎児異常の管理をしないといけません。既にやらない検査、使っていない薬などもあって、周囲の先生に「わからない自分」を大アピールして教えてもらっていました。
本来であれば14年目の中堅で教える立場です。周囲の若い先生が仕事をどんどんさばいていくのを見ながら、私が復帰したときに医長がふと口にされた「総合周産期センターに戻ってくるなんて、勇気あるね」という、励ましとも驚きともとれる言葉を思い出し、その意味をかみしめました。現場は5年間で大きく変わっていました。5年という時間の流れを身に沁みて痛いほど感じました。
2年目に入った今は、若干できるかなと思い始めている自分を戒め、「先生、違いますよ」と注意してもらえる環境を大事にしながら、わからないことは周囲に素直に聞いて教えてもらい、自分でも大急ぎで勉強しています。勉強の時間が十分かといえば、全然足りていませんが、自分が諦めないうちは知識も技量も向上させていくことができると思うので、医歴や年齢にとらわれず、コツコツ頑張りたいと思います。
—— 病院と家庭、子育ての環境はいかがですか。
多摩総合医療センターは府中病院の時代から「休むときは休め」という価値観があって、誰でも長期休暇が取れるし、土日当直の人は平日に休みを振り替えられる制度が整っています。当直明けのdutyもありません。主治医制ですが当番制でもあり、主治医が不在時に受け持ちの患者さんに何かあったときはチームで情報共有して対応します。子育ての有無にかかわらず責任をもって誰かに頼めば休んでよいという雰囲気がありますね。当直は1回3人で回しても、月に5回程度です。どれも、スタッフが多いからこそできること。恵まれていると思います。
現在、子育て中の女性常勤医師は3人、非常勤医師が1人いて、子育て中の男性医師もいます。子育てが文化として根付いていて、子どもの病気で急遽休む場合でもクレームが出ない。全員でサポートしています。一方、子育てを理由に一律に当直を免除することもありません。私も含め常勤の3人は当直をしています。私は当直が好きです。家にいると「母ちゃん母ちゃん」と横槍が入って落ち着いて読めない教科書がゆっくり読めるし、自分の時間が持てている、という気分になります。もちろんそんな時間もなく働き続ける夜もありますが。
家庭での子育てや家事については、メインは私と言っていいのか微妙です。夫が家事全般をできる人ですし、役割分担をしなくても、お互い必要なことをやっているという感じ。大学院時代の時間のかかる実験の時も、今の職場に戻ってからの当直や長時間手術など、私が夜家にいないときは夫が夕ご飯を作り、子どもたちを寝かせ、翌日にお弁当が必要であれば作っています。また、週に1回ずつ家事を完璧にこなす優しい義母といい加減にこなす実母に来てもらっています。美味しい夕ご飯と、掃除機のかかった綺麗な家が待っています。感謝しています。
子育て環境として外せないのが、とても良好なご近所づきあいです。子どもの保育園時代から父母会活動には比較的参加していた方なのですが、子どもたちを通じて仲良くなったママ友、パパ友にも助けられています。保育園時代は急遽お迎えをお願いしたりお願いされたり、小学生になってからは、息子たちの話では意味不明な持ち物のことや、参加できなかった保護者会の情報、時には授業参観でのうちの子どもの様子なども教えてもらったり。この環境で私が仕事を続けられなかったら、誰も続けられないですよね、きっと。
—— 今後のキャリア形成について教えてください。
まず、母体胎児専門医を取得しようと考えています。試験に合格するだけではなく、しっかり実力をつけて、自信を持って後輩にアドバイスできる、中身の伴った状態で専門医を取れるようにしたい。
産婦人科専門医までは他の同年代医師と同じ位置で取りましたが、周産期は完全に知識も経験も遅れをとっていると思います。ある程度挽回できないと、この病院に籍を置くのは難しくなるだろうと感じています。
子ども2人を育てながら大学院へ行くと決めたのは私の選択ですし、臨床の現場を5年間足踏みして学位を取ったことが自分の目標の妨げになったとは思っていません。幸い、研究に関してもコツコツ続けられそうな環境があります。産婦人科医で研究に携わった私にしかできない仕事もあると思っています。目標を変えずに今は少しずつ頑張ります。
子どもは育ち、いつかは自分の時間が持てるようになる
—— 最後に子どもをもって働こうと考えている医師にアドバイスをいただけますか。
これだけ子育ての環境が整っている私が言っても説得力に欠けるかもしれませんが、産みたかったら、子どもが欲しいと思ったら産んでほしい。それで仕事も続けたかったら、怖がらないで、気負わないで飛び込んでいってほしいです。人生と同じように子育ても人それぞれ。他の人と比較しないで自分が満足できるようなやり方でいけば、肩の力も抜けて楽になるのではないでしょうか。
両立についても、育児や家事に時間をとられて自分の能力が落ちたと感じることがあるかもしれませんが、パフォーマンスが落ちただけで能力が低くなったわけではないし、子どもはいずれ巣立って自分の時間が戻ってきます。そのときのために、子育て、家事、家庭を抜きにした自分の目標のイメージを抱き続けてください。しなやかに自分の人生を歩き、自分らしく働く女性があふれる社会になったら、どんなにいいでしょう。
焦ってうまくいかなかった時期、父から「細くてもいいから長くやれ」「つらいときは頭を下げて丸くなってやり過ごせ」と言われました。無理をすると潰れます。潰れたらそこで負け。これからも目標に向かってゆっくり細く長く続けていきます。
(聞き手=よしもとよしこ[吉本意匠] / 撮影=加藤梓)
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- 本多 泉(ほんだ・いずみ)
- 都立多摩総合医療センター 産婦人科
東京都生まれ。群馬大学医学部を卒業後、都立府中病院(現:都立多摩総合医療センター)にて初期研修医となる。2007年に結婚・長男を出産後、府中病院と東京医科歯科大にて後期研修、その後、都立府中病院に戻って常勤、翌年から週5日当直なしの常勤的非常勤となる。2011年3月に次男を出産後、東京医科歯科大学大学院へ進み、2016年に卒業。同年より都立多摩総合医療センターに復帰し、常勤として働いている。産婦人科専門医。
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