医療がない場所で、医療を求める人のために全力を尽くす【中編】
人道援助活動家を、日本でも仕事として確立させたい
加藤 寛幸 氏(小児科医/国境なき医師団日本 会長)
紛争が行われている場所や感染症の流行地、難民キャンプで緊急の医療活動に従事する「国境なき医師団(Médecins Sans Frontières=MSF)」。その名前は多くの人が耳にしたことがあるはずだし、活動内容についてのおぼろげなイメージもあるかもしれない。けれども、その活動の実態は、あまり知られていない。納得のいく医療を施すのが難しい現場で、医師たちはどのような活動に取り組んでいるのか。目の前で苦しむ人を救うためにすべてを捧げる……。医師の原点ともいえる活動に打ち込む、加藤寛幸会長にその活動内容や今後の展望などを伺いました。
前編では、紛争地帯や被災地での緊急医療援助について、実際に派遣されたバングラディシュ・ロヒンギャ難民キャンプでの活動を中心にお話をいただきました。中編では、人道援助活動への理解普及に奔走し、医師を始めとする派遣スタッフの人材確保に腐心する、「国境なき医師団日本」の会長としての仕事についてお聞きします。
一人でも多くの仲間と共に行動するために
日本での「国境なき医師団日本」の会長としての仕事は、世界5チーム37の事務局からなる「国境なき医師団」全体としてどこに向かうかを議論する中で、日本の意見を集約し発言すること。そして私たちがやっていることを多くの人に知ってもらうことです。
我々の行っている「人道援助活動」について正しく理解してもらい、決して特別な人や物好きな人の行為ではなく、誰にとっても大切なことなのだと感じてもらいたい。その上で人道援助という考えを日本に根付かせたいという思いで、講演会に伺ったり、寄付を募ったり、必要があれば製薬会社に協力を求めたり、派遣人員の確保にと奔走しています。
医師でいうと、現時点での登録数は400名ぐらいですが、実際に活動しているのはその4分の1程度。メンバーは不足しており、他職種もですが、一人でも多くの医師に共に活動してもらいたいと願っています。
求められる「自己で完結できる能力」と、入団後のキャリアパス
国境なき医師団で活動するために、特殊な技能や最先端の技術を身に付ける必要はありません。派遣先の医療レベルは、医療が高度に発達した日本とはまったく異なります。
むしろ、基本的なことをすべて自分で完結できるだけの能力、その裏付けとなる経験や技術、知識が求められます。具体的には内科、小児科、産婦人科、外科、麻酔科、精神科、救急などの診療科が中心で、5年ぐらいの実務経験が一つの目安となるでしょう。外科医を例に挙げれば、腹部、胸部に限らず、時に整形外科的な手技や脳外科的な技術が求められることもあると思います。
※詳細は「国境なき医師団のホームページ」参照のこと
そうした医師としてのスキルに加えて、ストレス耐性とコミュニケーション能力は必須です。日本ではまず経験することのない患者数にも対応しなければなりません。しかも、完全な治療をできないために、患者さんを失う可能性も高い。これは医師として非常にストレスフルな環境です。
もう一点、そもそも言葉が通じないケースが多いことに加えて、文化的な背景がまったく異なる人々と向き合わなければなりません。そんな中で医師として治療に当たるためには、何とかコミュニケーションを取る必要があります。要は言語力の問題ではないのです。
そのため国境なき医師団ではTOEICやTOEFLなどによる基準は設定していません。コミュニケーション能力については、実際の面接で判断されます。
入団が認められると、それは一定の能力がある即戦力と判断されたことを意味しますので、派遣に際しての事前トレーニングなどはほとんどありません。もちろんエボラ出血熱の対応チームなど特殊な状況の場合は、それに特化したトレーニングは行われます。
それよりもむしろ、経験を積んだ人が次のステップに行くためのトレーニングが用意されています。最初はドクターとして患者さんを診ることからスタートして、経験を積むと何人かのドクターたちを束ねるスーパーバイザーのような役割を任されるようになります。病院での支援であれば、病院全体でのマネジメントを担う。その後には派遣地域全体を見渡す、といった感じで責任範囲が増えていきます。こうしたキャリアパスは、日本で普通に医師として働いている場合とは違う部分かもしれません。
もう一つ、国境なき医師団に所属すると得られる貴重な体験、それは「The MSFer」*と我々は呼んでいるのですが、医師としてだけではなく、人間的にも、うまく言葉では表現できませんが、ちょっと言葉を交わしただけで魅了されてしまうような素晴らしい人たちとの出会いです。そういう人たちとの出会いは、国境なき医師団の活動に参加して得られる大きなご褒美ではないかと思います。
* 注)MSF:Médecins Sans Frontières(国境なき医師団)の略。
日本で仕事を続けるのが難しい、という現実
ただし、現実問題として活動を続けていくためには、経済的な苦労もあります。派遣中の給料は、日本の給与水準に比べると低いですが、毎月きちんと日本の銀行口座に振り込まれます。現地では宿舎が手当されるほか、生活費などもすべて支給されるのでお金を使うことはあまりありません。ですから半年派遣されて日本に戻ると、ある程度のお金が振り込まれている。独身ならこれでしばらく休養して、英気を養って再び現地に赴く。そんなサイクルを繰り返す中で、医師として得難い体験を積むことができるのですが、家族持ちとなるとこうはいきません。
特に難しいのが内科系の医師です。外科や麻酔科、産婦人科などの医師は、派遣期間が1カ月から1カ月半ぐらいなので、何とか病院勤めを辞めずに行くことができる。ところが内科系の医師だと短くても3カ月、基本は半年以上の派遣になるので、どうしても仕事を続けるのが難しくなります。
そのためいったん退職して半年ほど活動に参加し、戻ってきて再就職してという流れになりますが、これを何度も繰り返すのは厳しいでしょう。
日本に戻れば、国境なき医師団との契約はいったん終了します。終了後には経済的なサポートはもちろん、雇用のサポートもありません。日本での仕事は自分で探さなければならないのです。ストレスで言うと、むしろ日本に戻ってからの方が強いかもしれません。
人道援助活動家を仕事として確立させたい
私自身、日本での社会的ポジションは、はっきり言ってフリーターです。フリーランスといえば聞こえが良いのかもしれませんが、実態はフリーター以外の何者でもない。私のやっている仕事、自分では「人道援助活動家」と考えていますが、こんな活動は少なくとも今の日本では職業としては成立していません。だから日本に戻ってくると、ボランティアで引き受けている会長の仕事と並行して、生活費を稼ぐため当直など病院でのアルバイトに精を出しています。
こうした状況を打開するためにも、一刻も早く我々の活動に対する認知を高めて、人道援助活動家を仕事として確立させなければなりません。
こうした処遇に関しては欧米のスタッフとの大きな違いを感じます。ヨーロッパなどでは、定期的に国境なき医師団に医師を派遣する病院があります。それらの病院では、毎年数名の医師を派遣するための予算を確保しているのです。だから活動に参加する医師は、経済的に何も心配することなく、活動に従事できる。こうした仕組みが成立するのは、人道援助活動の意義が社会的に認知され、制度として確立しているからでしょう。
日本でも、私たちの活動を支援する動きが少しずつ出始めています。こうした動きを、社会全体のムーブメントにまで広げていくこと。これが国境なき医師団日本の会長としての私の課題です。
助けを求めている人が片方にいて、その人たちを助けることのできる医師がもう片方にいる。人が人を助けるのは、当たり前の行動です。それがまともな仕事として成立する社会に日本を変えていかなければなりません。
Most Welcome. 飛び込めばきっと活動の意味を理解してもらえる
誰にとっても人生は一度きり。だから自分の好きなこと、やりたいことを見つけて、それに邁進する生き方は素晴らしいと思います。一方で、世の中には、助けを、そして助けることができるあなたを必要としている人がいます。
私たちの活動の場は海外が中心ですが、別に外国が好きで海外に行くわけではありません。東日本大震災で現地入りした時には、これまで経験した被災地での活動経験を活かし、今こそ日本の人たちのために役立てると、「このために、今まで俺たちはやってきたのではないか」と仲間うちで話したりもしました。
日本も外国も関係なく、私たちは、命の危機に瀕している人たち、本当に苦しい思いをしている人たちのところに駆けつけるのだという思いでこの活動をしています。もちろん、医師不足の日本で医師として働くのも非常に重要な仕事です。我々の活動とどちらが重要かなどと比較することはできません。ただ、一度でも経験すれば、我々がこの活動を続けている意味をきっと理解してもらえると思うんです。だから思い切って飛び込んできて欲しい。Most Welcome. チャレンジしてくれる人を心から歓迎します。
東日本大震災の被災者の診察にあたる加藤医師(宮城県南三陸町、2011年3月撮影)
※後編に続きます
(聞き手=竹林篤実 / インタビュー写真撮影=加藤梓)
国境なき医師団(Medicins Sans Frontieres:MSF)は、独立・公平・中立な立場で、医療・人道援助活動を行う国際NGO。アフリカ、アジア、南米などの途上国、中でも紛争や感染症の流行地などでのその献身的な活動は世界中から高く評価され、1999年にはノーベル平和賞を受賞した。
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- 加藤寛幸(かとう・ひろゆき)
- 1965年、東京生まれ。1992年、島根医科大学(現・島根大学医学部)卒業後、2001年、タイ・マヒドン大学熱帯医学校において熱帯医学ディプロマを取得。東京女子大病院小児科、国立小児病院手術集中治療部、Children's Hospital at Westmead(Sydney Children's Hospital Network)救急部、長野県立こども病院救急集中治療科、静岡県立こども病院小児救急センターなどに勤務。国境なき医師団参加後は、スーダン、インドネシア、パキスタン、南スーダンへ赴任し、主に医療崩壊地域の小児医療を担当。東日本大震災、エボラ出血熱に対する緊急援助活動にも従事した。
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