「AID(非配偶者間人工授精)」を知っていますか?

“遺伝上の父親”を探す1人の医師から

加藤 英明 氏(横浜市立大学 感染症内科医)

AID(非配偶者間人工授精)という言葉を聞いたことはありますか?
私も正直なところ、自分がAIDで生まれたと知るまでは、この言葉さえ知りませんでした。AIDは無精子症など男性不妊のケースで、夫婦以外の匿名提供者から精子提供を受けて行う不妊治療です。日本では1949年に第一例が誕生して以来、累計15,000人以上が生まれているとされています(正確な統計がないため論文等からの推計です)。

AIDで生まれた子どもは戸籍上、治療を受けた夫婦の嫡出子の扱いになり戸籍には何の記載も残りません。そのため両親がAIDを受けたことを秘密にしていれば、生まれた子どもはその事実を知ることができません。しかし予期せぬ形で事実を知ることがあり、秘密保持を前提としたやり方にはほころびが見えてきています。

 

はじめて知った事実

私がAIDで生まれたことが判明したのは2002年、医学部5年生のとき。病棟実習の余った時間でABO式血液型とHLA(Human Leukocyte Antigen:ヒト白血球抗原)の判定をやらせてもらいました。移植医療に興味があったこともありますし、私の血液型はO型、父親がAB型だったことも理由の1つです。精査したところ父親のAB型は特殊な亜型と判明します。しかし、参考のため検査したHLA検査では、母親と私は半分以上の座が一致したのに対し、父親と私はHLA-AとHLA-DRが2座とも異なっていました。血縁のある親子であればHLAの半分が一致するはずです。

私は両親が44歳のときに生まれた子どもで当時珍しい一人っ子でしたが、これまで親との血縁関係に疑問を持ったことはありませんでした。この時点では、自分は親戚からもらわれた養子なのかな、くらいに考えていました。

 

予期せず事実を知らされるという危機

数日後、母親に「お父さんと血が繋がっていないみたいなんだけど」と切り出したところ、返ってきた答えは予想外のものでした。父親が無精子症と診断されたこと、都内の大学病院に通って第三者からの提供精子を使った人工授精を勧められたこと。提供者は匿名の医学生だということ。さらに、私を妊娠したあとは地元の病院に通院し、普通に妊娠した子どもと同じように出産したことなどです。つまり、自分の遺伝子の半分は匿名の提供者のものだったです。

「秘密は墓場まで持って行くつもりだった」と母親は言いました。私はその時29歳でした。29年間もそのような重要なことに気付かなかった自分に呆れる一方で、教えてくれなかった両親には腹も立ちました。

自分は何者なのか。今までの29年を一緒に過ごしてきた父親との記憶は何だったのか、これまで自分だと思っていたものが足元から崩れていくようでした。とあるアニメ映画で、滅びの呪文を唱えると空に浮かぶ城が崩壊して海に墜ちていくシーンがあります。私はいつもあのシーンを思い出します。

 

隠しておくことが前提の治療と、そのほころび

両親が受けたのはAID(非配偶者人工授精)という治療でした。インターネットで調べてみてもAIDに関する情報はほとんどなく、生まれた子どもの経験談もありませんでした。私はAIDに関する論文や新聞記事を一通り読み、両親の当時の主治医だった故・飯塚理八先生をはじめとする医師たちに話を伺いに行きました。

1970年代にAIDはいくつもの大学で行われており、両親が治療を受けた大学病院でも年間400例が妊娠していました。AIDを行う施設では両親に対して、治療については誰にも話さないよう、また子どもにはAIDで生まれたことを伝えないよう(子どもには伝えない方が幸せだと)説明されてきたそうです。また必ずしもその大学病院で出産するわけではなく、多くの子どもは生まれたあとの経過をフォローされていませんでした。

子どもや周囲に治療の事実を隠しておく、というやり方は一定のところまでは成功していたのでしょう。事実、これまでに「AIDで生まれた」と名乗り出ている子どもの数は十数名で、多くの子どもはAIDで生まれた事実さえ知らないと考えられます。しかし、秘密を前提とした治療はどこかで崩壊します。私のように血液検査で判明した例もありますが、両親が死の間際や離婚の際などに耐えきれず、心の準備がないまま子どもに事実を伝える、という経験談が多く聞かれるようになってきました。

 

遺伝上の父親、異母兄弟を探す子どもたち

当時の関係者のお話から、私の精子提供者(遺伝上の父親:biological father)は、ある大学医学部の特定の学年にいた、ということが分かりました。そして1人の精子提供者からは最大10名の子ども(異母兄弟)が生まれた可能性があることも分かりました。私は名簿やインターネットから情報を集め、何人かの当時の卒業生に会いに行ったりもしました。しかし、なかなか提供者本人には巡り会えません。

半年くらい経ったところで、同じようにAIDで生まれた20代の人と会い、「私たちのような思いを他の子どもたちにして欲しくない」という思いで子どもの自助グループを作りました。また、欧米のAID(※)で生まれた子どもたちとも知り合いになりました。
※欧米では通常、AIDをDI(Donor Insemination)と呼びます。

米国では、日本と同じく正確な統計がないのですが、日本よりも多くのAIDが行われており(同性婚カップルがAIDで子どもを持つケースも多いようです)、すでに数万人の子どもたちによる自助グループがありました。そして彼らは、困難が予想される精子提供者探しではなく、同じ提供者から生まれた異母兄弟探しを始めていました。海外では「23andMe」などの遺伝子検査キットが100ドル程度で購入できます。年齢やクリニック名から兄弟候補を探して遺伝子検査を行うことも可能で、AIDによる異母兄弟がすでに1万人以上判明しています。

 

AIDの構造的な問題点

AIDの問題点は、子どもが自分の出自(AIDで生まれたという事実や遺伝上の父親の情報)を知ることができない点にあります。人は生まれつき出自を知る権利がある、という点については多くの方が自然に同意されると思います。WHOの子どもの権利条約に書かれているように、出自を知る権利は「自分は何者なのか」に答える一プロセスなのです。

もちろん「世の中には社会的事情で親の分からない子もいる」「育ての父親に申し訳なく思わないのか」などと批判的な発言をする方もいます。しかしAIDは医師の手を借りて行われる医療処置です。治療を行う時点で、生まれてくる子どもは遺伝上の父親を知ることができないと分かっています。それを人為的に行ってよいのでしょうか。

現在のやり方は、両親は不妊の事実、また精子提供を受けたという後ろめたい気持ちから逃れるために、生まれる子どもに「出自が分からない」という重荷を背負わせています。その構造的な欠点がある以上、実施する医療者は慎重になるべきです。

 

今後のAIDや卵子提供に必要なこと

私自身、需要がある限りAIDはなくならないと思っています。これからは卵子提供という新しい技術も広がっていくでしょう。精子の販売や、海外でのAID、卵子提供を斡旋する業者もあります。単純にAIDや卵子提供を取り締まったり禁止したりするのみでは意味がありません。

日本では2003年に厚生科学審議会から「子供の権利として15歳になったら、提供者の住所・氏名を知ることができる」という先進的な答申が出されました。しかし、この答申は長く放置され、その後10年以上経っても法律化の目途はたっていません。

しかしこれからは提供者登録、実施施設登録の制度や、国内で精度管理が保障される仕組みを作るべきです。生まれた子どものカウンセリングを行い、可能であれば提供者情報の一部にアクセスできるような窓口を作ることも必要です。また、治療を受けようとする両親の相談に対応できる不妊カウンセラーの確保など、制度整備も求められます。

AIDという治療は、一般の医師や、子どもと密に接する教師や助産師、養護教諭たちにもほとんど知られていません。私たちは、両親が子どもにAIDの事実を伝えられるような社会になるように一般の方々や医療関係者への啓蒙を続けていきたいと思います。

 

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加藤 英明(かとう・ひであき)
1973年、横須賀市生まれ。2004年、横浜市大医学部卒。内科専門医、感染症専門医。2011年から実名を公表して講演活動などを行う。著書にAIDで生まれた子どもの自助グループ「DOG(Donor Offspring Group)」のメンバーらとつづった『AIDで生まれるということ』(萬書房、2014)。
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