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治らない患者さんの幸せのために医師と医療ができること

高野 利実 氏(腫瘍内科医/虎の門病院 臨床腫瘍科部長)

全国の病院のモデルとなる理想の腫瘍内科をつくる

「日本に真の腫瘍内科をつくる」。医師になってからの私の夢が一気に現実味を帯びてきたのが2010年。当時の虎の門病院院長だった山口徹先生が、私に臨床腫瘍科の立上げから運営までを任せてくれたのです。

日本において、腫瘍内科の歴史はまだ浅く、真の腫瘍内科が根付いているとは言えません。2007年にがん対策推進基本計画が発表され、国が腫瘍内科の設置を後押しするなど、この10年、腫瘍内科には追い風が吹き、ブームのように、腫瘍内科が多く誕生しました。しかし、そのすべてが、患者さんや他の診療科の役に立っていたかというと、そうではありません。名前だけの腫瘍内科も多くあったように思います。腫瘍内科という名前を掲げながら、肺癌しかみられないとか、抗癌剤をしないなら受けられないとか、そういうところもありました。

山口先生から、「真の腫瘍内科」づくりの大きいチャンスをいただいて、まず取り組んだのは、仲間探しです。ツテを頼って熱い思いを伝えると、私と同年代の医師ふたりが賛同して加わってくれました。

私を含めて3人とも当時は30代。若造なりにでかいことをやってやろうと、スローガンを「日本一の腫瘍内科をつくる! 」と決め、「誰もやってこなかったことをやるぞ」「臨床試験で日本をリードしよう」「真の腫瘍内科医の育成に全力を注ごう」……、どんな診療科にするのかワクワクしながら議論を交わしました。

現在は、他の診療科と連携しながら、乳がん、消化器がん、泌尿器がん、婦人科がん、肺がんなど、あらゆる固形がんを幅広く担当しています。これだけ幅広く対応できる一般病院は、ほかにはありません。医師はスタッフからレジデントまで10人を数え、臨床研究コーディネーターを含む総スタッフ数は17人。忙しいけれど、同じビジョンをもつ仲間がいることは、本当に幸せなことだと実感しています。

 

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学生時代に出会った「腫瘍内科」という言葉

そもそも腫瘍内科医を目指したキッカケは、大学5年の時の出会いにありました。当時、私は東大医学部同窓会・鉄門倶楽部が発行する『鉄門だより』の編集長をしていました。特集の企画も取材先も学生が自由に決められるという恵まれた環境で、全国の魅力的な方々に取材する機会を得ました。そんななかで、当時国立がんセンターの総長だった阿部薫先生にもお話をうかがいました。先生は「治らない病気と向き合う人に対して医療で何ができるのか。それを考えるのが腫瘍内科医の仕事だ」とおっしゃいました。この時初めて「腫瘍内科」という言葉を聞き、その瞬間、私が目指していたのはこれだと思ったのです。

私は小さい頃から「医者になりたい」と思っていましたが、「医者とは、病気を治し、命を救う職業」という以上のイメージは持っていませんでした。高校生の頃、NHKスペシャル「驚異の小宇宙 人体」を見て、そのイメージは揺らぎました。シリーズの最終回で、免疫システムの話が取り上げられ、「人間は、生まれたときから、死ぬようにプログラムされている」ということが、淡々と語られたのです。死が自然なことだとするなら、死に抗おうとする医学は自然に反しているのかもしれない。死を内在する人間に対して、死を遠ざけるのとは違う、医療の本質があるのではないか。そんなことを考えるようになりました。

その後、医学部に入って、偉い先生方から医学を学び始めたわけですが、講義で習うのは病気の原因と、どこをどうすれば治るといった治療の話ばかり。治らない病気に対してどうするのか、という私の疑問に答えてくれるような講義はなく、講義を聴くよりも、外に出ていろんな活動をし、多様な人たちとつながることに魅力を感じるようになっていきました。実際、講義はそっちのけで、『鉄門だより』の編集長の仕事、ボート部の合宿、日米学生会議、五月祭医学部MI企画実行委員長など、課外活動に熱中し、充実した時間を過ごしていました。試験には落ちてばかりでしたが、私にとってはかけがえのない時間でした。「腫瘍内科」の話を聞いたのは、そんな頃で、自分が目指すべきものをようやく見つけたと感じました。

 

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研修医のとき、初めて受け持った進行がんの患者さんからネクタイをプレゼントされて以来、ネクタイをしめない日はない

 

腫瘍内科医を目指して道なき道をすすむ

腫瘍内科医になると決めたものの、その名称すらあまり知られていない時代。どうすれば腫瘍内科医になれるのか見当もつきません。臓器別に分かれた内科では、腫瘍内科的なものは見出すことができず、悩んだ末に入局したのは、放射線科でした。放射線科では、いろんな種類のがんの患者さんを診ていて、総合腫瘍病棟という病棟も持っていました。放射線治療を行うだけではなく、緩和ケアや化学療法も幅広く手掛けていて、まさに腫瘍内科的なものがそこにありました。

腫瘍内科医になりたいので放射線科に入局したいという私を快く受け入れてくれたのは、当時放射線科助教授の青木幸昌先生と講師の中川恵一先生でした。このお二人は、常識を超えた発想をされる先生方で、型にはまらない私のような存在を面白がってくれました。さらに、お二人がその頃編集していた一般向けの単行本『緩和医療のすすめ』(最新医学社1998年)の冒頭部分で「死」について執筆するという重い仕事を、学生であった私に任せてくれました。 実際には患者さんの死に接したこともない学生でしたが、いろいろな本を読みあさりながら、一生懸命「死」について考え、背伸びして、「がんと死」という文章を書きあげました。

卒業後、1年間は内科研修医としての各診療科をローテーションし、2年目に放射線科研修医となりました。このとき一番診たのは乳癌で、緩和ケアやがん薬物療法の実際に触れるとともに、EBMの考え方も身につけていきました。

卒後3年目には、東京共済病院に赴任。所属したのは呼吸器科でしたが、実際に多く診ていたのは乳癌で、乳腺外科・形成外科・放射線科の先生方とチームを組んで、私は薬物療法を担当していました。呼吸器科所属ですので、肺癌についても多く学ぶことができました。腫瘍内科医としての貴重な経験を積むことができたわけですが、このようなことを認めてくれた上司の先生方には本当に感謝しています。

 

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家族と仲間に支えられる日々。「日本一の腫瘍内科をつくる」という旗印の下に集まった仲間たちはどんどん増えている

 

若手の皆さんには、さらに新しい道を切り拓いてほしい

腫瘍内科医を目指して、道なき道を進んできたわけですが、私にあったのは、「腫瘍内科医として患者さんの幸せを追求する」という強い想いだけで、あとは、流されるように今の道を進んできたというのが正直なところです。途中、人生の分かれ道はいくつかありましたが、あまり迷うことなく、自分のビジョンに照らして決断しました。小さいことには優柔不断な私ですが、大きいことはズバッと決めてしまうようです。

理解ある上司や仲間たちに恵まれて今の自分があるわけですが、明確なビジョンがあったから、こんな私に手を差し伸べてくれたのかもしれません。いずれにしても、人とのつながりというのは、何物にも代えがたい宝物だと思っています。

留学するという選択肢もありましたが、私は、留学をせずにここまで来ました。留学していれば得られたものは多々あったとは思いますが、自分のビジョンを実現するためには、日本で臨床を続けながら、臨床研究に取り組んでいくことの方が重要だと考えました。

留学はしていませんが、世界を舞台に活躍することは常に意識しています。国立がんセンター中央病院内科レジデント時代には、EGFR-TKIの肺癌における効果予測因子の研究に携わることができ、この話題で、世界的な論争に巻き込まれるなど、貴重な経験をすることができました。この頃、米国臨床腫瘍学会のMerit Award、世界肺癌会議のYoung Investigator Awardも受賞しました。

現在、私のミッションは3つあると考えています。1つ目は、真の腫瘍内科を日本中に広め、根付かせること。2つ目は、世界をリードするような臨床研究を展開し、エビデンスを発信していくこと。そして3つ目は、HBM(=Human Based Medicine「人間の人間による人間のための医療」)を追求することです。 1つ目、2つ目のミッションもすべて行きつく先は、患者さんの幸せであり、HBMです。そうでなければ、そのミッション自体には意味はありません。

HBMというのは、私が研修医のときに作った造語です。HBMを考える上で大きな影響を受けたのは、東大医学部教授だった養老孟司先生です。一つの物事を多様な視点で眺めることの重要性を学びました。また、映画『パッチ・アダムス』のモデルとなったパッチ・アダムス氏本人との出会いも大きかった。インタビューをさせてもらったときに、「患者を幸せにするためにはどうすればいいのか」と尋ねると、「まず、君が幸せになることだよ」と即答され、少し気持ちが楽になりました。

虎の門病院臨床腫瘍科設立時(2010年4月)から、私たちは以下のような5ヶ条を掲げ、今もそれを貫いています。

①[理念]この時代になしうる最良のがん医療を提供する
②[診療]各診療科と密接に連携して高度なチーム医療を行う
③[教育]真のオンコロジストを育成する
④[研究]質の高い臨床研究でがん医療の発展に貢献する
⑤[目標]日本の真ん中に日本一の腫瘍内科をつくる

腫瘍内科は新しい診療科ですが、それを必要とする患者さんたちは全国にあふれていて、その需要に応えるべく、患者さんの役に立つ「真の腫瘍内科医」を増やしていかなければなりません。

私が腫瘍内科医を志した頃には、目の前に道はなく、私自身は道なき道をなんとか進んできたわけですが、今は、腫瘍内科の地平はそれなりに見通せるようになってきました。その地平に、さらに新しい道を切り拓いてほしいというのが、新しい世代の皆さんへの願いです。

腫瘍内科という新しいジャンルをつくっていく作業は大変ですが、得るものは大きい。未来までレールが敷かれた安定した診療科もあるでしょうが、自ら道を切り拓く方が楽しいはずです。腫瘍内科という地平には、無限の可能性が広がっています。野心に燃える若者! 大歓迎です!!

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高野 利実(たかの・としみ)
1998年 東京大学医学部卒業、同年 東京大学医学部附属病院内科研修医、1999年 東京大学医学部付属病院放射線科研修医、2000年 東京共済病院呼吸器科、2002年 国立がんセンター中央病院内科レジデント、2005年 東京共済病院腫瘍内科、2008年 帝京大学医学部腫瘍内科講師、2010年 虎の門病院臨床腫瘍科部長。西日本がん研究機構(WJOG)乳腺委員長も務める。著書に、「がんとともに、自分らしく生きる―希望をもって、がんと向き合う『HBM』のすすめ―」(2016年、きずな出版)がある。
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