Dr.石原藤樹の「映画に医見!」

【第13回】 あん~過酷な運命に翻弄された1人の女性と、医療者の「罪」

石原 藤樹 氏(北品川藤クリニック 院長)

医療という題材は、今や映画を語るうえで欠かせないひとつのカテゴリー(ジャンル)として浸透しています。医療従事者でも納得できる設定や描写をもつ素晴らしい作品がある一方、「こんなのあり得ない」と感じてしまうような詰めの甘い作品があるのもまた事実。

シリーズ「Dr.石原藤樹の『映画に医見!』」は、医師が医師のために作品の魅力を紹介し、作品にツッコミを入れる連載企画。執筆いただくのは、自身のブログで100本を超える映画レビューを書いてきた、北品川藤クリニック院長の石原藤樹氏です。

第12回の『潜水服は蝶の夢を見る』に続き、今回は『あん』をご紹介いただきます。

現役医師だからこそ書ける、愛あるツッコミの数々をお楽しみください(皆さまからのツッコミも、「コメント欄」でお待ちしております!)。

 

映画『あん』の概要

今日ご紹介するのは、2015年に公開された日本映画『あん』です。世界的に高い評価を得ている河瀬直美監督が、詩人のドリアン助川さんの原作を、原作者本人の依頼を受けて映画化したものです。河瀬監督はそれまで、やや敷居の高い芸術性のある映画を作っていました。それがこの『あん』では、平明な原作を再現することに重きを置いたためか、良い意味で通俗的な作品となり、多くの一般の観客の支持を集めました。さらに河瀬作品に初主演の樹木希林さんが、そのキャリアの中でも最高の演技の1つを披露して、観客に大きな感銘を与えたのです。

どら焼き屋の雇われ店長をしている、前科者の千太郎(永瀬正敏)は、手の不自由な徳江(樹木希林)という老女に、店を手伝いたいと話しかけられます。最初は断った千太郎ですが、彼女が持参したどら焼きのあんが、あまりに美味しいのに驚き、試しに自分の店のあん作りを任せます。すると、そのどら焼きが大評判となり、それまで閑古鳥が鳴いていた店は、一気に長蛇の列の評判店になります。

しかし、実は徳江はハンセン病の患者で、療養所から店に通っていたのです。その変形した手を見た人から心ない噂が広まり、徳江は自分からひっそりと姿を消してしまいます。
物語は千太郎と徳江、そして、2人を慕っていたワカナという少女を軸にして展開します。3人の人生はどのように結びつき、徳江の人生にはどのようなフィナーレが訪れるのでしょうか? 河瀬監督らしい、自然の風景と人間の生とが結び付いた感動の結末が待っています。

 

見どころは、樹木希林さん演じる主人公の底知れない魅力

この映画の魅力は、何と言っても樹木希林さん演じる主人公の徳江の造形にあります。ドリアン助川さんが創造し、河瀬監督が肉付けをしたキャラクターに、名優の希林さんが見事に命を吹き込んでいます。希林さんはいつも自然体のお芝居のようで、確かにそうした作品もあるのですが、この映画においては、とても計算された繊細な演技をしています。あん作りの時のこだわり方など、まさに徳江という女性のようにしか見えません。

もう1人の主役である千太郎役の永瀬さんは、生きる目標を失い、無為に日々の生活を過ごしているという、河瀬作品では定番のキャラクターを、こちらは安定感のあるいぶし銀の芝居で演じています。そこに中学生のワカナ役の内田伽羅さんが加わり、世代を超えた孤独な魂の交流という、河瀬監督の一貫したテーマが、今回は崇高なまでの姿で画面に焼き付けられているのです。全ての観客にとって、それはいつまでも終わってほしくない、とてもとても幸福な時間です。

 

ハンセン病と医療の責任

この映画はハンセン病が大きなテーマとなっていて、後半では実際の療養所や入所されている患者さんも登場します。

ハンセン病は抗酸菌の一種である「らい菌」による感染症で、その特有の皮膚症状のために、昔から伝染病として恐れられてきました。しかし、1950年代から治療薬が次々と開発され、またらい菌の性質が明らかになることにより、ハンセン病の感染力は低く、適切な治療を行っていれば、隔離の必要がないことも徐々に明らかになってきました。

ところが、日本では時代に逆行するような、患者の隔離政策を正当化する「らい予防法」が、1953年に成立しています。その当時はハンセン病の療養所が動かしがたい現実として捉えられていて、古い考え方を持つ一部の専門家の提言により、患者などの反対を押し切って成立してしまったのです。しかし、同時期にハンセン病の国際会議が日本でも開かれていながら、こうした法律が制定されてしまったことは、医療界全体にも責任があるように思います。隔離政策が誤りであると分かっていながら、患者は長い間、社会的偏見を受けることになったのです。この法律が廃止されたのは、実に1996年のことでした。

私はハンセン病の患者を診たことはありませんし、大学でもほとんど習った記憶がありません。今ではほとんどの医者がそうではないかと思います。しかし、本来はこうした医療の負の歴史は、もっと多くの医療者が積極的に知るべきものではないでしょうか。

 

全ての医療者が知るべき「罪」とは

人間には誰の心にも差別意識はありますが、それが可視化される大きなきっかけの1つが病気による偏見です。子供のいじめにも、その多くで病気が登場します。その中でも伝染病は、それが人から人に感染する、という性質から、嫌いな子を仲間はずれにする口実として使われやすいという現実があります。残念ながら「病気がうつるからあっちへ行け」というのは、昔も今もいじめの決まり文句の1つなのです。

ハンセン病が治る病気であると分かってからも、患者さんに対する差別がなくならなかったのは、こうした伝染病というものに対するステレオタイプなイメージが、根強く残っていたためではないかと思います。それを修正してゆく役目は、医療者にあるはずですが、残念ながら多くの医療者は、こうした医療の古い考え方が原因となった偏見の打破については、あまり熱心ではないのが実際ではないかと思います。それはもちろん、私自身も例外ではありません。
この映画には、医者は1人も出てきませんし、医療批判のようなものも一切語られてはいません。ハンセン病が不治の病であり、感染力の強い伝染病で、患者は生涯隔離されなければならない、という、現在から見れば誤った考え方の元に、苦難の道を歩まざるを得なかった1人の女性の姿が、静かに描かれるだけです。その沈黙が何より雄弁に、医療の過ちの恐ろしさと罪深さを語っているのです。私がこの映画を、全ての医療者に必見と思うのはそのためです。

※映画『あん』の公式サイトはこちら

 

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『あん』
発売・販売元:ポニーキャニオン
価格:DVD¥3,200(本体)+税、Blu-ray¥5,800(本体)+税
(c)2015映画「あん」製作委員会/COMME DES CINEMAS/TWENTY TWENTY VISION/MAM/ZDF-ARTE
石原 藤樹(いしはら・ふじき)
1963年東京都渋谷区生まれ。信州大学医学部医学科大学院卒業。医学博士。信州大学医学部老年内科助手を経て、心療内科、小児科を研修後、1998年より六号通り診療所所長。2015年より北品川藤クリニック院長。診療の傍ら、医療系ブログ「北品川藤クリニック院長のブログ」をほぼ毎日更新。医療相談にも幅広く対応している。大学時代は映画と演劇漬け。
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