『医師の感情―「平静の心」がゆれるとき』書籍紹介

心に悩みを抱える医師へ~『医師の感情』翻訳に込めた想い

堀内 志奈 氏(消化器内科医・医学博士)

恐れ、恥、怒り、困惑、喜び、誇り、感謝、愛——。
患者とのやり取りで医師が抱くこれらの感情は、医療行為にどう影響するのか。
時として患者への共感を妨げるこれらの感情を、医師はコントロールできるのか。

皆さんは、『医師の感情―「平静の心」がゆれるとき』というルポタージュをご存知でしょうか。同書で紹介されるのは、医師の「心の悩み」に関するさまざまな問題。アメリカの現役内科医が著したそのリアルな内容は、日本の医師である皆さんがもつ「感情のゆらぎ」と共鳴することでしょう。

今回は、『医師の感情』の訳者である堀内志奈氏に、翻訳に込めた想いを綴っていただきました。

私もまた、原著を読んで救われた医師の一人

 思うに、転職には何らかの向上、昇進を求めてのいわばポジティブなものと、現在の状況から脱することを最大の目的とするネガティブなものがあろう。必ずしもどちらかが良い転職でどちらかが悪い転職とは限らず、現実的には両方の要素を含んでいることの方が多いかもしれないが、より切羽詰まっているのは後者であるに違いない。
 本書『医師の感情』は、転職を考えている医師、特に「脱出」のための転職を考えている医師にぜひ一読してもらいたい本である。
 私自身この本の原著『What Doctors Feel』と出会ったのは転職をして間もない頃だったが、医師としての自らを顧みながらひきこまれるように読んだのを覚えている。そのあまりにもリアルなエピソードの数々に、共感を通り越して時々胸が痛くなったが、こういう悩みや葛藤を抱えていたのは自分一人ではないと知って、まさに救われるような思いがしたものである。

 

語られるのは、失敗と敗北と挫折の経験

 本書の著者はニューヨークにあるアメリカ最古の公立病院ベルヴュー・ホスピタルに勤務する現役の総合内科医である。彼女は自分の体験談、そして周囲に取材した話をベースに、現場の医師の感情のゆれとそれが本人の医療行為へ及ぼす影響について様々な角度から書いている。
 特筆すべきは、基本的に語られているのが失敗と敗北の経験であることだ。私たちが指導医あるいは先輩から聞く話の多くは、何らかの形の成功譚である。時に打ち上げ話的な失敗談も耳にすることもないではないが、それとて成功に至るまでのいわばエピソードとして語られるのが常で、本人の医師としての存在を真に脅かすような失敗や挫折の話を聞く機会はそう多くない。ましてそのときの心の動きについて本書の登場人物のように赤裸々に語ったものは稀だろう。
 そういう意味で著者、そして彼女のインタビューに答えた医師の率直さと勇気に、私自身一臨床医として感服し、また感謝もしている。

 

打ち明けられない悩みを、一人で抱え込んでしまった医師へ

 本書の翻訳をしてから、この本をどんな人に読んでもらいたいか、という問いを何度か受けた。そんなとき半ば冗談で、「医師という仕事がいかに精神的にしんどいかを知ってひるんでしまったら困るので、医学生にはお勧めできないかもしれませんね」などと答えたこともあったが、実のところ本書が最も役に立つであろうと個人的に思っているのは、初めて医師として臨床の場に立って戸惑いの中にある研修医、事の大小はともかくなんらかのミスを犯してしまい苦しんでいる医師、そして肉体的、精神的に追い詰められてバーンアウト寸前と感じている医師である(実際、大多数の医師がこのいずれかに当てはまるかもしれない)。
 「夜中の歯痛がことさらつらいのは、世界中で今この痛みに苦しんでいるのは自分だけであるかのような孤独を感じながら耐えなければならないからだ」とよく言われるが、自分が何かに悩み、苦しんでいるとき、それが決して自分一人に限ったことではないと知ったら、そしてそうして悩むのは自分の能力や才能、努力が足りないせいではないかもしれない、と思うことができたら、それだけで気持ちが楽になる人は少なくないだろう。特に悩みを誰にも打ち明けられず、一人密かにつらい思いを抱えている人がいたら、ぜひ本書を一読してもらいたいと心から思う。

 

感じてほしい、助けを求めることの大切さを

 本書の中のエピソードの一つに、頑張りすぎてそのストレスからアルコールに走り、その結果職を去ることになった優秀な医師の話がある。そこまで追い詰められる前に、もし彼女に転職するという選択肢があったらどうだっただろうか。あるいは働き方を変える方法があったとしたら? その場を逃げ出すための転職であっても、長い目で見ればそれは必ずしも負けを意味しない。
 自らの過去について考えてみても、やむにやまれず決断した転職が、振り返ってみると結果的に様々な意味でポジティブな転機だったということも経験している。我慢にはするべき我慢とするべきでない我慢がある、というのが私の持論だが、自らの精神が蝕まれるような働き方は不幸なだけでなく危険である。なぜなら、本書でも強調されているように、医師の感情、精神的な健康は患者が受ける医療の質に直結するからだ。
 時に医師の働きは旅客機のパイロットに喩えられるが、彼ら同様、私たちの判断や行為によって他人の命や健康が左右されるということを私たちは覚えておくべきである。自らの精神的、肉体的健康を保つということはとりもなおさず患者への責任を果たす、ということである。
 その担保のために必要であれば、自ら何らかのアクションを起こす勇気、あるいは他に助けを求める勇気を持つことも重要だ、というメッセージを本書から受け取ってもらえれば、訳者としてこんなにうれしいことはない。

 

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堀内 志奈(ほりうち・しな)
トウキョウ メディカル エンド サージカル クリニック/消化器内科医・医学博士。
東京生まれ、札幌育ち。札幌医科大学卒業後、同大病院などにて勤務。Burnham Institute for Medical Research(現Sanford Burnham Prebys Medical Discovery Institute、米国サンディエゴ)に留学後、都内の病院、クリニック勤務を経て現職。
これまでに、『決められない患者たち』(Jerome Groopman & Pamela Hartzband,『Your Medical Mind——How to decide what is right for you』)、『医師の感情―「平静の心」がゆれるとき』(Danielle Ofri,『What Doctors Feel――How emotions affect the practice of medicine』)の翻訳を手がける。
『医師の感情―「平静の心」がゆれるとき』
原題:What Doctors Feel――How emotions affect the practice of medicine
著者:Danielle Ofri
訳者:堀内志奈
発行者:医学書院
発行日:2016年6月1日 第1版第1刷

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