患者さんから教わった、私の“目指すべき医師”

「専門医」に頼らず自分の腕で食べていく 〜女性に寄り添い、病気を総合的に診られる医師を目指して〜

山本 佳奈 氏(大町病院 内科医)

「医師になることがゴールだった」という山本佳奈医師は夢が叶った後、同性として女性の人生に寄り添える産婦人科医の道を選びます。大学を出て当たり前のように研修医となり、専門医を取得する道を歩むものと思っていた人生は、しかし、研修先の福島県南相馬市で大きな転機を迎えます。目の前の患者さんが必要とする医療の提供と、専門医取得という自身のキャリアの間で、決断を迫られたのです。
患者を「縦」ではなく「横」で診られる、肩書きではなく「あなたに診てもらいたい」と言ってもらえる医師を目指して奮闘する山本医師に、患者さんから教わったという自身の目指す「医師像」について話を伺いました。

 

想定外だった、未知の世界「東北」での臨床研修

――医師の家系ではないと伺っていますが、医師を目指したきっかけをお聞かせください。

通っていた高校の理系クラスから毎年医学部へ30~40人進学していて、医師になった先輩も多くいたので、頑張れば私もドクターになれるかなと思ったのが志望のきっかけでした。白衣で颯爽と歩く姿に憧れた、というのもあります。医学部では「女性にしかできない“出産”という経験を同じ女性として支えたい」と、産科で6カ月間の研修を務めました。産科は病気だけを診るのではなく、幸せな体験もできる科です。もちろんつらい部分もありますが、赤ちゃんが生まれて育って、お母さんも一緒に成長していく姿を見ることができる。何でも相談してもらえる産婦人科医になるつもりでした。

――初期研修は生活圏外の南相馬市へ移られました。未知の土地での社会人一年生は、不安も大きかったのではないですか。

当初は東京で研修先を探していましたがなかなか決まらず、同期の研修先がどんどん決まって行く中で楽観的な私もさすがに不安になっていきました。そんなとき、南相馬市立病院で研修医を募集していることを知ったのです。関西生まれの関西育ちの私にとって、東北は外国のようなもの。そもそもどこに何があるのかもわからず、地図で福島県を含めた東北6県の位置を確認しました (笑) 。

研修医として福島に移ったのはちょうど震災から5年を迎える時期で、放射線については論文で「問題ない」といわれていましたが、周りには福島にいくことを過剰に心配する人もいました。
研修はわからないこと尽くしで始まりましたが、特に苦労したのは言葉でした。風邪の症状を話す患者さんの言葉が聞き取れなくて、看護士さんに通訳してもらったり、関西出身で早口の私を、どこか外国から来たお医者さんと思った人もいたらしくて。同じ日本なのに言葉が違って、文化も生活習慣も違う。最初の1~2カ月は混乱していたのか、口内炎が20個もできてしまい、食事するのにも苦労しました。

 

文中1

 

目の当たりにした、被災地の人々が置かれた現実

――研修では、どのような経験をされましたか。

赴任してすぐ内科の研修に回った後は、比較的自由にローテーションを組ませてもらうことができました。神経内科で救急に必要な挿管や脊髄の採血などを覚えたり、在宅診療科でも研修を受けさせてもらいました。

南相馬市立病院は、震災当時、ほとんどの病院や薬局が閉鎖される中、外来を中断せずに一時救急と薬の処方を行っていた医療機関でした。福島第一原発から23キロに位置していたため、「屋内退避」の30キロ圏内地域に指定され、一時は入院患者の受け入れができない時期があったり、医師や看護士の離職によって存続が難しい時期もありました。

赴任した当時、震災から4年経っていましたが、患者さんの中には仮設住宅暮らしだったり、家族を亡くされたりと、地震や津波、原発事故で人生が大きく変わってしまった方が数多くいらっしゃいました。
また、住民だけでなく、赴任当時は福島第一原発の除染作業員もよく病院を訪れていました。仮設住宅の暮らしも厳しいですが、除染員の住むプレハブ宿舎も環境が悪く、風邪や喘息に罹って診察を受けたり、除染作業中に蜂に刺されたり植物にかぶれて救急搬送されてくることも多々ありました。中には他人の保険証で受診したり、医療費を支払わなかったりする人もいた、なんて聞いています。

それに、福島第一原発から20キロ圏内に住んでいた住人の中には医療費が無料になり、病院に行く必要がない症状でも毎日のように通院する人がいたり、その一方で、同じ被災者でも、放射線レベルの高い30キロ圏内にいたのに何の保障もなくて、「線」で区切られることへのやりきれない思いをこぼす患者さんもいらっしゃいました。
こうしたことは患者さんだけでなく、病院も同じでした。ニュースなどで取り上げられていますが、国の復興支援をあてに「赤字が膨らんでも潰れないから」と経営に無頓着な面が垣間見えるなど、被災地医療の現実も目の当たりにしました。

この2年で、病院も新たに脳卒中センターを設置するなど、地域医療の拠点としての役割を果たしていますが、子育て世代が県外に移住した結果加速度的に高齢化が進むなど、震災の影響を今も抱えています。

東京の病院で普通の生活をしていたら出会わないような人と身近に接することができたこと、見えなかったであろう現実が日常として存在する毎日は、私にとって貴重な経験です。

 

「女の先生が来てくれてよかった」

――研修では、在宅医療も経験されたとか。

在宅医療は長めに3カ月間やらせてもらいましたが、往診は、「医師になること」が叶った後について深く考えてなかった私にとって、自分の人生を変える経験でした。

往診先として訪れた仮設住宅には、震災で子どもを亡くされたり、家族と離れて一人で暮らしている高齢者もいらっしゃって、いろんな話を聞かせてもらいました。
中でも印象的だったのが、仮設住宅で高齢女性がかけてくださった「女の先生が来てくれてよかった」という言葉です。寝たきりでおむつかぶれがどんどんひどくなっていて、それでも「男の先生には言えないし、見られたくない」と。
地方の医療の現状を知る、とても切実で、切ないひと言でした。医師数の多い都会にいたときは「女医」という言葉自体がすでに聞かれなくなっていましたし、南相馬市に来てからそう呼ばれることに違和感があったのですが、ここでは女性の医師を見たことすらない患者さんも少なくないのだと知りました。

私の代わりになる医師はもちろんいるけれど、研修医の私を一人の医師として認め、患者さんが私に診てほしいと頼ってきてくれる。自分はここで必要とされているんだと感じました。それでますます、女性として、同じ女性に寄り添える産婦人科医になりたいと思ったんです。

 

自分を求めてくれる、この地域で働きたい! 専門医取得と目指す医師像の狭間で

――南相馬市での地域医療にやりがいを感じ、研修が終わっても南相馬市に残って産婦人科の専門医の資格を取ろうと考えていらしたのですね。

結婚や妊娠、出産、親の介護など、キャリアにブランクが空きがちな女性医師にとって「専門医」は名刺代わりであり、再就職に有利な肩書きとして、どうしても取得しておきたい資格です。医師になって10年目の私が3年間休んで再就職の面接を受け、「何を持っていますか」と聞かれたとき、「経験はありますが、専門医は持っていません」と答えても病院側は評価のしようがありません。ですから専門医取得は当然と考えていました。

それで、秋頃から病院側へ「ここに残って産婦人科で専門医を取得したい」と相談しました。ところが、体制の問題で「産婦人科では受け入れできない」と言われ、南相馬市に残れない可能性も出てきてしまったんです。最終的に神経内科の先生が助けてくださり、面倒を見ていただけることになりました。ただ、神経内科の専門医の研修施設ではなかったため、専門医取得のコースからは外れることになりました。

専門医云々は私にとって人生の岐路になりましたが、おかげで「専門医って何だろう」と改めて考えるきっかけになりました。「専門医の資格を取らない」という選択をしましたが、今後のキャリアにとって、「専門医」が有利な資格であることは確かですから、本当にこの選択でよかったのか、やっぱり取った方がいいのか、どうにか取れる方法があるんじゃないかと、正直いまも自問自答が続いています。

 

文中2

 

――福島県内の大学病院の医局に入って専門医を取るという道もあったと思うのですが。

大学医局に入局した経験がないので知り合いの先生から聞いた話や私の勝手なイメージですが、大学の医局に所属してしまうと南相馬にいつ戻って来られるかわからないと思ったんです。
医師不足という意味では南相馬よりも会津のほうが医師の数は少ないし、同じ浜通りでも、この地域より双葉郡の方が医師は足りません。制度的には南相馬での勤務も可能だけれど、決定権は教授にあるので行きたい地域に行けるとは限らない。それが当然なのかもしれませんが、自分の人生を他人に任せたくなくて、医局のような環境で働くのはしんどいかなと思いました。

それに、専門医についても、スペシャリストがたくさんいる都会はともかく、医師不足の地域では患者さんを科目ごとに「縦」に区切って診るより、それを「横」方向にして、つなげて診られる医師のほうが必要なのではないかと感じ始めていました。産婦人科の専門医だから産婦人科の病気しか見ないのではなく、産婦人科医としてやらなければならない仕事・勉強に使うエネルギー、縦に深く突き詰めていくためのエネルギーを横に広げて使い、産婦人科も消化器も診られるようになるイメージでしょうか。

世の中に病気はたくさんありますが、英語をカタカナにした難しい病気で医師にかかる患者さんは少なくて、実際は「お腹が痛い」とか「風邪かも」と来院される人のほうが多い。そもそもどの科に行けばいいかわからない人もいます。日々感じるのは、みんなが受診するよく聞く病気って、診断が簡単そうだけど、実はとても難しいということです。だからそれをちゃんと診られるようになって、そのうえで専門の病院に送るかどうかを見極められる医師になりたい。

南相馬に来たとき産婦人科医になりたいと思っていた私は、女性を総合的に診られる医師になりたいと考えるようになっていました。

例えば、ホルモンバランスの崩れや更年期は産婦人科で診られるけれど、それだけじゃなくて、私が研究テーマにしている貧血のほか、甲状腺や頭痛持ちの人、足腰が痛くて歩けない人、がんや認知症、メンタルや美容に関することなど、幅広い人・疾患・症状を対象にしながら、さらに女性の医師に診てほしいという女性の患者さんの願いを叶えられる医師になりたい。産婦人科だけではカバーできない症状のほうが多いことを考えると、科にとらわれたり、産婦人科医に限らなくてもいいのかなと。一方で、スペシャリストになりたい思いもあり、両立ができたらいいなと思っています。

 

文中3

 

――ご自身がなりたい医師像が見えてきたということですね。

将来はわかりませんが、「今は専門医を取らない」という選択をしたのは私ですから、その道を外れてしまった以上、自分の腕で食べていくという覚悟を持たなくてはいけません。まずは内科で、誰でもかかる病気をきちんと診断できる医師になること。もう一つは、研究テーマであり、社会との接点である「貧血」についてたくさんの論文を発表し、貧血の専門家といわれるくらいの医師になって社会の役に立つことを目指しています。

 

医師だからできる、問題提起としての「貧血研究」

――「貧血」の研究をされている、という話が出ました。なぜ研究テーマに「貧血」を選ばれたのか、先生にとって「研究」の持つ意味を聞かせていただけますか。

異業種の方とお話する機会を持たせてもらうことが多く、医師と起業は立場や視点が異なるだけで変わらないと思うようになりました。起業は社会に対して疑問に感じたことを解決していく、医師は疑問に思ったことのデータを集めて問題提起する。どちらも社会の役に立ちます。

「貧血」を研究テーマにしたのは、自分が過去に過度なダイエットをした結果、献血できない体になってしまったことがきっかけでしたが、調べていくうちに、日本は貧血大国であること、そして、若い世代に限らず妊婦や高齢者にも深刻な影響があるとわかりました。また、日本だけでなくアジア諸国の現状や対策にまで研究範囲を広げたところ、先進国と途上国では、同じ貧血でもその社会的背景やとるべき対応策が異なることも見えてきました。
診療業務と並行して、研究データを収集し常にバージョンアップをしていくのは大変ですが、自分が診ている患者さんや同僚、広く女性の健康やよりよい生活に役に立つ重要なテーマであり、それが研究を続けるモチベーションになっています。先日も、中国に研究目的で短期留学をしてきました。SNSでもよく発信するんですけど、Faceboookを見てくれた方から「話を聞きたい」とか「自分も貧血の研究がやりたい」というメッセージや取材の申し込みなども増えていて、発信することの大切さを身に沁みて感じています。

専門医という分かりやすい評価軸を持たない私にとって、貧血の研究論文は、今のところ医師である私と社会をつなぐ唯一の接点です。もちろん、社会に存在を知ってもらっても通り一遍のことしか言えなければ意味がないので、「これが専門だ」と自信を持って言えるように、貧血のことを勉強していきたいと思っています。

 

文中4

 

――ご著書『貧血大国・日本』もありますが、研修期間中の研究や論文発表などはよくあることなのでしょうか。

どうなんでしょう。ただ、私の場合、放射線や仮設住宅をテーマに研究されている先輩医師が身近にいるという特殊な環境に恵まれたんだと思います。逆にそんな環境にいなければ、研究することすら知らず、方法もわからなかったでしょう。今は朝8時頃に出勤して、多い日には60人くらいの患者さんを診るなど18時まで臨床の仕事をした後が研究の時間になります。先輩たちと一緒に深夜まで残って研究して、「眠くなったから先に帰ります」みたいな生活で、自宅には寝に帰るだけ。ガス栓はもうずっと閉じたままだし、冷蔵庫に3年前の醤油が転がっています。本当は料理好きで、教室に通ったこともあったのに、行く必要なかったかな(笑)。

その代わり、週末はしっかり遊ぶように心がけています。車で遠出したり、山歩きをしたり。東北の自然、特に蔵王や磐梯山などの山には癒されています。

 

人を「縦」ではなく「横」に診られる医師を目指して

――9月より大町病院に内科医として勤務されています。

南相馬市立総合病院の神経内科で半年間お世話になっていましたが、常勤医がいないという地方ならではの理由で大町病院に出向しています。最初は「3年目の私でいいのだろうか」と不安に思うこともありました。でも、患者さんにとっては見た目が若くても医師は医師ですから、私のプレッシャーや自信のなさは関係ないし、そんなことは言ってはいられません。

医師が不足していることもあって、これまでも研修医としては恵まれすぎなくらい外来に入らせてもらってきましたが、これからもわからないことは先輩にアドバイスをもらいながら頑張っていけば自信につながるし、内科はみんながまず受診する科ですから、早く「縦」ではなく「横」で診られるようになりたいと思います。いつか、私を一人の医師として、「あなたに診てほしい」と言ってもらえるように頑張りたいと思います。

 

文中5

 

――南相馬市を研修地に選んだことで見えたもの、専門医制度に悩んでいる方へのアドバイスはありますか。

今思えば、「医師免許を取る」ことが私にとっての最終目的になっていたように思います。幸運なことに医学部に入れて医師免許も取れて、そこから、どんな医師になるのか深く考えず、当然のように臨床研修先を探して南相馬に辿りつき、南相馬市に来たときもまだ自分のなりたい医師像はぼんやりしていました。
でも、専門医取得について悩みながら患者さんと日々接し、臨床と研究に没頭する先輩医師の背中を見続けることで、医師は一生をかけてなるものだという、ある意味当然のことを教えていただきました。

専門医は4~6年で取得できますが、そのプロセスこそが大切だと思います。どんな職業もそうですが、免許や資格を取ることが終着点ではないし、取得が目的になってはいけないと思うのです。それがわかっただけでも南相馬市に来てよかったと思います。もし来ていなかったら、せっかく一生懸命勉強して医師になったのに、自分のなりたい医師像をつかめないまま、もっと小さくて、狭くて、いろんなことをすぐに諦めてしまう人間になっていたでしょうね。

Facebookなどで発言していると、意外に多くの方が私の考えに賛同してくださるのですが、とは言えロールモデルはいないし、半年先の私に何が起こるかわからない。それでも、専門医の肩書きに頼らず自分の腕で食べていこう、患者さんが納得して自分のところに来てくれるような医師になるんだという覚悟ができたのはよかったと思っています。専門医取得に関して迷っている人の参考になるかどうかわかりませんが、こんな医師もいるのか、こんな医師像もあるのかと感じてもらって、笑ってもらえたらうれしいなと。関西人だからでしょうか。「笑ってもらってなんぼ」みたいなところがあって、そんな医師がいてもいいかなと思っています。

(聞き手=よしもとよしこ[吉本意匠] / 撮影=加藤梓)

 

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山本 佳奈(やまもと・かな)
1989年、滋賀県に生まれる。滋賀医科大学卒業後、医師免許取得。2015年4月より福島県の南相馬市立総合病院にて初期研修を開始。2017年3月、初期研修を終了し、4月より神経内科医として勤務。9月から同病院からの出向として大町病院に内科医として勤務している。ライフワークとしての研究テーマは「貧血」。中国の研究者との共同研究を自費で進めて交流を深めたり、新聞や雑誌で問題提起を続けたりするなど意欲的に活動している。著書に『貧血大国・日本』(2016、光文社新書)がある。
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