中途半端な救急医【中編】

泌尿器科から救急へのキャリアチェンジ

野田 透 氏(金沢大学附属病院 集中治療医/山岳医)

金沢大学附属病院で集中治療医として勤務なさる野田医師。かつては泌尿器科医としてキャリアをスタートしましたが、進路に悩んだ結果、救急の道に挑戦した経験をお持ちです。
ER型救急医とICU型救急医、両方を経験して常に課題と向き合い、苦労や迷いの末に見つけた「目指す救急医」とは。野田医師のキャリアに影響を与えた数々の経験や今後の展望について、前中後編にわたってお届けします。

中編では、泌尿器科でのご経験と、救急の道を選ばれたきっかけについてご紹介します。

 

泌尿器科医としてのスタート

 私が医師になったのは初期臨床研修が必修となるずっと前で、私が卒業した大学では卒業と同時にどこかの科の医局に入るというのが一般的でした。私は泌尿器科医となり、そのまましばらく、大学と関連病院を行ったり来たりして過ごしました。

 卒業後8年くらい経った時期に、私はちょっとした壁にぶちあたりました。「俺はこのままで大丈夫なのだろうか」「このままでは、まともな泌尿器科医になれないような気がする」「才能がないんじゃないだろうか」「何か特殊なサブスペシャリティも必要だろうか」……など、たいていの人が1度は考えることです。
 まずは今後の進路について作戦を練るべく、自分が今していること、できることを振り返ってみました。泌尿器科医が2人いる地方の総合病院の二番手、というのが、そのころの私の定位置であったので、「外来診療」「病棟業務」「救急当直」「可能な範囲で研究」「手術」が私の日常の業務です。そして思いました。「この中では救急外来が一番楽しい。……と、いうことは、俺って救急の才能あるんじゃないだろうか?」。
 大いなる勘違いです。なぜ、あれっぽっちの経験と知識と技術でそう思えたのか、今となってはよくわかりません。おそらくバカだったのでしょう。
 しかし、このころから「いっそのこと泌尿器科を辞めて救急の医師になろうか?」と漠然と思い始めました。

 

恩師との出会い、そして救急へ

 医師となって9年目の秋に、福井大学の救急部に手紙を書きました。「見学させてください」とか、「お話を聞かせてください」ではなく、「泌尿器科を辞めますので救急医として雇ってください。ただし救急の経験はほぼありません」と。
 初めは怪しまれました。「こいつは絶対に前の病院で問題を起こして、そこにいられなくなった奴に違いない」と思われたようです。当然です。隣の県ですので、知り合いに聞いたりしていろいろ身辺調査もされたようですが、私は素行は良かったので、そのあたりは問題ありませんでした。

 そして初めて福井大学を訪ねたとき、当時の救急医学講座の教授と、福井大学附属病院の近くの洋食屋で、定食をおごってもらいながらいろいろ話をしました。この方が、私の生涯の恩師となります。
 数年後にはその先生を慕って多くの人が全国から集まってくることになりますが、その時の私はどんな先生かも知らず、ただ、「隣の県だったから」というだけの理由で福井大学に行き、その先生に出会えたのです。幸運であったとしか言いようがありません。

 当時は人手不足のため、教授自ら研修医と一緒に救急外来の夜間当直をしておられた時代でした。私はその診療を見て、感動しました。具体的に言葉でそれを表現することは私の文章力では無理ですが、あえて例えるなら、初めて別山乗越(※)にたどりつき、眼前に剣岳を見たときのような感じです。

※標高2,750m、剱岳へ向かう通過ポイントとなる峠

 ちなみに、よく聞く「退局に伴う医局とのトラブル」はありませんでした。そのころは、私がいた泌尿器科の医局に多くの新人が入ってきた時期であったので、私はすでに戦力外だったのかもしれません。
 そのまま2年間、福井大学の救急部にいて、その後、福井県立病院の救命救急センターでも勤務しました。

 

ERとICU、2つの世界で

 救急医と言っても、その働き方は施設によってさまざまですが、大きく2つに分けることができます。一つは、救急外来で、重症度・老若男女・疾患の種類を問わず、すべての人の初期診療を行うが、入院患者は診ない、という初期診療の専門家としての「ER型救急医」。
 もう一つは、多発外傷、熱傷、中毒といった重症患者に緊急処置を行い、そのまま集中治療室でも自分たちで診て、人によっては自分たちで手術までしてしまう。しかし、歩いて受診するような、あまり重症っぽくない人は、初めからそれぞれの専門の科の医師に任せる、という「救命救急型救急医」です。

 私のいた福井大学、福井県立病院ともに、救急は純粋にER型です。そのため、ある程度ER型救急医をしたあと、重症患者の治療に習熟すべく、主として3次救急をしている施設や集中治療室を併設している施設へ、しばらく修行に行くという「ならわし」がありました。
 私はつてを頼って金沢大学の救急集中治療部に行きました。当時の金沢大学は、自分たちで手術はしないものの、救急車で来た方を診察して重症患者は集中治療室でも引き続き診るというシステムを採っていました。重症患者の救命処置や集中治療に熟達するという目的に合致していたのと、そこで主力メンバーとして働いておられた先生のうち何人かは、学生時代からよく知っている私の少し先輩の方々であったし、何よりも母校なので行きやすかったためです。

 2年間金沢大学の救急集中治療部に勤務したあと、私はある先輩に誘われて、富山市にある600床あまりの災害拠点病院に救急医として赴任しました。いわゆる一人医長です。
 「一人で救急は大変だ。人格も崩壊する。」と恩師がよくおっしゃっておられましたが、なんとかやれるのではないかと思っていました。結局は、いろいろいろいろいろいろあって、2年で退職することになりました。幸い人格は崩壊しませんでした。助けてくれたメディカルスタッフや医師がいたからです。

 一時期、富山市消防からの年間救急搬送が、近くにある救命救急センターを抜いて1位になったというのは私の自慢の一つです。「富山市消防からの」と限定しないと負けるのですが。

 そして実感したのは、自分は「真のER型救急医」には程遠いということ。すべての人に対して初期診療を行うことができる「真のER型救急医」と名乗るには、私は、眼科、耳鼻科、小児科といったところの知識が大きく不足しており、また、内科の基本的知識も十分ではありません。それはわかっていたことなのですが、一人医長をしていた2年間で改めて実感させられました。

後編では、野田先生が目指す救急医の医師像や、今後の野望についてご紹介します。

 

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野田 透(のだ・とおる)
富山県生まれ。1993年、金沢大学医学部医学科卒業。2019年11月現在、金沢大学附属病院に集中治療医として勤務。もともとはER型救急医であり、それ以前は泌尿器科医でもあった。日本DMAT隊員でもあり、山岳医としての顔も持っている。
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