没後5年・中村哲医師 アフガニスタンで「砂漠を緑に変えた医師」を支えた言葉を振りかえる
市川 衛(医療ジャーナリスト/医療の翻訳家)
2003年から2010年にかけて全長25キロメートルにおよぶマルワリード(真珠)用水路を完成させ、周辺の砂漠の緑地化に成功。多くの人々を飢餓から救った「砂漠を緑に変えた医師」として多数の賞を受け、その功績は国内外を問わず語り継がれています。
没後5年、中村医師の人生を支えたとされる言葉を振り返り、今後のキャリアに悩む医師にとっての学びを探ります。
1.言葉①「他の人の行くことを嫌うところへ行け。他の人の嫌がることをなせ」
(内村鑑三『後世への最大遺物』より)
中村医師は、1984年、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の一員としてパキスタンのペシャワール・ミッション病院へ赴任し、ハンセン病棟の担当として治療活動を始めました。当時、医療器具と言えば「ねじれたピンセット数本、耳にはめると怪我をする聴診器が一本」という状況だったといいます。
アフガニスタンの内戦の影響で増加する難民。難民キャンプの中でハンセン病が広がり、高熱と全身の痛みに苦しむ患者らを診療する壮絶な日々が続きます。そんな環境の中でも中村医師は精力的に活動し、アフガニスタン各地に診療所を建設。さらに2000年の大干ばつをきっかけに、井戸の掘削や灌漑水路の工事による砂漠の緑化へと活動を広げていきます。そんな中村医師の宿舎の本棚には、常に内村鑑三(1861-1930)の講演録『後世への最大遺物』が置いてあったといいます。
内村鑑三は、主に明治期に活躍したキリスト教思想家です。日清戦争が起きた1894年、33歳の時に、箱根で開かれた基督教青年会(現在のYMCA)の夏期学校で「後世への最大遺物」と題した講演を行いました。
内村は講演の中で、アメリカにおける女子教育の先駆者として知られるメリー・ライオン(1797-1849)の言葉として「他の人の行くことを嫌うところへ行け。他の人の嫌がることをなせ」を紹介。そして以下のように訴えました。
この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺(ほとり)に植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌(ふ)き枝を生じてゆくものであると思います。
中村医師はミッションスクールの西南学院中学校(福岡県)に通っていた学生時代に『後世への最大遺物』に出会い、医師を志しました。自著の中で、中村医師は次のように記しています。
過去の世代の多感な青年たちと同様、私もまた自分の将来を「日本のために捧げる」という、いくぶん古風な使命感が同居するようになった。当時、日本全国で「医療過疎」が大きな社会問題になって久しかった。そこで、医学部進学を決心した。
2.言葉②「一隅を照らす」
(最澄『山家学生式』より)
「一隅(ぐう)を照らす」は、天台宗を開いた平安時代の仏教僧・最澄(さいちょう)(767-822)の言葉とされます。最澄が、天台宗の僧を養成するための課程を定めた『山家学生式』の冒頭には次の記載があります。
国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝と為す。
故に古人の言わく、径寸十枚是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なりと。
注:径寸(けいすん)……大きな宝石など、金銀財宝のこと
「一隅を照らす」の意味を私なりに解釈すると、「それぞれの置かれた立場や状況において、他者のために前向きに努力する人こそが国の宝である」ということでしょうか(諸説あります)。
中村医師は医療器具や薬も不十分なパキスタンにおいて、ハンセン病に罹患した人が末梢神経障害により手足の感覚を失い、怪我に気が付かず処置が遅れることによって重症化し、足の切断などに陥って生活できなくなることに心を痛めていました。
そこで、現地の人の協力のもと病棟の一角に工房を作り、安価でクッション性の高いサンダルを大量に製造。それを現地の人に配布したところ、足の切断に至るような重症患者が激減したといいます。
「一隅を照らす」は中村医師の座右の銘として知られています。思うに任せない状況にあっても、自分ができることを考え実践した中村医師の生涯は、その言葉をまさに体現しているのではないでしょうか。
3.言葉③「野の花を見よ。栄華を極めたソロモンも、その一輪の装いに如かざりき。」
(『新約聖書』マタイによる福音書6章28-29節より)
中村医師が「新約聖書の中で、最も美しい言葉」として強い影響を受けたとされるのが、「山上の垂訓」(新約聖書に記された、イエス・キリストが山の上で行った説教)の一節です。中村医師は自著の中で、学生時代にこの言葉に出会った際の印象を次のように振り返っています。
特にマタイ伝の「山上の垂訓」のくだりを暗記するほど読んだ。人と自然との関係を考えるとき、その鮮やかな印象は今も変わらない。
野の花を見よ。(略)栄華を極めたソロモンも、その一輪の装いに如かざりき。
自分は単に、その言葉に沿って普遍的な人の在り方を求めようとしたのだ。
山上の垂訓の中で、キリストは「野の花」の例を示して「思い悩んではならない」と教えました。何も着ていない野の花でさえ、こんなに美しいのだから、そもそも神により装われている人間が、着るものに思い悩むのは意味がない。若き日の中村医師はその教えに触れ「外からどう見えるかではなく、自らの道を求めることこそが普遍的な人間の在り方である」と感じたのでしょうか。
海外での活動の合間に、日本で講演会などを行っていた中村医師。その際に「なぜ、アフガニスタンに行くのか」「なぜ医師が井戸を掘ったり、灌漑工事を行うのか」と問われた時に、次のように答えていたといいます。
「道に倒れている人がいたら、手を差し伸べる――それは普通のことです」
医師だから、日本人だから、という「着物」にとらわれるのではなく、自らがなすべきと思ったことに愚直に取り組んでいく。中村医師の姿勢が、そこに現れているのかもしれません。
4.中村医師を支えた「言葉」から、何を受け取るか
医師にとってキャリアは常に悩みです。どの専門領域を選ぶか、アカデミアに進むか開業するか、家族の生活とのバランスをどう取るか……。「こうすれば生涯年収が高い」「このほうがワークライフバランスは良い」など、ネット上には様々な情報が溢れています。さらには「人口減少の進展や生成AIの発展によって医師の仕事が減る」なんて情報に触れて、不安を掻き立てられることもあります。
一方で中村医師の人生に影響を与え、苦境の時に支えとなったであろう言葉は、どれもシンプルで、そして力強さに溢れています。
不安や迷いに思い悩むのではなく、いま目の前にいる、困りごとを抱えた人の助けとなる。そのための資金や器具が不足していたとしても、出来ることを探して実践する。そんな中村医師が追い求めた「普遍的な人の在り方」を知ることで、私たちも、日々の不安やストレスに少し、対応しやすくなるかもしれません。
<参考文献>
- ・中村哲 『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』(NHK出版)
- ・中村哲 『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」 中村哲が本当に伝えたかったこと』(NHK出版)
- ・内村鑑三 『後世への最大遺物・デンマルク国の話』(岩波書店)
- ・最澄 『山家学生式』
- ・『新約聖書』 マタイ6章28-29節
- 市川 衛(いちかわ まもる)
- 東京大学医学部を卒業し、NHKに入局。医療・健康分野を中心に国内外での取材や番組制作に携わる。現在はREADYFOR㈱ 基金開発・公共政策責任者、広島大学医学部客員准教授(公衆衛生)、㈳メディカルジャーナリズム勉強会 代表、インパクトスタートアップ協会 事務局長などを務めながら、医療の翻訳家として執筆やメディア活動、コミュニティ運営を行っている。
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