教師から医師に。波乱の軌跡をたどる 前編

夢を叶えるのに年齢は関係ない!

木村勤 氏(鹿島記念病院 院長)

医師の道を志すには、さまざまな理由があります。親が医師だったから、憧れの存在がいたから、小さいころからの夢だったから――。今回は、一度は医師になる夢を諦めて教職に就きながらも、38歳で医師になる一大決心をし、47歳で医師となった木村勤先生にお話を伺いました。

 

医師を目指した少年期、教師に目覚めた青年期

私の母は看護師でした。帰ってくると病院の話をしてくれていたので、医療の世界をなんとなく身近に感じていました。でも、医師になりたいと最初に思ったのは、小学校の高学年の時にアルベルト・シュヴァイツァーの伝記を読んだときです。

高校生になっても想いは変わらず、医大を受験しました。しかし、結果は不合格でした。経済的に国立でないとダメだったのですが、当時は新設の医学部がなく、競争率約30倍という厳しい挑戦だったのです。

翌年は、自宅で浪人をして勉強をしていました。ところが、受験しようとした大学の受験教科が突然変わってしまい、受験することができなかったのです。これで2度目の失敗です。
それで今度は、親の援助は受けずにやろうと思い、東京に出ました。新聞奨学生として、朝の3時から新聞販売員の仕事を始め、夕刊の配達までやっていましたよ。働きながらなので、勉強時間はなかなか取れませんでしたね……。

その新聞奨学生時代に気持ちに変化が起きました。住み込みの仲間とともにいろんな世界を見ているうちに、社会福祉に興味を持つようになったのです。社会の不条理とか、そんなのを見ているうちに、障害者施設とかに興味を持つようになり、社会福祉のある学科で学びたいと思って明治学院大学に入学しました。
学生運動が激しい時代で、大学での授業も少なかったため、学ぶには実践するのが一番だと思い、友達と飛び込みで障害者施設に行きました。「住み込みで少し働かせてくれ」と頼み込み、施設の手伝いをさせてもらいながら、入所者の話を聞いたり、介護職員の話を聞いたりしているうちに、自分も将来はどこかの施設に務めるのだと思うようになりました。

そんなとき、学童保育の子どもの付き添いボランティアの話が来ました。小学校2年から4年生くらいの子どもを連れてキャンプに行ったんです。そうしたら、子どもがなついてくれてね。どちらかというと、私は人見知りなタイプでしたが、そんなのお構いなしに子どもからどんどんくるでしょう。しかも一泊二日なのに、キャンプが終わった後に手紙が来る、電話が来るで、「なんてかわいいんだろう」と思って。
それで教員もいいなと思って、教員採用試験を受けました。私は社会福祉学科なので特別支援学校教諭の資格での受験だったのですが、いざ採用されたら普通学級のクラス担任を任されました。当時流行っていたドラマ「熱中時代」と同じような熱血教師タイプでね(笑)。
あの当時の子どもたちは40代になっていますが、いまだに連絡がありますよ。

 

学ぶこと自体が楽しかった38歳からの医大受験

教師として充実した日々を送ってはいましたが、どこかに医学部に行きたかったという思いはくすぶっていました。38歳のとき、教頭になることを勧められました。私は、現場から離れてしまう役職は、教師ではないような思いがあったものですから即座に断ったのですが、このまま毎日担任の教師をしていた場合、年をとった自分が担任になって、子どもたちが喜ぶだろうかと考えました。
そんなことを考え、どうせ教頭になるために勉強する必要があるのならと思い、なんとなく英語の勉強を始めたんです。最初は、気力が持たないかと思っていましたが、それが3日続き、3カ月続き……とできたんです。それじゃあ、数学も……とやってみたらそれも続いた。それであれば、ずっと心に抱いていた“医学部に行きたい”という想いを実現するため、医学部受験科目の勉強を始めました。

こういう話をすると「不安はなかったか?」と聞かれることがありますが、高校生のときと違い、教員という仕事をしていたので、何年後に合格しなくてはいけないという焦りはありませんでした。場合によっては、定年の60歳くらいまでに受かればいいかなと思っていたほどです。一番の大きな違いは、やらされている感が全くなく、学ぶこと自体が楽しかったということです。
経済的な面に関していえば、退職金があったのと、国立大学は学費の免除があること。医学部に入ってしまえば、家庭教師なんかのバイトをしながら生活費くらいはなんとかなるかなとも思っていましたし。
実際には、退職金と弟が貸してくれた学資金、学費免除でどうにかしました。

 

後戻りするわけにはいかなかった医学生時代

3年後、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に合格しました。入学後の数カ月はいろんな観光地に行ったりして天国でした(笑)。でも、大学では学年ごとに進級試験があって、3教科不合格だと留年で、そのうち1教科でも20点以下がついたら一発留年、という厳しい現実を知ったのです。
私は教師を辞めるとき、担任していた子どもたちに学校を去ること、医大に行くことを言いませんでした。しかし新聞で退職を知った子どもたちやその保護者の方から送別会を開いていただき、子どもたちからメッセージの入ったカセットテープをもらいました。最後に担任していたのは5年生だったのですが、その中のある生徒が「私の夢は、6年生も先生に受け持ってもらうことでした。でもその夢は叶いません。だから先生は、私の代わりに先生の夢を叶えて」と言ってくれたのです。
子どもたちの夢を壊してまで自分の夢を優先して医大に行ったのに、進級できないとか、医師になれないとなったら、生きては帰れまい。そう思ったら、最初の小テストで、生まれて初めて手が震えて字が書けなくなってしまいました。

 

シュヴァイツァーの後を追い、離島の医師に

入学時こそ大変なプレッシャーがありましたが、卒業までは結構順調でした。5年生くらいで将来の進路を決めるのですが、もともとシュヴァイツァーの伝記に憧れて医師になりたかったというのもあって、アフリカに行きたかったんです。きっと若かったら海外を選択していたと思います。でも卒業は47歳で研修医が終わるころには49歳になっているのにアフリカはないだろう、と現実を見つめ直しました(笑)。
それなら国内の離島がいいなと思っていたら、長崎県の五島列島のある島で奨学生の募集があって、5年生から長崎県の奨学金を受け、卒業後は長崎県の指定する病院に勤務するというものでした。そのルートに乗り、国立長崎医療センターで2年間研修医をして、その後、五島列島の奈留島で内科医として勤務しました。

49歳から2年ほど内科医として勤務していたのですが、小さな病院で内科医兼小児科医兼……、それこそ簡単に縫うくらいの処置もしましたし、文字通りなんでも屋です(笑)。そんな状況だったので救急車が到着するとすごく緊張したのを今でも覚えています。
私は現在精神科医ですが、内科から精神科へ転科をした理由はこの奈留島での経験からです。統合失調症を患っているような患者さんを担当したとき、内科の事案ではあるけれど、精神的なものが原因になっている不調もありました。
精神科疾患を持っている患者さんと付き合いながら、段々と自分はそちらの方が合っているような気がしたんですね。それに、私の人生経験というのが有利になるのは精神科かなと思ったこともあって転科しました。

こうして長崎の奈留島での内科医としてのキャリアに終止符を打った木村医師は、次なるステージとして、青森県の十和田市へ。ここで3年間精神科医として勤務し、その後高知県で2年、種子島で2年ほど精神科医として経験を積みました。
そして、宮城県石巻市の恵愛病院に院長として招かれた2年後、あの東日本大震災が起こったのです。

後編では、震災当時の様子や被災地に精神科医が必要な理由などをお話しいただきます。

(聞き手・エピロギ編集部)

 

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木村勤(きむら・つとむ)
鹿島記念病院院長
明治学院大学卒業後、小学校の教師となるが38歳で医師になることを決心し、41歳で宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に入学。内科医として長崎県五島列島の奈留病院に勤務。その後、精神科に転科し、青森県の十和田市で3年、高知県で2年、種子島で2年、精神科医として経験を積み、宮城県石巻市の恵愛病院の院長に着任。東日本大震災後の2012年3月より鹿島記念病院の院長となる。
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