教師から医師に。波乱の軌跡をたどる 後編

地域に、そして被災地に寄り沿う精神科医として

木村勤 氏(鹿島記念病院 院長)

47歳で医師となり、五島列島の奈留島での内科医勤務を経て精神科医へと転科した木村勤先生へのインタビュー後編。前編では教師から医師になったきっかけを伺いました。後編では宮城県石巻市で遭遇した東日本大震災の経験と、被災地での精神科の存在、そして今後の目標についてお話しいただきました。

 

来るはずのなかった大津波

私が恵愛病院に着任してしばらく経ったころ、病院職員と津波について話したことがあります。そのときは、大きな地震があってもここには一度も津波が来たことがないし、地形上大丈夫だという話をしていました。しかし、2011年3月11日、病院が津波に襲われました。

震災当日は、系列の齋藤病院の理事長と副理事長と打ち合わせをしていました。そのときに地震に遭い、揺れも長かったので私は負傷者がいないかを確認するため全ての病棟へすぐに向かいました。防災放送などの外からの情報も何も聞こえてこなかったこともあって、まさか津波が来るとは思っていませんでした。
その後、敷地内にある自宅の様子を見に行くと家内がいませんでした。一通り確認して院長室に戻ると、子どもを連れた家内がそこにいたのです。子どもの幼稚園は避難場所になっていたので、「なぜ連れて戻って来たんだ!」と叱っていたら、家内が「ザーッと音がする」と言ったので外を見ると津波が迫っていたのです。慌てて上の階に避難させました。

院内ではマニュアル通りにすべての患者さんをホールに集めていましたが、万が一のことを考え2階に避難させることにしました。しかし患者さんを避難誘導しているさなかに津波が病院まで到達してしまったのです。濁流は瞬く間に1階天井まで達し、職員や患者さんを飲みこみました。繋いだシーツをロープ代わりに引っ張り上げるなど、必死の救助活動を行いましたが、患者さん24名、職員3名の尊い命を失ってしまいました。

 

石巻から精神科を減らさないための決断

震災後は、恵愛病院が機能しなくなったので、系列の齋藤病院が外来を開いてくれました。恵愛病院にいた患者さんたちは、3週間かけて様々な病院に転院していきました。中には、涙を流しながら「いつか戻してください」と訴えたり、「本当にいい病院でした」と声をかけてくださったりした方もいました。職員もいろいろな不安を抱えながら不眠不休で患者さんのケアにあたってくれました。それも、恵愛病院が再建できるという思いがあったからです。だから、石巻を離れるという選択肢は私にはありませんでした。

しかし、震災から半年ほど経ったとき、齋藤病院の理事長から恵愛病院の再建断念が伝えられたのです。「あれだけ被害があった場所に、はたして患者さんが来てくれるか? 働いてくれる職員がいるか?」を考えると難しいということでした。本来、精神科は入院施設が必要ですが、石巻を離れたくなかった私は入院施設がなくても齋藤病院の外来で細々やっていくつもりでいました。
1~2カ月経った頃、現在勤務している鹿島記念病院の事務長と看護部長から「会いたい」という話がありました。その時期に鹿島記念病院の院長と副院長が辞めることになっていたのですが、震災のあった場所なので、誰も来てくれる人がいなかったそうです。看護部長が私と面識があったことや、恵愛病院の患者さんを受け入れていたこともあって、私の名前を挙げてくれたようです。

しかし即断できませんでした。
私としては齋藤病院への恩義もあったため、「入院施設がない精神科は困るけれど、齋藤病院に迷惑がかかるような形ではこの話は受けられない」と伝えたのです。すると鹿島記念病院の理事長が「齋藤病院に迷惑をかけないための条件を言ってくれ。どんな条件でも飲む」と言ってくれたのです。それで、齋藤病院の方には「外来で1~2日来てこれまで通りに患者を診るので、鹿島記念病院に行きたい」という話をしました。齋藤病院の理事長は「とにかく石巻医療圏から精神科の病院を減らしたくない。この病院のことは考えなくていいから、ぜひやってほしい」とおっしゃってくださいました。
こうして、2012年の3月、鹿島記念病院の院長として勤務をすることになったのです。

 

いまだ続く震災の影響。それを乗り越え地域医療に貢献する

東日本大震災後、石巻地域では精神的ケアの必要な人が増え、“心のケア”の重要性が叫ばれています。それは病院職員にも同じことが言えます。恵愛病院の職員は、不眠不休で頑張ってくれました。しかし震災後、通勤途中で水を見て足がすくんで動けなくなってしまい、齋藤病院の精神科外来に来た看護師もいます。
今、鹿島記念病院に入院している患者さんの中には、震災がなければここにはいなかっただろうという方がたくさんいます。仮設住宅などの狭い空間に閉じ込められたことで認知症が進んでしまった人、アルコール依存になってしまい入院が必要になった人、鬱がよくなっていたにも関わらず震災をきっかけに悪化してしまった人……。震災後、精神科はますます重要な診療科になったといえるでしょう。

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大きな病院は今もベッドが不足しています。自殺未遂で入院した患者さんでも落ち着いたらすぐに退院させられてしまうので、この鹿島記念病院が後方支援病院として機能し、地域の役に立てればと思います。

また、良質な医療を提供すること。接遇、医療技術を高めていくこと。そして、患者さんからも、そのご家族からも信頼される病院にしていくことも忘れてはいけません。
そして、医師としては、精神科の患者さんに対する偏見をなくしたいと考えています。ここでは精神科だけではなく心療内科も標榜することで、診察を受けやすいようにしました。精神科は、小さな子どもからお年寄りまで誰もが対象になりえます。だからこそ、もっと気軽に受診ができるようになればいいなと私は考えています。

医師経験の方が長くなりましたが、これまでを振り返ると、泣いたり笑ったりしたのは教師時代です。何十年経っても忘れられない思い出ができました。普段の生活の中で、医者は教師のように患者さんに関わることはありません。診察室の中、病棟の中での短い時間の付き合いになりますから。それでも、自殺未遂をした子どもや、登校拒否の小学生の子どもが来たときは、教師時代の経験が活きることはたくさんあります。子どもたちが一日の大半を過ごす学校で、彼らがどう過ごし、どんな悩みを持っていたかを現場で経験しているからです。親御さんに対してお話をするときも、医師としてだけでなく教員だった立場からもアドバイスをしています。

「医師は教師のように患者さんと関わることはない」と言いましたが、もちろん医師だからこそのやりがいもあります。
震災後、プッツリ来られなくなった患者さんがいました。その方は震災で家族を亡くし、奥様と二人だけになってしまったそうです。かなり重い鬱状態にも関わらず、4年後、違う病院に勤めている私を探しだして会いにきてくれたのです。なるべく早く楽にしてあげたいと思い、薬を処方したら本当によくなりました。また、リストカットをしていた子から「今は元気にやっています!」というメールをもらったこともあります。
このように、患者さんの“その後”にも多く関われ、患者さんから頼りにされるとき、精神科医としてのやりがいを感じます。
これからもここ石巻で被災地のため、困っている患者さんのために寄り添い続けていくのが私の努めだと思っています。

最後になりますが、鹿島記念病院では被災地・石巻の医療面での復興を支えるため、一緒に働いてくださる内科医・精神科医を募集しています。関心をお持ちの方はぜひ、当院事務長までご連絡をお願いします。

(聞き手・エピロギ編集部)

 

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木村勤(きむら・つとむ)
鹿島記念病院院長
明治学院大学卒業後、小学校の教師となるが38歳で医師になることを決心し、41歳で宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に入学。内科医として長崎県五島列島の奈留病院に勤務。その後、精神科に転科し、青森県の十和田市で3年、高知県で2年、種子島で2年、精神科医として経験を積み、宮城県石巻市の恵愛病院の院長に着任。東日本大震災後の2012年3月より鹿島記念病院の院長となる。
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