第12回 カテーテルを自らの心臓へ……循環器学を発展させた命懸けの挑戦
「その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする」
アルフレッド・バルンハート・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞。その一分野である医学・生理学賞の受賞を振り返ると、人類と病の闘いの歴史であることがわかります。いまでは当然と思われている医学の常識が成立するまでに、研究者たちは多くの困難を乗り越えてきました。
今回は、自らの体で心臓カテーテルの実験を行った人物、ヴェルナー・フォルスマンの紹介を中心にカテーテルの歴史を紹介します。実験に挑む彼の胸には、「患者の命を救いたい」という熱い思いがありました。
2000年以上の歴史を持つカテーテル
狭心症や心筋梗塞の治療や検査に用いられ、いまや医療の現場に欠かせないカテーテル。
その歴史は古く、およそ2000年前に栄えた古代ローマ帝国の遺跡から世界最古のカテーテルが発見されています。このカテーテルは青銅製で直径は17ミリほど。膀胱や尿管の結石を取り除くために使用したと推測されています。金属製カテーテルはヨーロッパやインドを中心に導尿のために用いられましたが、尿道を損傷する恐れがあることから10世紀頃には柔らかい革や布製のカテーテルが主流になりました。さらに19世紀にフランスの医師オーギュスト・ネラトンがゴム製の「ネラトンカテーテル」を発明すると、それまでの器具と取って代わりました。
カテーテルは古来より泌尿器系疾患の治療に用いられましたが、心疾患治療への応用が始まったのは近代に入ってからのことです。17世紀にウィリアム・ハーヴェーが「血液循環説」を発表し、心臓の仕組みに注目が集まったことが背景にあります。
例えば、18世紀にはイギリスの学者スティーヴン・ヘールズが生物の血圧測定のため、馬の頸動脈に管の挿入を試みました。彼はガチョウの気管をカテーテルとして用い、見事血圧の測定に成功しています。続いて1844年にはフランスの医師クロード・ベルナールが動物の心臓の温度を確かめるために、馬の心臓にカテーテルを挿入。これが世界で最初の「心臓カテーテル実験」とされています。
その後も動物の心臓にカテーテルを挿入する実験はいくつか行われましたが、人体への応用はなかなか進みませんでした。動物実験で安全を確認できても、人体実験にはためらいがあったのでしょう。心臓への異物挿入という未知の体験ですから、その恐怖は想像に難くありません。
尿道カテーテルを自らの心臓に挿入したフォルスマンの実験
19世紀から20世紀初頭にかけて、心臓手術は大きな危険を伴う治療でした。当時は胸の上からじかに注射針を刺して強心剤を打つ方法が一般的でしたが、針が心臓近くの血管を突き破ってしまい失血死するリスクがあったのです。また、薬剤投与が遅れて死に至るケースも少なくありませんでした。
動物と同様にヒトの心臓にもカテーテルを入れられれば、素早く確実に薬剤を投与できるのではないか。そう考えたのがドイツの医師ヴェルナー・フォルスマンです。医学校で心臓専門医の技術を学んでいた彼は、在学中にヘールズやベルナールが行った心臓カテーテルの実験を知り、興味を抱いていました。
1929年の夏、25歳の新米医師フォルスマンはドイツのアウグステ・ファクトリア病院に勤務していました。そこで長らく温めていたカテーテル実験のアイディアを実行すべく、なじみの看護師ゲルダに器具の準備を依頼します。実験のリスクを知っていたゲルダはかたくなに拒みますが、やがて「私(ゲルダ)の体で実験をするなら」という条件付きで、静脈切開に必要な器具一式と尿管カテーテルを用意します。
手術の用意を整えたフォルスマンは、ゲルダを実験台にすると見せかけて、手術台の上に縛り付けました。そして彼女の死角に回り込み、自らの肘の内側を切開。静脈にカテーテルを挿入したのです。ゲルダがフォルスマンの思惑に気付いたときにはすでに遅く、彼の肘静脈は尿管カテーテルが30センチほど挿入された状態でした。
次にフォルスマンはカテーテルを間違いなく心臓に届けるため、X線室に移動します。胸部をX線透視装置で確認しながらカテーテルを動かしたのです。カテーテルは脇と鎖骨の下を通り、ついに心臓の右心房まで到達します。半ば強引な方法でしたが、心臓カテーテル実験は成功を収めました。ちなみに彼はこのとき、実験の証拠を残すためにX線写真を撮影しています。
フォルスマンが撮影した写真。右の肘静脈から挿入したカテーテルが腋窩静脈と鎖骨下静脈を通り、無名静脈と上大静脈を経て右心房に到達している。
「サーカスの曲芸」との揶揄から一転、ノーベル賞受賞へ
「心臓カテーテルを使用すれば、失血死のリスクもなく確実に薬剤を投与できる」
そう確信したフォルスマンは早速論文をまとめ、1929年11月にドイツの医学雑誌『クリーニシェ・ヴォッヒェンシュリフト』で発表します。1931年にはドイツ外科学会でも発表を行いますが、医師たちの反応は意外にも冷たいものでした。その理由は、命の象徴ともいえる心臓に人の手を加えることは当時の倫理に背く行為であったためだと伝えられています。
心臓カテーテル研究は多くの批判を浴び、フォルスマンの上司であった教授は「あの研究はサーカスの曲芸に等しい」と揶揄しました。失意のうちに病院を解雇されたフォルスマンは第二次世界大戦が始まるとともに軍医として徴兵され、研究を断念します。
一方、フォルスマンの画期的な研究は遠く離れたアメリカにも伝わっていました。1932年、アメリカの医師アンドレ・フレデリック・クールナンとディキソン・W・リチャーズはフォルスマンの心臓カテーテルに関する論文を発見。2人は心臓カテーテルの改良を重ね、1941年に心臓カテーテルを用いた患者の血液採取に成功します。さらに心臓カテーテルは心疾患の治療にも応用され、1950年代には多くの心臓専門医が心臓カテーテルを利用するようになったと伝えられています。
1956年、ドイツの田舎で開業医を営んでいたフォルスマンのもとに驚くべき知らせが届きます。なんと、自身の研究がノーベル医学・生理学賞を受賞したというのです。これは心臓カテーテルの基礎を築いた功績をたたえたもので、クールナンとリチャーズとの共同受賞でした。心臓カテーテルはもはや「サーカスの曲芸」ではなく、人の命を救う立派な医療器具として認められたのです。
心臓カテーテルの発展
心臓カテーテル技術の確立により、医師は患者の胸を切り開くことなく心臓や血液の状態を確認し、薬を投与できるようになりました。1940年代後半には造影剤を用いた心臓血管造影検査も可能になり、これは現在でも狭心症や心筋梗塞の診療に役立っています。
1970年代には先端に風船を取り付けた「バルーンカテーテル」が発明されました。これは心筋梗塞などの原因になる冠動脈狭窄治療のために開発されたものです。
従来、冠動脈の狭窄はバイパス手術(胸を開いて狭窄した冠動脈と別の血管をつなぐことで血液の通り道を確保する技術)で対処していましたが、これは人工心肺を用いるため患者の体に大きな負担がかかりました。
一方、バルーンカテーテル治療は血管内でバルーンを膨らませて狭窄部を拡張し治療を行います。局所麻酔をかけてカテーテルを挿入するだけで済むので、体力的な負担が少なく術後の回復も早い点がメリットです。
なお、バルーンで対処できない場合は「ステント治療」を行います。
ステントとは金属製の短いチューブであり、血管内部に固定することで狭窄を治します。1986年に登場し、バルーンカテーテルよりも冠動脈解離を素早く治療できることから注目されました。なお、1990年頃までのステント治療では金属で血管が傷付き再び血管狭窄を起こすケースもありましたが、現在は薬剤溶質性ステントを用いて再狭窄を防ぐことができます。
始まりは青銅の管だったものがゴム製に、そしてバルーン付きの器具へと進化してきたカテーテル。すべての症状がカテーテル手術で治せるわけではありませんが、患者の体への負担が少ないことからその需要は高く、日本における心臓カテーテル治療の件数は心臓バイパス手術の6倍以上ともいわれています。
*
「患者の命を救いたい」――その思いから、自らの心臓にカテーテルを挿入するという大胆な行動に出たフォルスマン。彼の命懸けの挑戦がなければ、われわれはいまも注射針で左胸を貫いて治療を行っていたかもしれません。
なお、フォルスマンが解雇されたアウグステ・ファクトリア病院は1991年に「ヴェルナー・フォルスマン病院」と名前を改めました。彼が基礎を築いた心臓カテーテル治療は、いまや世界で年間100万回以上実施され、彼が望んだ通りに多くの命を救っています。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
レスリー デンディ (著), メル ボーリング (著), Leslie Dendy (原著), Mel Boring (原著), C.B. Mordan (原著), 梶山 あゆみ (翻訳), C.B. モーダン
『自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝』(2007,紀伊國屋書店)
土屋 紀子「自己導尿による排泄マネージメント ―自己導尿カテーテルの開発の歴史とその有用性―」
(http://www.lib.yamanashi.ac.jp/igaku/mokuji/YNJ/YNJ3-1/image/YNJ3-1-009to018.pdf)
横井 宏佳,延吉 正清「冠動脈ステントの現況」
(http://www.bayer-diagnostics.jp/static/pdf/publications/nichidoku_iho/2003_48_03/48_03_04.pdf)
メディカルα「第19回 カテーテル」
(http://www.bs-tbs.co.jp/alpha/archive/19.html)
テルモ「医療の挑戦者たち(4)ゴムのチューブを血管から心臓へ。自らの体で挑んだ実験が、心臓カテーテル法を生んだ。(ヴェルナー・フォルスマン) 」
(http://challengers.terumo.co.jp/challengers/04.html)
テルモ「医療の挑戦者たち(5)午前三時のキッチンで、心臓血管の治療に革命が起きた。(アンドレアス・グルンツィッヒ)」
(http://challengers.terumo.co.jp/challengers/05.html)
北里大学メディカルセンター ハートセンター 「カテーテル検査のご紹介」
(https://www.kitasato-u.ac.jp/kmc-hp/section/div-sinryou/nai/catheter-kensa.html)
国立循環器病院センター「[44] カテーテル治療の実際」
(http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/heart/pamph44.html)
日本心血管インターベンション治療学会 東海北陸支部
(http://square.umin.ac.jp/cvit-th/greeting.html)
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コメント一覧(2件)
2. へろ さん
「患者の命を救いたい」という気持ちがすべてだったのか。ご本人が動機を書き残しているのか「患者の命を救いたい」―その思いから、自らの心臓にカテーテルを挿入するという大胆な行動に出たフォルスマン。
1. 堀内敏夫 さん
縦割り行政及び縦割り医療の改善策、ネットワ-ク医療の導入対策を考える人はいないのかな?