第2回 戦乱の日本における医学的功労者 ウィリアム・ウィリス
学問、技術、制度など多くの西洋知識を伝え、日本の近代化に深く関わった明治のお雇い外国人たち。その功績は、医学にも深く影響しています。オランダやドイツなどの国々から派遣されたお雇い外国人たちに、当時の日本人医学生は進歩した西洋医学を教わりました。シリーズ「日本の近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~」では、日本の西洋医学の礎づくりに貢献したお雇い外国人たちの、日本医学史に残る功績をご紹介します。
第2回で取り上げる人物は、明治時代に起こったさまざまな争いや事件の陰で医師として活躍し、人命尊重の精神を貫いたウィリアム・ウィリスです。
悪辣な父親とウィリスの過ち
「父は恥知らずな人間です。だれであろうが他人からお金を巻きあげようとする欲望は、昂じてほとんど病的なものになっていました」
引用元:ヒュー・コータッツィ(著)、中須賀哲朗(訳)『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(1985、中央公論社 p13)
――1862年7月7日付のウィリスの手紙より
1837年5月1日、北アイルランドのファマーナ州マグワイア―ス・ブリッジで生まれたウィリアム・ウィリスは、手紙に記した言葉が示す通り、悪辣な父が支配する貧しい家庭で育ちました。家畜の群れの番をさせられ、なにか間違いを起こせばこん棒で打つと脅される日々。
そんな中でもウィリスは希望を失わず、先に開業医となっていた兄ジョージの支援を受けつつ、1855年に18歳でグラスゴー大学医学部を受験し、見事合格をつかみます。医科大学予科の課程を修めてから医学の名門エジンバラ大学に移り、1859年5月19日にウィリスは22歳で医学士の称号を得ます。『胃潰瘍論』と題した彼の卒業論文は「思慮のある試論」で「きわめて正確なもの」だと評されました。
卒業後はロンドンに移り、晴れてミドルセックス病院の医局員となったウィリス。しかしそこでマリア・フィクスという看護助手と不義の仲となり、予期せぬ形で息子を持つことになってしまいます。息子はエドワードと名付けられ、兄ジョージの養子に。20歳そこそこの若さで父となったウィリスには、兄に送る養育費としてより多くの給料を稼ぐ必要が生じました。
そんな状況で彼の目に留まったのが、海外に駐在する外交官の募集です。500ポンド(現在の1,000万円以上に相当)という大きな報酬と海外への派遣が期待できる求人に、もともと強い冒険心を持っていたウィリスは飛びつきました。また、彼の中にはマリアとは結婚せずに距離を置きたいという気持ちもあったのです。
試験に合格したウィリスは、江戸駐在英国公使館の補助官兼医官として日本へ旅立つことになりました。
生麦事件と薩英戦争――尊王攘夷に乱れる日本
1862年5月12日、25歳のウィリスが乗った郵便送達用艦レナード号は長崎に到着しました。そこから関東の公使館に移ったウィリスたち公使館員は、さっそく尊王攘夷の思想がはびこる当時の日本の洗礼を受けることになります。
外国人排斥を訴える水戸藩の浪士が公使館に討ち入ったのです。ウィリスは無事でしたが、警備のイギリス兵2名が、手当てもむなしく命を落としました。
「この国にはいたるところに敵がいると言わねばなりません」
ウィリスは、そう当時の手紙に書いています。
数カ月後、その判断は間違っていなかったことが証明されました。
1862年9月14日、神奈川県生麦村において、薩摩藩主の大名行列を4人のイギリス人商人が横切り、そのうちの一人であるリチャードソンが薩摩藩士によって斬殺されました。その現場に、真っ先に駆けつけたのがウィリスです。ウィリスと親交の深い当時のイギリス人外交官アーネスト・サトウはそのときの様子をこのように記録しました。
「最初に現場に駆けつけた者の中で、たぶんだれよりも一番先頭に立っていたのはウィリス医師であった。医者としての職務に対する強い義務感のために、彼はまったく恐怖心を感じなかったのだ」
引用元:ヒュー・コータッツィ(著)、中須賀哲朗(訳)『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(1985、中央公論社 p37)
この事件は「生麦事件」と名付けられ、薩摩藩とイギリスの軍艦7隻が衝突する1863年の薩英戦争のきっかけとなりました。ウィリスはそのうちの1隻アーガス号に乗り込んで、イギリス人負傷者の治療にあたりました。幸いなことに、アーガス号には一人の重傷者も出ることはありませんでした。
薩英戦争の講話が済んだ後、ウィリスは横浜の外国人居留地で外国人・日本人を問わず治療を施す数年間を過ごしました。当時治療した病はコレラ・狂犬病・天然痘・性病など幅広く、彼は大いなる活躍を見せました。特に天然痘については居留地外に設立した天然痘病院の設立・経営に関わり、「天然痘蔓延の抑止に寄与した」と英国神奈川領事代理マーカス・フラワーズは報告しています。
戊辰戦争とウィリスの人道主義
1867年、30歳となったウィリスは駐日大使サー・ハリー・パークスの都合で、大阪に引っ越します。1865年に来日したパークスに第一補佐官として任命されていたウィリスは、さまざまな場所へ随行していました。そしてこの年、パークスは大政奉還による江戸幕府の終焉後に予定されていた兵庫開港・大阪開市に備え、大阪で待機することにしたのでした。 1868年1月1日、開港・開市は予定通りに行われました。その2日後には、王政復古の大号令が表明され、長州・薩摩などの有力藩が取り仕切る天皇中心の政治体制樹立が宣言されます。それは、1年以上にわたって新政府軍と旧幕府軍がぶつかり合う戊辰戦争のきっかけとなりました。
居留地に近い関西や戦争従軍医として派遣された東北で、ウィリスは大勢の日本人の治療に携わりました。
その期間のエピソードから、彼の医師としての2つの特性が浮かび上がります。
1つは、誰に対しても区別なく熱心な治療を行う人道的な態度。
例えば1867年2月4日、ウィリスは備前藩兵とフランス水軍の争いで放たれた流れ弾で傷ついた百姓の老婆を治療します。彼女は下層民とされる身分で、日本人は誰一人として彼女へ近寄ろうとはしませんでした。そんな中で、ウィリスは彼女を助け出したのです。
また、それから2週間がたった2月18日、ウィリスは京都の相国寺に作られた野戦病院に派遣されます。そこには、薩摩藩に所属する負傷兵が100人余り収容されていました。彼はそこで西郷隆盛の弟、西郷従道を含む負傷兵たちに対し、銃弾の摘出や骨片の除去、腫瘍切開などの処置を行いました。さらに新政府軍に許可を取り、他藩の負傷者や幕府脱走兵、旧幕府軍である会津兵にさえも治療を施したといいます。それまで敵側の負傷兵は殺されるのが通例でしたが、ウィリスは激しく抗議し、新政府軍の首脳陣を説得して処刑を止めさせることに成功しました。彼は「人命の不必要な犠牲」を何よりも憎んでいたのです。
ほかにも「落城直後の会津若松で敗残兵700名を治療した」「大勢の難民を救うために自分の所持金を全て投げ出した」など、戊辰戦争中にウィリスが人道主義を体現したエピソードは、枚挙にいとまがありません。
ウィリスのもう1つの特性は、優秀で熱心な教師であったことです。
野戦病院にウィリスが来るまでの治療は「傷口に軟膏を塗って自然に回復するまで放置する」程度のものでしかありませんでした。そんな現状を見かねたウィリスは、副木の当て方やクロロホルム麻酔法を用いた切開手術など、知っている限りの一般的な治療法を日本人の医師や看護人に教え、同時に個々の患者にとって必要な対応を彼らと一緒に研究しました。
日本人医師たちは新たな知識を熱心に習得し、ウィリスが帰る前には腕の切断手術を成功させられるまでに成長したといいます。しかし、ウィリスは手術が成功した直後であっても、副木の当て方や化膿を防ぐ方法など、教えた医学知識に付随する注意点を教えることを忘れませんでした。
東京・鹿児島における医学校立ち上げ
戊辰戦争終結後の1869年3月1日、31歳のウィリスはその手腕を買われ、薩摩藩首脳部の推薦で東京・神田和泉町にできた医学校兼大病院(後の東京大学医学部)の院長に就任しました。彼は同年3月8日の手紙にこう書き記しています。
「今月1日から、私は日本政府に雇われ、当地江戸の病院で患者を診断したり、日本人医師に治療法を教えたりしています。私が講義を行った日本人医師は約200人ですが、数日たてば教師としてもとんとん拍子でやれるものと思います」
引用元:ヒュー・コータッツィ(著)、中須賀哲朗(訳)『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(1985、中央公論社 p254)
就任後のウィリスは、午前は診察、午後は講義、夕方は研究と忙しい日々を送りました。しかし、それから半年もたたないうちに彼は医学校を辞めることになります。それは、新政府の医学改革の責任者となった相良知安と岩佐純が、医学校の手本をドイツ医学とすることに舵を切ったためでした。ポンペが創始した長崎清徳館出身の2人は、学んだオランダ医学の原点であるドイツ医学を選ぶことにしたのです。
東京の医学校を辞めた後、ウィリスは従道を治療したことで縁ができた西郷隆盛の斡旋で、鹿児島につくられた西洋医学院、鹿児島医学校(現在の鹿児島大学医学部)の医学校長兼病院長となりました。
1870年1月13日に就任してからの生活は多忙を極めました。32歳のウィリスは5カ月間で3,000人以上の患者を治療しながら、医学生たちの教育も行いました。彼はイギリス独特の臨床実証医学を重んじ、ベッドサイドティーチングを頻繁に行ったそうです。
当時の日本では、日本独特の医学を重んじる漢方医たちが全国的に西洋医学の排斥運動を起こしていました。ウィリスは彼らへの抵抗へも時間を割かれつつ、講義と実習を交互に行い、学生たちに実践的な知識を与え続けました。
鹿児島医学校でのウィリスの教え子に、日本最初の医学博士であり、東京慈英会医科大学の創始者でもある高木兼寛がいます。彼は、かつて国民病だった脚気の原因が栄養欠乏だと突き止めた「ビタミンの父」としても知られている人物です。
ウィリスもまた栄養に気を配り、サツマイモばかりに頼る一般庶民の食生活を心配して酪農を奨励したり、役所に勧告して動物の食肉処理の衛生環境を整えさせたりしました。「病気は治療するよりも予防することがさらに重要である」というウィリスの考えが兼寛に受け継がれた結果、脚気の原因究明という成果につながったのかもしれません。
ウィリスが戦乱の日本に伝えたもの
1877年10月24日、40歳のときにウィリスは日本を去りました。その原因は、西郷隆盛を中心として起こった政府への反乱、西南戦争です。隆盛と親しくしていたウィリスは、日本に適当な職を見つけることができなくなりました。
ウィリスの滞在した約16年間、日本は争いに満ちていました。しかし、その中でも医師としての本分を見失わず、日本人の命を救い、日本人に医学を教えた彼は、日本医学にとって欠かせない恩人といえるでしょう。
1894年2月14日、生地北アイルランドでウィリスは亡くなります。享年57歳。その際、イギリスの有名な医学雑誌『ランセット』に追悼記事が掲載され、ウィリスと親交が深かった駐日大使パークスの書簡の一節が引用されました。
「私は自信をもって述べることができるのだが、有能なウィリスがたゆみない真摯な努力を傾注したことによって、日本における人道主義と医学の進歩が実質的に促進されたのは、ひとえに彼の功績である」
引用元:ヒュー・コータッツィ(著)、中須賀哲朗(訳)『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(1985、中央公論社 p7) ――『ランセット』に掲載されたパークスの書簡の一説より抜粋
(文・エピロギ編集部)
<参考>
ヒュー・コータッツィ(著)、中須賀哲朗(訳)『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』(1985、中央公論社)
MACHI LOG「ロンドンの新聞にも取り上げられた大事件!攘夷浪士が、英国公使館を襲撃。その賠償金は!?」
http://giftstotheearth.com/?p=1610
アーネスト・サトウの略伝
http://ktymtskz.my.coocan.jp/J/futuin/satoy.htm#0
小宮山道夫「『ウィリアム・ウィリス文書』にみるW・ウィリスの医学教育」
http://jsmh.umin.jp/journal/45-2/206-207.pdf
鹿児島市観光サイト よかとこかごんまナビ「ウィリアム・ウィリス」
https://www.kagoshima-yokanavi.jp/spot/10141
大阪日日新聞「維新の医療と恩人」
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/090417/20090417044.html
鹿児島市医報「ウ イ リ ア ム ・ ウ イ リ ス 生 誕 170 年- 顕 彰 し た い そ の 功 績 -」
http://www.city.kagoshima.med.or.jp/ihou/539/539-14.htm
ケーブルテレビ佐伯「ウイリアム・ウィリス」
神戸開港150年「神戸港の歴史」
http://www.kobeport150.jp/port/history.html
港区「1868(明治元)年 現西区川口にて大阪港開港」
http://www.city.osaka.lg.jp/minato/page/0000341898.html
森谷秀亮「王政復古の大号令について」
http://ci.nii.ac.jp/els/contents110006992462.pdf?id=ART0008904403
ハンサムウーマン 八重と会津博 会津若松市公式サイト「八重とコラム 日本を揺るがす内乱・戊辰戦争.1」
http://yae-sakura.jp/aizuhaku/column03
日本赤十字社 熊本支部「敵味方の区別なく救護した明治の偉人達(Ⅰ) ~ウイリアム・ウイリス~」
http://www.kumamoto.jrc.or.jp/kumamoto/k10
鹿児島大学医学部「沿革」
http://www.kufm.kagoshima-u.ac.jp/history.html
鹿児島大学医学部「学部長の挨拶」
http://www.kufm.kagoshima-u.ac.jp/messages.html
宮城県郷土先覚者「高木兼寛」
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/index.html
松田誠「高木兼寛とビタミン」
https://ir.jikei.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=831&item_no=1&page_id=13&block_id=30
【関連記事】
実はこの人も医者だった!? 医師からキャリアチェンジした偉人達 Part2[ジャン=ポール・マラー/大村益次郎/孫文]
いばらの道を駆け抜けた女性医師たち|第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医~公許女医の誕生[江戸~明治初頭編]
医局の歴史|第1回 医局の成立と大学への医師の集中
コメントを投稿する