第3回 指紋を発見した聖路加国際病院の創始者 ヘンリー・フォールズ
学問、技術、制度など多くの西洋知識を伝え、日本の近代化に深く関わった明治のお雇い外国人たち。その功績は、医学にも深く影響しています。当時の日本人医学生は、オランダやドイツなどの国々から派遣されたお雇い外国人たちから、進歩的な西洋医学を教わりました。シリーズ「日本の近代医学を支えた偉人~明治のお雇い外国人たち~」では、日本の西洋医学の礎づくりに貢献したお雇い外国人たちの、日本医学史に残る功績をご紹介します。
第3回で取り上げる人物は、指紋で個人を特定できることを発見し犯罪捜査を飛躍的に進歩させた、聖路加国際病院の創始者ヘンリー・フォールズです。
裕福なキリスト教徒の家に生まれて
1843年6月1日、スコットランド南西部の小さな街、ビースで誕生したフォールズ。父ウィリアム・ポロック・フォールズは運送業を営む商人で、敬虔なキリスト教徒でした。フォールズは兄弟たちと聖書の読解を父に教わりながら、裕福な暮らしを送っていました。
しかし1857年、状況は一変します。イギリスに不況が訪れ、ウィリアムと取引のあった銀行が経営破たん。融資が受けられなくなった会社は倒産し、一家は貧乏のどん底に突き落とされました。
14歳のフォールズは学校を中退し、家計を支えるため給仕として働き始めます。しかし、勉学への情熱を捨てきれなかった彼は、働きながら私立の夜学に通って勉強に励みました。
フォールズが20歳になった1863年、何とか一家は経済的に立ち直り、彼は400年以上の歴史を持つ名門グラスゴー大学の教養学部に入学しました。卒業後はアンダーソンズ・カレッジ(現在のストラスクライド大学)で医学を学び、医師免許を取得します。医師となった彼は、ロンドンのセント・トーマス病院にインターンとして入所し、外科手術を学ぶことになりました。
そこでフォールズの上司となったのが、王立診療所の新任外科部長ジョゼフ・リスターです。彼は「殺菌法」を外科治療に初めて導入した極めて進歩的な医師でした。
信仰心と科学の間での葛藤
当時、1冊の本が注目を集めていました。1859年にチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を発表。進化論が科学者やキリスト教信者の間で大論争を巻き起こしていたのです。
フォールズはこの頃、自らの信仰心と科学との対立に葛藤を抱えることになります。科学の理論を学ぶにつれて、父に教わった通りに聖書を信じたままでいることは難しくなりました。彼は後に自身が創刊した雑誌に、このように記述しています。
「真理をめぐる従来の考え方を変えることなく、現代科学を学べる者などどこにも存在しない」
引用元:コリン・ビーヴァン著 茂木健訳『指紋を発見した男 ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け』(2005年、主婦の友社、p96)
1871年、28歳のフォールズは長老派スコットランド教会の医療宣教師として、インドのダージリンに渡りました。信仰と科学という矛盾する思想を抱えながら、彼は現地の貧民たちを熱心に治療しつつ、進化論などの最新科学も含めた西洋思想を伝える啓蒙活動を行います。しかしその行為は、長老派スコットランド教会の聖職者たちからキリスト教の布教にふさわしくないと非難されました。それに反発したフォールズは、長老派スコットランド教会を辞めて祖国スコットランドへ帰ってしまいます。
フォールズは長老派スコットランド教会の科学を認めない姿勢には反発しましたが、海外での伝道活動に対する情熱は失っていませんでした。30歳を迎えた彼は再び宣教師として活動すべく、長老派スコットランド教会とは別の教派である合同長老教会に対し、「海外での伝道活動の志願書」を提出します。申し出は受諾され、フォールズは最初のスコットランド系医療伝道団として、日本に派遣されることになりました。
健康社築地病院を開き、盲学校を設立
1874年、31歳の年に来日したフォールズは、外国人居留地とされていた築地で安い物件を購入し、早速診療所を開きます。患者の治療を行いつつ、日本人学生に医学を伝授する忙しい日々が始まりました。
そんな1875年5月、診療所にカエルが大量発生します。不衛生な診療所での治療に嫌気がさしたフォールズは、より病院に適した建物を購入することにしました。それは健康社築地病院と名付けられ、フォールズが帰国するまでの10年間、彼の勤務地であり続けました。
築地に職場を移してから、フォールズはより熱心に働きました。リスターから教わった殺菌消毒法を日本人外科医に教え、狂犬病やコレラが流行し始めたときには、大勢の患者を治療して伝染病の流行を未然に食い止めました。
この時期のフォールズの功績として名高いのが、近代視覚障害者教育を実践した先駆的存在である楽善会訓盲院(現在の筑波大学附属視覚特別支援学校(付属盲学校))を設立したことです。眼科治療を行う中で彼は、日本には目に障害を負った人が多いことに気づき、ボルシャルト、中村正直、津田仙、岸田吟香、古川正雄らクリスチャン仲間と、視覚障害者の教育を推進する楽善会を結成しました。
楽善会は、視覚障害者に読むことを教えるための凸字版書物『ヘボン訳ヨハネによる福音書第九章』を日本で初めて制作。1882年には発話障害者も教育の対象に加え、日本の視覚・発話障害者の教育を牽引しました。また、その年にはフォールズの病院で治療を受ける患者の数が年間で1万5,000人に達していました。
フォールズ帰国後の1901年、健康社築地病院の建物はアメリカの宣教医師ルドルフ・トイスラーに買い取られます。そこで開いた病院を、トイスラーは聖路加病院と名付けました。それは後に聖路加国際病院と改名され、現在も東京都築地に存在しています。
モースとの出会いと指紋の発見
フォールズは来日後も信仰と科学の折り合いのつけ方を考え続け、「生物の進化は神が自身の存在を示すための道具である」という結論を出しつつありました。
ちょうど同じころ、大森貝塚の発見で有名なアメリカ人動物学者エドワード・モースが日本で進化論についての講義を開始します。その姿勢は神の存在に疑問を呈するもので、教会関係者の怒りを買いました。
モースを正面から論破するため、教会は論者としてフォールズに白羽の矢を立てます。1878年、「進化論は神を否定する」と主張するモースと「進化論は神の道具である」と主張するフォールズの公開討論が開催されました。見物に集まった日本人は数千人に及んだといいます。
討論は決着こそつきませんでしたが、意外な結果を生みました。何度か意見をぶつけ合ううちに、フォールズとモースは友人同士となったのです。もともと科学への関心が強い両者には、打ち解ける要素が十分にありました。モースとの交流の中で土器の面白さに魅せられたフォールズは足しげく大森貝塚に通い、彫り出された土器の調査に熱中する日々を送ります。
同年某日、フォールズは土器の破片を観察していました。その中でふと目に留まったのが、土器の表面にしるされた平行線です。それを見たとき、ある記憶がフォールズの中でよみがえりました。
その記憶は、健康社築地病院で、触感についての講義を行う際に眺めた指先の映像。フォールズには、その指先に刻まれていた溝が、この2000年前の土器の破片にしるされている痕跡と一致するように思えました。
このアイディアを検証すべく、フォールズは東京の市場を回り、売られている焼き物の表面を観察します。すると、いたるところで同じような溝の痕が見られました。
――この痕から、それを焼いた人物が特定できるのではないか。
フォールズはその考えを実証するため、家族や友人だけでなく、自宅に出入りする商人や職人まで巻き込んで、指紋の収集にのめり込んでいきました。
収集した指紋が数千に達したころ、フォールズの身の回りで小さなトラブルが起こります。病院のキャビネットに保存していた医療用アルコールが、何度補充を繰り返してもすぐになくなってしまうのでした。そして、いつも側に、グラス代わりに使われていた形跡のある計測用ビーカーが残されていたのです。「誰かがアルコールを飲んでいる」と気付いたフォールズが、計測用ビーカーに残った指紋を収集していた指紋カードの束と照合してみると、予想通り一致するセットが1つだけありました。それは、彼の生徒のものでした。
それからしばらくして、今度は病院の塀を誰かが乗り越え、窓からの侵入を試みるという事件が起こります。警察から疑われたのは、フォールズが可愛がっていた部下でした。フォールズは、部下の無実を晴らそうと試みます。手がかりは、病院の塀の上に残された指紋でした。それを指紋カードと照合したところ、疑われた部下のものと一致することはありませんでした。その点を説明することで、警察の疑いを晴らすことができたのです。
この2つの事件を通して、「指紋は、犯罪捜査に大きな効果を発揮する」という事実に気づいたフォールズ。それからの日々は、以下の2点の検証に費やされました。
1.指紋は各個人に固有のものであること
2.指紋が一生を通じて不変であること
「この2点の裏付けがない不完全な識別法では、冤罪が発生して無実の人間が苦しむことになるかもしれない」。そうフォールズは懸念していたのです。
その後の数年間、フォールズと彼の学生たちは「カミソリや各種の酸、紙やすりなどを用いて指紋を削り取る」「日本人・ヨーロッパ人の児童の指紋を2年間観察する」など徹底した実験を行いました。これらの実験により、薬品・摩擦・年月・人種のいずれも指紋の形に影響を与えないと証明しようとしたのです。さらに、数千セット以上の指紋を集め、それぞれがすべて異なることを確認しました。
フォールズが37歳になる1880年、とうとう実証データがそろいます。そこから得られた結論は、「指紋は各個人に固有かつ一生を通じて不変である」というものでした。
指紋の発見者は誰か?
指紋が犯罪捜査に応用可能であることを証明したフォールズは、さっそくそれを実用化するための活動を開始しました。
まず行ったのが、ダーウィンへの協力要請です。同年2月、フォールズはダーウィンに宛てて一通の手紙を送りました。その内容は、より多くの指紋のサンプルを世界から収集するための口添えを要請するものでした。しかし、要請への返事は「ノー」。ダーウィンは、研究に参加するには歳を取りすぎていたのです。ただし、手紙にはお詫びとともに、従兄弟であり著名な科学者であるフランシス・ゴールトンにこのことを伝えるという約束が記されていました。
さらにフォールズはその年の10月、科学雑誌『ネイチャー』に指紋に関する研究成果を投稿し、世界中の科学者に協力を呼びかけました。しかし、注目に値する反響は、インドのベンガル地方で行政長官をしていたウィリアム・ハーシェルが、1カ月後の同誌に発表した「過去2年間インドで指紋を公的な書類の証明に用いた」という報告だけでした。
フォールズはそれでもあきらめず、研究を続けながら、ニューヨーク、ロンドン、パリなど各主要都市の警察署長に直接手紙を送りました。しかし、彼に返事が届くことはほとんどありませんでした。
落胆するフォールズの前に更なる壁が立ちはだかります。
1888年、フランシス・ゴールトンとウィリアム・ハーシェルがある密約を交わしました。それは、二人が互いに「指紋の発見者である」と主張し合うというものでした。つまり、フォールズの功績を奪い取ろうと考えたのです。実際にはゴールトンはフォールズの手紙から、自身が専門とする優生学の研究に指紋が役立つのではという着想を得ただけであり、ハーシェルは指紋を署名の代わりとして用いていたにすぎませんでした。
ゴールトンは王立協会の週例会で指紋を用いた個人識別法について解説し、そのアイディアの発見者としてハーシェルを讃えました。ゴールトンはチャールズ・ダーウィンを従兄弟に持ち、銃器製造業で大成功した一族に生まれた権力者です。彼の意見は次第に広まり、ロンドンの警察にも徐々に受け入れられ始めました。
1892年、ゴールトンは自らの指紋研究をまとめた著書『指紋』を出版します。フォールズの功績には一切言及しないままに。
フォールズはその研究の価値自体は認めつつも、自分の功績が記述されていないことに怒り、『ネイチャー』の編集長に宛てて「指紋による累犯者の識別をめぐって」という標題の投書を送りました。自分もゴールトンやハーシェルと並ぶ認知を得てもいいはずだと主張したのです。二人を糾弾するその投書は、対決を申し込む決闘状となりました。
しかし、ゴールトンとハーシェルの準備は万全でした。ゴールトンは著作においても、また私信においても、ハーシェルが指紋の第一発見者であると主張し続けていました。さらに、ハーシェルは「フーグリー・レター」というベンガル州の刑務局長に宛てた手紙を証拠として持っていました。それは、指紋を署名代わりに使うことを主張するもので、犯罪捜査における指紋の利用法については全く触れられていませんでしたが、二人の巧妙な印象操作のために、確かな証拠として世間に受け入れられたのです。一方、フォールズは盗作を行う二人の人格までも非難したため、ますます信用を失ってしまうことになります。
1905年5月、塗料店の老夫婦が殺害された事件の判決において、指紋が初めて重大な事件における明確な証拠として認められました。それをきっかけに指紋システムは瞬く間にイギリスに定着することになります。しかし、指紋鑑定の発見者として讃えられたのは、ゴールトンとハーシェルだけでした。
フォールズはその後も指紋の研究を続けますが、指紋の取り扱いについてロンドン警視庁と対立したこともあり、1930年、87歳で死を迎えた後も、その功績が広く認められることはありませんでした。
死後、功績が認められたフォールズ
フォールズの死から57年がたった1987年、二人のアメリカ人指紋検査官がイングランド中部に位置するウルスタントンという町の教会共同墓地を訪れました。
彼らがそこにやってきたのは、自らの職業のルーツをたどるためです。共同墓地の片隅に指紋捜査の創始者ヘンリー・フォールズの墓がある。彼らはそう耳にして、ウルスタントンを訪ねたのでした。しかし、墓は共同墓地の片隅で荒れ果てて草に埋もれていました。
二人の指紋検査官は、自分たちの職業の生みの親のあまりにひどい扱いに愕然とします。そしてすぐさま、ポケットマネーでその墓を建て直すことを決心しました。墓の再建は実現され、その管理は全英指紋協会に委ねられることになりました。
「指紋による科学的個人識別に、先駆的な功績を残したヘンリー・フォールズを顕彰して」
コリン・ビーヴァン著 茂木健訳『指紋を発見した男 ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け』(2005年、主婦の友社、p267)
現在、フォールズの墓石にはそう刻まれ、ゴールトンやハーシェルに優る指紋の研究者として、彼の功績が認められています。そしてその功績は、現在の医療の世界にも大いに影響を及ぼしています。
病歴や病状などデリケートな個人情報を取り扱うため、機密保持が非常に重要となる医師の職場。特にカルテの取り扱いにおいては、完璧な漏えい対策が必要です。そこで、指紋の不変性と固有性が大きな効果を発揮します。電子カルテへのアクセス管理に指紋認証システムを用いれば、IDやパスワードが漏れる心配はありません。現在そのシステムは、さまざまな病院で採用されています。
フォールズが創始した指紋研究は死後も応用の幅を広げ、ついには彼の本業である医師の仕事にも貢献するようになったのです。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
・コリン・ビーヴァン(著) 茂木健(訳)『指紋を発見した男 ヘンリー・フォールズと犯罪科学捜査の夜明け』(2005年、主婦の友社)
・手代木俊一「明治期盲人教育における宣教、宣教師と音楽」
・東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present「Archive for the ‘築地居留地’ Category」
・NTTコム リサーチ「行きたい病院・満足した病院ランキング」
・聖路加国際病院「数字で見る聖路加国際病院」
・聖路加国際病院「創設と理念(理念・運営の基本方針)」
・綜合的な教育支援のひろば「北海道とスコットランド その10 スコットランド人の活躍は続く その3 ヘンリー・フォールズ」
・長尾史郎 高畑美代子「ヘンリー・フォールズ『ニッポン滞在の 9年間一一 日本の生活と仕来りの概観~ (序論・第 l章」
・丹野研究室「5.グラスゴウ(イギリス) 2005年6月3日更新(世界の大学と病院を歩く)」
・国立大学法人筑波大学付属資格特別支援学校(付属盲学校)「ヘンリー・フォールズ」
・国立大学法人筑波大学付属資格特別支援学校(付属盲学校)「筑波大学付属視覚特別支援学校(付属盲学校)の沿革」
・文部科学省「一 特殊教育の発展」
・日立ソリューションズ「指静脈認証システム 静紋」
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