第3回 “死にゆく病”糖尿病は治せるか? ~特効薬「インスリン」の発見
「その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする。」
アルフレッド・バルンハート・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞。その一分野である医学・生理学賞の受賞を振り返ると、人類と病の闘いの歴史であることがわかります。
いまでは当然と思われている医学の常識が成立するまでに、研究者たちは多くの困難を乗り越えてきました。その苦難の歴史、医学の発展の歴史を紹介します。
ところで、ノーベル賞受賞者には研究や私生活に苦労した人物が多いですが、その中で唯一「犬と研究室を提供」して受賞したといわれる人物がいるそうです。彼は糖尿病の特効薬「インスリン」の発見と深い関わりがあるそうなのですが……。第3回はその真相と糖尿病治療の変遷に迫ります。
1. 良きパートナーと思いきや……実は不仲だった2人の研究者
心臓や腎臓に影響を与え、恐ろしい合併症を引き起こす糖尿病。その存在は、「激しい喉の渇き」や「甘い尿」などの症状を呈する謎の病気としてはるか昔から確認されています。例えば、古代エジプトのパピルスやインドの伝統医学アーユルヴェーダにも糖尿病の記述がありました。しかし、なぜ喉が渇くのか? 尿が甘くなるのか? 近代までその理由は分からないままでした。
治療法が確立されるのは20世紀に入ってからのこと。膵臓からの分泌物に血糖値を下げる作用があると判明したのがきっかけです。カナダの町医者であり整形外科医だったフレデリック・バンティングはこれに注目し、当時糖尿病の権威だった医師ジェームズ・マクラウドの助けを借りて研究を開始。努力の末、1921年に膵臓からインスリンを抽出します。この研究を元に開発されたインスリン製剤は、世界中で多くの命を救いました。
インスリン発見は医学界からも高く評価され、バンティングとマクラウドの2人は1923年にノーベル賞を受賞します。研究発表から2年という異例の早さでの授与です。しかし、マクラウドとの共同受賞と聞いたバンティングは激怒し、賞を拒否。実は、2人の仲はかなり険悪だったと伝えられています。
その理由をバンティングに言わせれば「手柄を取られた」といったところでしょう。もともと研究はバンティング主導によるもので、マクラウドは彼に頼み込まれて研究室と実験用の犬、そして助手の医学生チャールズ・ベストを貸したに過ぎません。インスリンの発見もマクラウドが休暇中の出来事であり、マクラウド自身は現場に立ち会っていませんでした。そもそもマクラウドは、バンティングの研究に対して懐疑的であったといいます。
しかし、インスリンが発見されてからマクラウドの態度は一変。2人の研究成果を認め、インスリン生産のための研究チームを編成します。もともと糖尿病の研究していたマクラウドですから、インスリンの価値、そしてその発見の重大さは十二分に把握していたことでしょう。それに、整形外科医のバンティングと医学生のベストによる報告は荒削りな部分も多く、学会で発表するには不十分なものでした。
そこで研究者の中でも名の知れたマクラウドが指揮を執り、研究の体裁を整えました。彼らはさらに生化学者のバートラム・コリップを呼び、インスリンの臨床応用を試みます。4人の努力はついに実り、1922年にインスリン製剤が開発されました。そしてこの1年の間に、この研究は「マクラウドありき」の功績と評価されるようになりました。バンティングはそれが気に食わなかったのです。
1923年の共同受賞の際、激怒したバンティングは「マクラウドよりもベストが受賞にふさわしい」として賞金の半分を分け与えています。その2週間後、マクラウドも反撃するかのように、賞金の半分をコリップに渡したそうです。カナダ初のノーベル賞を獲得した2人ですが、終生和解することはありませんでした。ちなみにマクラウドは「犬と研究室を貸しただけでノーベル賞をもらった人物」と揶揄されることもありますが、実際には研究チームの司令塔として活躍し、インスリンの製剤方法を確立した功績があります。共同受賞は妥当なものであったといえるでしょう。
この4人の研究は、マイケル・ブリスによって『インスリンの発見』として小説化され、1988年には“Glory Enough for All”のタイトルで映画にもなっています。
2. 物からヒト由来へ、インスリン激動の時代
ただし、このインスリンにはひとつ問題がありました。当時精製されたウシ・ブタ由来のインスリンは抽出量が少なく、大量生産が難しかったのです。一説によると、患者ひとりに1年間治療を行うには、ブタ70頭分の膵臓が必要だったといわれています。それに比べ、当時の糖尿病患者は100万人以上。いかに効率よく生産するかが課題となりました。
研究者たちは考えます。「動物から抽出することなく、人工的にインスリンを作り出せないものか?」そこで生まれたのが、化学合成によるヒトインスリンです。これは遺伝子工学を応用して作られるので大量生産が可能で、アレルギー反応が少ない点も大きなメリットでした。市場には1980年頃から出回り、より高い効果を求めて幾度も改良が重ねられました。今ではお馴染みとなったペン型注射器や超速効型インスリン(インスリンアナログ製剤)が生まれたのも、ここ30年での出来事です。
動物性インスリンからヒトインスリンへ、そして超速効型インスリンへ……。この激動の歴史を辿ると、インスリンの発見は糖尿病治療の終着点ではなく、むしろ「出発点」であったといえるでしょう。
3. 糖尿病治療は新たな時代へ
「より高い効果の薬を、より手軽に」と進化してきたインスリン。糖尿病治療の主な手法として、揺るぎない地位を築いてきました。 現在インスリンの主な生産国は米国や欧州、中国など。日本は海外からの輸入に頼っており、万一それがストップすれば100万人以上の命が危険にさらされるというのが現状です。 インスリンの適切な使用はもちろんですが、そもそも糖尿病にならないように指導していくことも大切でしょう。
また、21世紀では新たな糖尿病治療が模索されています。
例えば、糖尿病患者にとって自己注射やその管理は大変なもの。その負担を少しでも和らげようと、握りやすく押しやすい注入器や、痛みの少ない注射針が発明されました。注射の煩わしさそのものをなくすため、インスリン経口剤の開発も進められています。
一方、欧米では血糖値から自動的にインスリンを分泌する人口膵臓の研究が行われています。日本ではあまり定着していませんが、膵臓移植は欧米における1型糖尿病の治療方法のひとつ。人口膵臓はドナー不足を解消するだけでなく、妊婦や2型糖尿病にも応用できるのではないかと期待が高まっている研究です。
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かつては裕福で肥満気味の患者が多かったことから「ぜいたく病」と呼ばれた糖尿病。日本では食生活の変化などを理由に、ここ数十年で2型糖尿病患者の数が急増しています。 糖尿病治療がバンティングの時代から進歩したとはいえ、その苦しさに変わりはありません。糖尿病は病気になってからでは遅いもの。“自分の体は自分で守る”予防医療の概念が世の中にもっと浸透することが望まれます。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
■ 第1章
インスリン事始め(2) インスリンの発見・歴史(『All About 健康・医療』河合 勝幸)
(http://allabout.co.jp/gm/gc/300351/)
「【徹底研究】糖尿病の医学史と最新情報」河崎貴一
(http://www.yakult.co.jp/healthist/213/img/pdf/p20_23.pdf)
「糖尿病とカッパドキア」槇野 博史
(http://jsedo.jp/news/nl10-2.html)
インシュリンの発見(カナダ人物列伝)
(http://bluejays.web.fc2.com/banting.htm)
インスリンを巡って part1 バンティング(1891~1941) vs. マクラウド(1876~1935)(国立研究開発法人産業技術総合研究所 阿部浩司)
(https://staff.aist.go.jp/koji-abe/Scist/Insulin/Insulin1.htm)
■第2章
糖尿病の治療薬-第6回 インスリン療法-その1(メディ・マグ 糖尿病)
(http://dm.medimag.jp/column/28_1.html)
クスリを育むもの―インスリン製剤の変遷(大阪市立科学館『月刊うちゅう』2014年4月号 Vol.31)
(http://www.sci-museum.jp/files/pdf/study/universe/2014/04/201404_06-11.pdf)
木村 丹「抗菌薬開発の黎明」(2006年12月)
「インスリン製剤の変遷をたどる」(発行:株式会社メディカル・ジャーナル社 監修・執筆:粟田卓也)
(http://www.saitama-med.ac.jp/uinfo/mnaika4/pdf/ditn01-11.pdf)
木村 丹「抗菌薬開発の黎明」(2006年12月)
『ノボケアCircle』2014年11月号(ノボノルディスク)
(http://www.club-dm.jp/content/dam/Club-Dm/AFFILIATE/www-club-dm-jp/Circle/Documents/novocareCircle_No.11.pdf)
■第3章
知って得ナシ!? 糖尿病トリビア(『All About 健康・医療』河合 勝幸)
(http://allabout.co.jp/gm/gc/300507/)
20~40歳に重症の糖尿病患者が増加中 背景に低学歴や不安定雇用に起因する貧困問題(『DIAMOND 男の健康』2013年6月6日)
(http://diamond.jp/articles/-/37003)
膵臓移植とは(東北大学病院 臓器移植医療部)
(http://www.ishoku.hosp.tohoku.ac.jp/pancreas.html)
37. 1型糖尿病 -膵臓移植と再生医療の現状と将来-(『糖尿病リソースガイド』2017年7月1日号)
(http://dm-rg.net/contents/guidance/037.html)
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