第4回 脳を蝕む狂気のタンパク質・プリオン
「その前年に人類のために最大の貢献をした人たちに、賞の形で分配されるものとする。」
アルフレッド・バルンハート・ノーベルの遺言によって創設されたノーベル賞。その一分野である医学・生理学賞の受賞を振り返ると、人類と病の闘いの歴史であることがわかります。
いまでは当然と思われている医学の常識が成立するまでに、研究者たちは多くの困難を乗り越えてきました。その苦難の歴史、医学の発展の歴史を紹介します。
今回の主役は「プリオン」。消毒薬や加熱処理でも感染力を失わない不死の病原菌として恐れられたタンパク質です。たった一人の医師の10年に渡る研究が、医学の常識を覆したドラマを紹介します。
致死率100%、狂牛病の恐怖
1990年代から2000年にかけて、世間を騒がせた「狂牛病」。これは、脳組織が死滅してスポンジのように穴だらけになり、運動機能が衰えて死に至る病気です。ウシの餌に使用された肉骨粉を感染源として、イギリスを中心に世界各国へ広まりました。
実は、狂牛病とよく似た症状を持つ感染病は昔から知られています。
ヒツジ特有の病気「スクレイピー」や100万人に1人の割で発症する奇病「クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)」、そしてパプアニューギニアのフォア族のみが発症する「クールー病」です。これらはいずれも狂牛病と同様の症状を呈し、感染後1~2年の間に100%の確率で死に至るという恐ろしい病気です。
このうち、クールー病について研究しノーベル生理学・医学賞を受賞した人物がいます。彼の名はダニエル・カールトン・ガジュセックといい、アメリカの医学研究者でした。
ガジュセックは現地でフィールドワークを行いながら病気について研究し、「死者の脳を食べる」というフォア族特有の儀式とクールー病の関連を発見します。しかし、その病原体まで特定することは出来ませんでした。
病原体は未知のウイルス?
それから数年後、アメリカの大学病院で一人の患者がCJDによって命を落としました。その様子を目の当たりにしたのが、神経科で研修医をしていたスタンリー・ベン・プルシナー。彼こそ、のちにクールー病の原因を突き止めてノーベル賞を受けることになる人物ですが、当時はまだ30歳。若き研修医の瞳に、人の死はどう映ったのでしょう。
患者を救えなかった後悔からか、あるいは奇病の謎を解き明かそうという探究心からか、彼はこの出来事をきっかけにCJDの研究に取り組みます。その過程でいくつかの奇妙な点に気付くのです。
一つは、CJDを発症した生体から炎症反応や免疫反応が全く見られないこと。通常、細菌などの外敵を取り込んだ場合は防衛反応が起こるはずです。けれども、患者にそれらの症状は確認されず、病原体は何らかの方法で防御機構をすり抜けていると考えられました。
もう一つは、一般的な殺菌方法がCJD病原体には無効であること。例えばウイルスは加熱で殺菌できますが、CJD病原体は加熱処理しても感染力が変わりません。消毒薬や消化酵素を用いても、結果は同様でした。
あらゆる殺菌処理が無効な不死の病原体……そんなものが本当にこの世に存在するのだろうか? 世界中の科学者たちは頭を抱えてしまったのです。
“セントラル・ドグマ”を覆す大発見
ただ、プルシナーだけは諦めませんでした。何を隠そう彼はとびっきりの野心家であり、ノーベル賞を獲得する機会を虎視眈々と狙っていたのです。
「こうなったら、何としても成果を出して賞を取ってやる!」
逆境に立たされ俄然燃えてきた彼は、その後も研究を継続。10年もの歳月を経て、ついに病原体となるタンパク質の分離に成功します。しかも、そのタンパク質は遺伝子を持たずに自己増殖を繰り返し、脳を蝕むことが分かったのです。
1982年、そのタンパク質は「プリオン」として発表されました。ちなみにプリオンはタンパク質(Protein)と感染(infection)を組み合わせた、プルシナーによる造語です。
当時の医学には「セントラル・ドグマ」という原則があり、病原体はすべて遺伝子を持つというのが定説でした。そのため、タンパク質が自己増殖するというプリオン説に学会は猛反対。プルシナーを異端者扱いし、激しい批判を浴びせます。
しかし、常識は時代とともに変化していくもの。彼が根気強く主張を続けるうちに、肯定的な研究も続々と報告され、プリオン説は正しい理論として定着しました。1997年にはプルシナーにノーベル生理学・医学賞が与えられています。
未知の病原体・プリオンは人間の体の中にも……
遺伝子を持たないタンパク質が増殖し感染するという、新しい発病のメカニズムを発見したプルシナー。その研究には、予想外の展開が続きます。
実はプリオンの正体は、人間の体で作られるごく普通のタンパク質。そのうちDNAの折りたたみ構造に異変を生じたものが病原体になっていたのです。さらに、異常プリオンは自己増殖するのではなく、正常プリオンを異常型に変化させていたことも分かりました。
さらに、プリオンはCJDの他にスクレイピーや狂牛病、そしてあのクールー病の原因であることも判明したのです。しかし、その感染経路にはまだまだ疑問が残ります。
例えば、クールー病のように食事で異常プリオンを摂取した場合、なぜ胃腸で消化されないのか。脳の毛細血管に大きな分子は入れないはずなのに、なぜプリオンは侵入できるのか。そして正常プリオンは人間の全身に存在するのに、なぜ脳の組織だけが攻撃されるのか。そもそも、人間の体がプリオンを生産する理由も、その役割も分かっていないのです。
21世紀になった今でも、異常プリオンによる病気の治療法は確立されていません。最近ではアルツハイマー病やパーキンソン病との関連も指摘されており、これからの研究に注目が集まっています。
まとめ
プリオンは未だにその分からないところも多く、謎の多い存在です。とはいえ、タンパク質が病気をもたらすという発見は、医学に大きな革命をもたらしました。プルシナーの研究があってこそ、異常プリオンという未知の敵と戦う一歩を踏み出すことができたのです。
逆境にめげず粘り強く研究を続けたプルシナー。彼の10年を超える努力は、それまでの医学の常識を見事に覆しました。飽くなき挑戦と成功の物語は、いまも多くの研究者の心の支えとなるのではないでしょうか。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
エピソードで知るノーベル賞の世界「『プルジナー,S.B.(1942~)』(アメリカの生化学者)」
(http://nobel.arayax.com/01/26.html)
日本学術会議 おもしろ情報館 『“ノーベル賞”世紀の旅~過去から未来へ向かって~』「病気はどこまで直せるの??~病気の原因を探る.診断する.治す」ページ内「プルジナー先生とプリオン」
(http://www.scj.go.jp/omoshiro/nobel/tanaka/prusiner.html)
内閣府・食品安全委員会 「スタンリー・B・プルシナー教授プロフィール」
(https://www.fsc.go.jp/koukan/risk161207/161207_profile.pdf)
吉川泰弘「イベルメクチン」
(http://www.ayyoshi.com/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3/)
吉川泰弘「animalcrisismanagement」
(http://www.ayyoshi.com/animal-crisis-management/)
有機化学美術館(佐藤健太郎)「タンパク質の話(6)・プリオン~発狂するタンパク質~」
(http://www.org-chem.org/yuuki/protein/prion.html)
Human Frontier Science Program「プリオンによる疾患」
日経サイエンス「プルシナーがノーベル賞をとった!」
(http://www.nikkei-science.com/?p=21969)
理科好き子供の広場(坂田明治)「28.狂牛病は人に移るか?」
(http://www.rikasuki.jp/memorial/aimai/kurashi/fl028.htm)
Neurology 興味を持った「神経内科」論文(下畑享良)「プリオン説はほんとうか?」
(http://blog.goo.ne.jp/pkcdelta/e/e622db7f3926471a96b09899aef4ceee)
【関連記事】
・
「ノーベル賞で辿る医学の歴史|第3回 “死にゆく病”糖尿病は治せるか? ~特効薬『インスリン』の発見」
・「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち|第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医 公許女医の誕生[江戸~明治初頭編]」
・<PR>製薬企業の医師求人特集
コメントを投稿する