第2回 世界で初めて“医師”と呼ばれた女性 エリザベス・ブラックウェル
しかし、かつての日本には、男尊女卑の慣習から女性が医師になることすら許されなかった時代がありました。この事実は、国外に目を向けても同じことがいえます。
女性に対してのみ閉ざされていた医学教育の扉。それをこじ開けるように、時代の流れに逆らうことで医師となった女性たちが、世界各地に存在していたのです。
日本の女医を紹介するシリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」を承継し、舞台を世界に再設定した本企画。第2回の主人公は、世界初の女医であり、英米の女性医師育成に力を注いだ「エリザベス・ブラックウェル」です。
エリザベス・ブラックウェル 世界で初めて医師と認められた女性
ニューヨークへの移住と、父の死
1821年、イギリスのブリストルという港町の、製糖工場を営む家の3女として誕生したエリザベス・ブラックウェル。ブラックウェル家は男女差別や奴隷制度に反対する熱心なクエーカー教徒でした。こうした家庭環境は、後の彼女の生き方に大きな影響を与えることになります。
彼女がまだ幼かった頃のブラックウェル家は裕福でしたが、父サミュエルの事業は徐々に傾き始めました。そして1832年、エリザベスが11歳のとき、一家はアメリカ・ニューヨークへの移住を決意します。
しかし、渡米しても父の事業はうまくいきませんでした。ニューヨーク州からニュージャージー州、ニュージャージー州からオハイオ州へと移住を繰り返しますが、1838年、ついに父が倒れ、帰らぬ人となってしまいます。
悲しみに暮れるエリザベスでしたが、生きるためにはお金を稼がなければなりません。母と姉妹と設立した小さな学校で、さらにはケンタッキー州ヘンダーソンの学校で、彼女は教師として働き、家計を助けました。
医師になることを決意した瞬間
エリザベスが医師を志すようになったのは24歳のときでした。きっかけは、彼女が見舞った、子宮がんに冒された女性の言葉だったといいます。
「女性のお医者さんがいたら、恥ずかしい思いをしなくて済んだかもしれない」
当時は男性優位が当然の社会。女性医師が存在し得ない時代でした。
女医がいれば、この女性はもっといろいろな痛みを訴えることができたかもしれない。エリザベスはこのとき、女性医師の必要性を強く認識し、自らが医師になることを決意したのでした。
医学生として認められた女性
1847年、26歳になったエリザベスは、医学の都であるペンシルベニア州フィラデルフィアに移り住みます。その地で化学や解剖学を学びながら、女性である自分を受け入れてくれそうな医学校を探し、手当たり次第に手紙を送りました。
ところが、エリザベスの入学はことごとく拒否されてしまいます。その理由は、女性だから。現代では考えられない出来事ですが、当時は男性優位社会です。女性が人の命を扱う医師になるなど、ほとんど夢物語でした。
エリザベスが手紙を送ったのはぜんぶで12校でしたが、そのうち彼女を拒んだ学校は11校。ただ1校、ニューヨーク州のジェネヴァ医学校だけが彼女を受け入れたのです。
エリザベスの入学申請書類を受け取った同校はすぐに学生集会を開き、在学生に入学可否の判断を託したといいます。結果は、満場一致の受け入れ許可。エリザベスは、女性として、医学生になることを認められたのです。
差別に耐え抜いた学生時代
ジェネヴァ医学校からエリザベスに届いた手紙には、「この学校に入学したことを後悔させない」という宣誓が記載されていたといいます。
晴れて医師への第一歩を踏み出せることになった彼女でしたが、届いた手紙の内容とは裏腹に、入学後には男女差別の壁が立ちはだかりました。
外科手術授業を担当する教師からは受講を拒絶され、男子学生からは授業中に丸めた紙を投げ付けられる嫌がらせを受けたエリザベス。彼女はこのときの辛さを日記に書き残しています。気丈に振る舞いながらも、その心は疲弊していたのです。
それでも、彼女はめげませんでした。医師になるために日夜勉強に勤しんだ彼女の成績は非常に優秀で、担任だったウェブスター博士の理解と擁護もあり、徐々に周囲の男子学生に受け入れられ、ついには同志と認められるようになったのです。
世界初の女医、誕生
2年生の夏休み、エリザベスはフィラデルフィアのブロックリー救貧院でレジデント見習いとして働きました。ちょうど発疹チフスが流行していた時期で、研修先の救貧院にも多くの患者が運び込まれたといいます。
チフスに対する有効な治療法が確立されていなかった当時、彼女は多くの人の死を見つめましたが、ただ黙って見ていたわけではありませんでした。
エリザベスはチフス患者の症状を仔細に記録し、院内の不衛生な環境との関係性を論文にまとめました。そこには、まだ広く知られていなかった予防医学についても記述されており、院内外で大きな関心を得たのです。
そして1849年1月、エリザベスはジェネヴァ医学校を首席で卒業します。医学学位を取得し、28歳にして、ついに世界で初めて医師登録された女性となったのでした。
途切れた、外科医への道
医学校を卒業したその年、エリザベスは、当時最新医学を学べる都市だったフランスのパリに渡りました。かつて抱いていた「医師になりたい」という夢が、「外科医になりたい」という具体的な目標に変わっていたからです。
しかし、彼女がやっとの思いで手に入れた医師免許は、パリでは紙切れも同然でした。その頃のフランスはアメリカよりも女性蔑視が強い国だったのです。エリザベスを受け入れてくれたのはラ・マテルニテ産科病院だけでした。そこで任されたのは助産師見習いとしての仕事。
そんな状況でも、エリザベスは諦めずに働きました。その忍耐力が認められてか、優秀さが評価されてか、彼女は同院のイポルト・ブローという若い医師から指導を受けられることになりました。ワクチンの接種を任されたり、手術を見学させてもらえたりと、一歩ずつ、夢に向かって歩み始めたのです。
やっと足を踏み入れた外科医へ続く道。ところが、医師免許を取得したその年、彼女の夢は不意に絶たれます。
眼炎にかかった乳児の目を洗浄しているときのこと。赤ん坊の目に溜まった飛沫が、エリザベスの片方の眼球に触れたのです。その乳児が患っていたのは、感染力の高い眼病でした。
メスを握る外科医にとって、自らの目は、たとえ片目であっても、どんな医療器具よりも大切な道具です。このときエリザベスが襲われたであろう失意の大きさは計り知れません。彼女の片目が光を認識することは、二度となかったのですから。
友との出会い
1850年、29歳になったエリザベスはロンドンにいました。聖バーソロミュー病院からインターンとして召集されたのです。アメリカやフランスとは違い、母国の人々は世界初の女医を快く迎えました。
この頃、エリザベスに新しい友人ができます。フローレンス・ナイチンゲール――後に「クリミアの天使」と呼ばれ、近代看護の母として名を馳せる女性です。
2人は仕事や人生について、よく語り合ったといいます。同じ女性として医療に従事するフローレンスとの出会いが、外科医の道を閉ざされ消沈していたエリザベスの心に、再び大きな火を灯したのかもしれません。
「医師を育てる」という新たな夢
1851年、エリザベスはニューヨークに戻り、小さな診療所を開きました。しかし、患者はほぼ来ないまま閉鎖。実は個人で開業する前、大きな診療所の婦人科での勤務を希望しましたが、それも受け入れてもらえませんでした。アメリカでは、まだまだ女性医師の存在が認められていなかったのです。
ただ、エリザベスはいくつもの障壁を乗り越えてきた忍耐力の持ち主です。「女性医師は絶対に必要だ」という思いを胸に、1854年、彼女は「貧しい女性と子どものためのニューヨーク診療所」を開設します。
その3年後には、妹のエミリーと教え子のマリー・ザクルゼウスカとともに、女性だけで運営する、女性医師が研修を行える「女性と子どものためのニューヨーク病院」を開院しました。初年の患者数は300人、翌年にはその倍にまで増えたそうです。
女性の医師を認めてもらうには、女性の医師に診てもらった患者の数を増やさなければならない。そのためには、女性医師を増やさなくては――。
エリザベスの頭には、「女性医師を育てる学校をつくる」という明確な目標が浮かんでいました。
1859年にはイギリスの医師登記簿に名前が記載されたエリザベス。その年、ロンドンのクリントンホールで「女性にとっての専門職としての医師」という講演を実施し、女性医師の社会的有用性や養成機関の必要性を力強く説きました。
国に認められた女性医療者たちの活躍
エリザベスの女医養成学校設立の夢は、しかし、一時中断されることになります。1861年、40歳になったその年、南北戦争が勃発したのです。目の前に広がる破壊と暴動。エリザベスの病院も多くの負傷者を受け入れました。彼女は南北の垣根なく、傷ついた人々を平等に扱ったといいます。
さらに彼女は「女性救援中央協会」を組織しました。約90人の看護師を選抜・養成して戦地へ送り出し、野営施設の衛生面の改善に注力することで多くの兵士の命を救ったのです。
看護師を選抜する取り組みは、友人であるナイチンゲールがクリミア戦争下で組織した「ナイチンゲール看護団」の影響を受けたものと思われます。
戦争中にエリザベスと女性たちが残した功績は大きく評価され、1864年には時の大統領、エイブラハム・リンカーンとの謁見を果たし、1865年にはアメリカ政府が看護師の養成を本格的に開始しました。
ついに実現した、女性医師養成学校の設立
1865年、南北戦争が集結したその頃、エリザベスのもとにある通知が届きます。それはニューヨーク州からの、医学校設立を許可する知らせでした。
1868年、エリザベスはついに「ニューヨーク病院付属女子医学校」の設立を実現したのです。このとき、47歳。
彼女はその学校で、アメリカ医学史上に前例のなかった予防医学の講座を開講し、自ら教鞭をとりました。
また、当時の医学校は2年制が一般的でしたが、同校では3年制を採用。さらに、インターン生を積極的に送り出して技術を磨かせるなど、医学教育を充足させました。
その後、学校は数多くの女性医師を輩出。かつて疎まれていた女性医師の社会的な立場は、瞬く間に向上していきました。
女性医師になる夢と、女性医師を育てる夢を叶えたエリザベス。
しかし、「もう思い残すことはない」と、彼女は考えませんでした。
祖国イギリスにも女性医師を育てる学校を
1869年、48歳のとき、エリザベスは祖国イギリスに渡ります。理由は、イギリスにも女医学校をつくるため。
昔の自分のように「医師になりたい」という夢を抱いた女性たちは大勢いる。アメリカの学校だけではきっと足りない。エリザベスはそんなふうに考えたのです。
この頃胆石を患っていたエリザベスは、疝痛(せんつう)に苦しむ日々を送っていました。それでも、何度も講演を行い、学校を建てるための資金を集めたといいます。
そして1874年、女性に対する医業の解放を訴え続けたソフィア・ジェックス=ブレーク、イギリスで2番目の女性医療者として登録されたエリザベス・ギャレット=アンダーソン、医師になった妹のエミリーとともに、エリザベスは「ロンドン女子医学校」を設立しました。
同校の婦人科学教授に任命された彼女は、週に1回、衛生学の講義を受け持ち、祖国イギリスの女性医師養成に力を注いだのでした。
穏やかな晩年
晩年のエリザベスは、養女のキティ・バリーとともに、ロンドンの郊外にあるヘイスティングズで過ごしました。
本を執筆したり、少しだけ診療をしたり――。それまでとは異なる穏やかな暮らしのなかで、エリザベスは、医師を志す女性のために奮闘した自らの人生を振り返っていたのかもしれません。
1895年には、自伝『医学界の女性進出の道を切り拓いた先駆的な取り組み』を世に出しています。
1910年、エリザベスは89歳で永遠の眠りにつきました。
日米で共通する、女医の先駆者たちが経験した苦難
どうして女性は医師になれないのか――女性の医師を必要としている人はたくさんいるはずなのに。エリザベス・ブラックウェルが女性医師を志したきっかけは、女性患者が男性医師に対して感じる羞恥でした。これは、日本初の女医となった荻野吟子が医師を目指した理由とよく似ています。
エリザベスが女子医学校を設立するために奔走した姿も、女医を育てる道を閉ざすまいと奮闘した日本の女医、吉岡彌生の姿とそっくりです。
文化も時代も異なりますが、医師を目指す女性を取り巻いていた日米の環境は、男尊女卑という同じ問題を抱えていたことがわかります。
今や女性医師の存在が一般的になっている日本とアメリカですが、ここに至るまでには、先駆者たちが乗り越えてきた多くの苦難の物語があったということを、忘れたくないものです。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
「医療の歴史を彩った女性 第2回 エリザベス・ブラックウェル」(Sincere No.2、2014)
(http://www.twmu.ac.jp/journal/sincere02.pdf)
“先駆者となるのは容易でないが、とてもワクワクする”―エリザベス・ブラックウェル(アメリカン・ビュー、2015)
(http://amview.japan.usembassy.gov/women-changing-face-of-medicine-j/)
厚生労働省「女性医師の年次推移」
(http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-10801000-Iseikyoku-Soumuka/0000069214.pdf)
渡邊洋子、柴原真知子「イギリスにおける女性医療専門職の誕生と養成・支援活動 -パイオニア女性のキャリア確立プロセスに関する成人教育的考察から-」(京都大学大学院教育学研究科紀要 第59号、2013)
(http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173254/1/eda59_099.pdf)
厚生労働省「平成26年(2014) 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」
(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/14/dl/gaikyo.pdf)
『学習漫画 世界の伝記NEXT エリザベス・ブラックウェル』(集英社、2011)
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コメント一覧(2件)
2. 後藤けい さん
励まされました!1. 後藤けい さん
ありがとうございました!!