肥沼信次の生涯 ~ドイツで語り継がれる日本人医師~

Photo by Takashi Hososhima – Sakura sky(2011) / Adapted.

今から80年ほど前、肥沼信次(こえぬま・のぶつぐ)という1人の日本人医師が研究のためにドイツへ旅立ちました。

現在、ドイツ郊外の都市リーツェンの市庁舎前には彼をたたえる記念銘板が飾られ、同市で開催される「肥沼記念杯三国柔道大会」には毎年200人余りの青少年が参加しています。

日本人である彼が異国の地で尊敬を集めているのは、なぜなのでしょうか。
彼の生涯を紹介しつつ、その理由を紐解いていきます。

 

「数学の鬼」と呼ばれた青年

1908年10月9日、東京都八王子市で医院を営む肥沼梅三郎医師の家に、男の子が誕生しました。信次と名付けられたその子は、医院の後継ぎとして厳しく育てられることになります。肥沼家には信次の後に弟が2人、妹が1人生まれましたが、家にいるときは勉強ばかりで、兄弟と遊ぶことはほとんどありませんでした。
信次は医師を目指し、尋常高等小学校(現・八王子市立第三小学校)から東京府立第二中学校(現・都立立川高等学校)に進学。1年の浪人を経て1929年4月に日本医科大学に入学し、1934年3月19日に卒業しました。

信次の性格は、大学生時代のニックネームに象徴されます。
それは、「数学の鬼」。誰よりも数学に熱中する様子からそう呼ばれるようになりました。いつもドイツ語で書かれた高等数学の原書を読み、数学の先生からも質問を受けるほど数学が得意だった信次。
しかし、実は最初から数学が得意だったわけではありません。むしろ、小学校時代には家庭教師をつけられるほど苦手だったのです。そこから努力を重ねて数学に取り組み、中学に入ってその面白さに開眼。その頃に来日した物理学者、アルバート・アインシュタインの存在も、信次の数学熱を一層高めたようです。彼はドイツ出身のアインシュタイン博士やポーランド出身のキュリー夫人に憧れ、「いつかドイツで研究をしたい」と口にするようになりました。当時のドイツは、世界に名だたる医学先進国。ドイツに留学して最先端の医学を学び、広く人類の役に立つ医学研究者になりたいという思いが、信次の中に芽生えていました。

大学受験を迎えた信次は、数学に熱中するあまりほかの科目がおろそかになり、志望校に落ちてしまいます。しかし、浪人中の1年間も東京物理学校(現・東京理科大学)で数学を教えるアルバイトに就くなど、数学漬けの毎日を送りました。
一浪して19歳で日本医科大学に入学した彼は、卒業アルバムの趣味の欄に「数学」と書き記したそうです。

 

研究に燃える日々

1934年4月、信次は25歳で東京帝国大学(現・東京大学)放射線医学教室に入学します。彼が大学で研究テーマとして選んだのは、放射線の医学的利用について取り扱う放射線医学。数学的思考が重要な放射線医学は、まさに「数学の鬼」にふさわしい研究テーマでした。
大学ではひたむきに研究を行い、『腸捻転の数学物理学的考察』や『細胞発育と放射線照射の時間的因子について』など、3年間で3編の論文を発表しました。

そして1937年の春、信次は日本政府の国費留学生として憧れのドイツに渡ることになります。中学時代から抱いていた「ドイツで研究をしたい」という思いが、28歳になってようやく実を結びました。
旅立ちの日には、母や弟、研究室の仲間たちが見送りに来たそうです。それが、彼らとの今生の別れとなりました。

ドイツに渡航した信次は、高名な感染症研究所であるコッホ研究所に入所。その後、1937年7月19日にベルリン大学(現・フンボルト大学)放射線医学研究所に客員研究員として加わりました。アインシュタインが教授を務めていたベルリン大学は、信次にとって憧れの研究場所でした。
信次はひたむきに研究に取り組み、『生物学的的中理論および突然変異の発生』『生物学的な放射線の影響の論理について』『細胞核ないし遺伝子の倍化および核ないし染色体の遺伝子の総数について』などの論文を発表します。
1939年7月にはそれらの功績が認められ、ドイツと諸外国の研究者による協働サポートを目的とする、アレクサンダー・フォン・フンボルト(AVH)財団の研究奨学生に選ばれました。
信次の死後、その業績はAVH財団によって「肥沼信次」特集号としてまとめられることになります。1993年当時で約16,000人を数えた歴代研究奨学生の中で、こうした扱いを受けたのは信次ただ1人でした。

研究奨学生に選ばれた後も信次は精力的に研究を続け、1944年、35歳でベルリン大学の教授に推薦されました。それは、東洋人として初めて手に入れる名誉でした。
そのときの信次は喜びのさなかにいたはずです。しかし、戦争の猛威が彼のすぐ近くまで訪れていました。

 

ナチスに屈しない勇敢さ

信次が渡航した1937年、すでにドイツの首相は独裁者として知られるアドルフ・ヒトラーでした。1939年9月1日、ヒトラー率いるナチス独裁政権がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発します。言論統制やユダヤ人の迫害が始まり、大学の教職志願者はナチスへの忠誠を誓う宣誓書をドイツ政府に提出するよう強いられました。

その宣誓書について、信次の勇敢な人柄を示すエピソードがあります。
彼は宣誓書に「私は純粋な日本人であり、日本国籍を有することをここに誓います」と書きました。当時のナチスは、優越民族と主張するゲルマン民族以外を認めない純血主義。その状況で自分が純粋な日本人だと断言するには、たいへんな度胸が必要でした。

また、1944年8月20日にフンボルトハウスで行った講演では、後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹博士などの優秀な研究成果を持つ日本人について取り上げ、「日本民族の優秀性」を主張。これも、ゲルマン民族至上主義の当時のドイツにおいて非常に勇気のある発言でした。

信次がベルリン大学の教授に推薦された翌年の1945年3月、ドイツの戦況が悪化したため、日本大使館からベルリン在留の日本人に対して帰国指示が出されます。多くの日本人は帰国するため同年3月18日に大使館に集合しましたが、そこに信次の姿はありませんでした。

 

リーツェンへの移住と伝染病治療の開始

帰国を蹴った信次は、ベルリンの東北東43kmに位置する町、エーヴェルスヴァルデに向かいました。その移動には、ドイツ軍人の夫を亡くした戦災未亡人のシュナイダー夫人と、その娘が同行していました。
彼が帰国を断ってエーヴェルスヴァルデに向かった理由や夫人との関係は、はっきりとはわかっていません。
「信次は、シュナイダー夫人とその娘をエーヴェルスヴァルデにいる姉妹のもとに送り届けるために帰国しなかったのではないか」
信次の家政婦、エンゲル・イムガルドがそう語る談話が残されているのみです。

エーヴェルスヴァルデで暮らし始めた信次に、ほどなくしてソ連軍地区司令部のシュバリング司令官から指令が届きます。その内容は、隣町のリーツェンに新設される「伝染病医療センター」の所長に信次を任命するというものでした。
リーツェンはドイツとポーランドの国境付近に位置する町。戦争の影響を大きく受け、水道施設や変電所などのあらゆるものが破壊されていました。不衛生な環境に陥ったリーツェンでは伝染病の発疹チフスが大流行していましたが、当時、ドイツ人医師の多くは徴兵されていました。そこで、日本人の信次に白羽の矢が立ったのです。
任命を受けた信次は、1945年8月にリーツェンに移り住み、治療の日々を開始しました。

リーツェンの市庁舎に新設された伝染病医療センターは、十分な設備が整っているとは到底いえない状況でした。医師は信次以外におらず、看護師は7人だけ。しかも、そのうち5人はセンターで働き始めてすぐに発疹チフスで亡くなってしまいます。そんな中で信次は衛生指導を行うなど、勇敢に治療を試みます。治療の合間には周辺の街やベルリンに出向き、薬をかき集めました。

 

勇敢かつ献身的な治療

信次が治療に向かう姿勢を象徴する2つのエピソードが残されています。

1つは、難民収容所での出来事です。
信次はある日、リーツェンから5kmほど離れた町にある難民収容所に往診を行いました。そこは、ポーランドを追放され、疲弊しきったドイツ人が集まる施設。不潔な部屋の中で、ぼろきれをまとった病人が横たわりうめき声を上げ続ける、地獄のような場所でした。
同行した看護師のヨハンナ・フィドラーは思わず立ちすくんでしまったといいます。しかし、信次は少しもひるまずに、最も症状のひどい患者から治療を始めました。その姿は「勇敢な戦士のようだった」と、後にヨハンナは語っています。

もう1つは、5歳の少女を治療したときの出来事です。
1945年9月末、5歳の少女、ギセラ・ヴォイツェクが伝染病医療センターに運ばれてきました。診断の結果、発疹チフスと判明。40度の熱が3日間も続き、すぐさま投薬治療が必要な状態でした。しかし、薬局が破壊されたリーツェンには薬がほとんどありません。
ギセラの命を救うため、信次はリーツェンから2日間かかるソ連軍の野戦病院へ薬を探しに行きました。そして、必死に頼み込んで譲ってもらった薬を持ち帰り、ギセラは奇跡的に回復したのです。薬に命を救われた彼女は、成長した後に薬剤師となりました。

このように、信次は勇敢かつ献身的に、リーツェンとその近郊に暮らす人々の治療に当たりました。
しかし、リーツェンに来てから4カ月が経った1946年1月、医師である信次の元にも、ついに病魔が襲い来ることになります。

 

桜をもう一度見たかった

1946年に入ると信次は体調を崩し、自宅に帰るなりソファやベッドに倒れ込むように寝ることが増えます。すでにこのとき発疹チフスは彼の身体を侵し始めていました。
信次は症状を自覚してからも努めて明るく振る舞い、患者の治療に取り組みましたが、その年の3月2日にはついに寝込んでしまいます。
寝込んでから5日経った3月7日は、家政婦エンゲルの誕生日でした。信次は「誕生日パーティをやれずにごめんね。16歳の誕生日おめでとう」とエンゲルにお詫びと祝福の言葉を贈ったといいます。

そして2日後の3月9日、信次は息を引き取りました。享年37歳5カ月。最後の言葉は、「桜をもう一度見たかった。みんなに桜を見せてあげたかった」でした。
故郷から遠く離れたドイツで気丈に戦い抜いた信次でしたが、心の中には日本や家族への、思慕の情があったのかもしれません。

 

「コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」

信次の死から43年後の1989年、朝日新聞の「尋ね人欄」に、1つの記事が載せられました。

「日本人医師・故コエヌマノブツグをご存知の方はいないか」

リーツェン近郊の郷土博物館館長であるラインハルト・シュモーク博士は、リーツェンの人々を救ったコエヌマという医師の存在を知り、信次のことを調べていました。それを聞きつけたAVH財団の研究所長クルート・R・ビアマン博士が、ベルリン大学で同僚だった数学思想史家、村田全教授に新聞への投稿を依頼したのです。

記事を見た信次の弟、栄治氏は、村田教授に連絡を返しました。やっと、信次の消息が家族に伝わったのです。
これをきっかけに、栄治氏はリーツェンの人々と交流を開始。1994年7月に肥沼信次博士記念式典が開かれる運びとなりました。伝染病医療センターのあった市庁舎前には大理石の記念銘板が立てられ、栄治氏から100本の桜の苗木が贈られました。
信次が死の間際もう一度見たかったといった桜が、死から48年を経てリーツェンに根を下ろしたのです。そして、苗木が成長したら植え替えて町に並木道をつくり、「Dr.Koyenuma Beachpark(肥沼通り)」と名付けることが議会で決定されました。

 

善意の輪は現代につながる

2011年3月11日に起こった東日本大震災の後、信次とリーツェンの絆を表す出来事が起こりました。
リーツェンの市民や高校から、信次の行為や肥沼博士記念式典に対する寄付への恩返しとして、義援金7,000ユーロ(約76万円)が贈られたのです。
そのお金は信次の出身地である八王子の高校に託され、岩手県の釜石、陸前高田、大船渡の3市の中学校に寄贈されました。

夢を持ってドイツに渡航した信次。彼は戦争というやむを得ない事情により研究を断念し、そのまま異国の地で命を落とすことになりました。しかし、彼の治療に懸命に取り組む医師としての姿勢はリーツェンの人々の心に刻まれ、善意の輪として現代にもつながっています。

(文・エピロギ編集部)

<参考>
文・舘澤貢次 絵・加古里子「ドイツ人に敬愛された医師 肥沼信次」(瑞雲社、2003)
なかむらちゑ「ヴリーツェンに散る桜」(開発社、2014)
「ドイツが愛した日本人~佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語~」(ytv番組サイト、2017年2月5日)
「肥沼信次(リーツェンの桜)」(Cool-susan)
https://www.cool-susan.com/2015/07/24/%E8%82%A5%E6%B2%BC%E4%BF%A1%E6%AC%A1-%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A1%9C/
「学校概要」(八王子市立第三小学校)
http://hachioji-school.ed.jp/dai3e/
「沿革」(東京都立立川高等学校(全日制課程))
http://www.tachikawa-h.metro.tokyo.jp/zen/02003.html
「放射線医学総合研究所とは?」(放射線医学総合研究所(放射線医学研究開発部門))
http://www.nirs.qst.go.jp/about/outline.html
「ナチスの人種差別主義」(UNITED STATES HOLOCAUST MEMORIAL MUSEUM)
https://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007679
「リーツェンの桜~ドクトル肥沼を知っていますか」(ネイビーブルーに恋をして)
http://blog.goo.ne.jp/raffaell0/e/daaa08841a31900599906635895e7cd1
小名木善行HN:ねず「リーチェンの桜の木 肥沼信次医師の物語」(ねずさんのひとりごと)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1332.html
「じじぃの「人の死にざま_1558_肥沼・信次(医師)」」(老兵は黙って去りゆくのみ)
http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20150815/1439586348
「肥沼 信次」(医療法人社団茜会)
http://www.akanekai.jp/koenuma.html
「「大戦秘史リーツェンの桜」舘澤貢次著 海をわった日本人・肥沼信次」
http://vpack.akanekai.jp/matiaisitu80-1.pdf
「ドイツ人から尊敬されるDr.肥沼信次の生涯」(グローバリゼーション研究所のブログ)
http://blog.livedoor.jp/igarashi_gri/archives/47927124.html
「佐々木蔵之介、ドイツで活躍した日本人の軌跡を辿る」(exciteニュース)
http://www.excite.co.jp/News/tv/20170201/Dogatch_42975.html
「大戦秘史 リーツェンの桜 肥沼信次  舘澤貢次」(HirooMikes)
http://hiroomikes20120501.blogspot.jp/2012/10/20121013.html

 

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コメント
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コメント一覧(4件)

  • 4. mediwel_editor さん

    お問い合わせいただきありがとうございます。
    記事執筆にあたっては、以下の書籍を参考にしております。
    ・『ドイツ人に敬愛された医師 肥沼信次』(文・舘澤貢次 絵・加古里子/瑞雲社、2003)
    ・『ヴリーツェンに散る桜』(なかむらちゑ/開発社、2014)
    お役に立ちましたら幸いです。
  • 3. 浅野静子 さん

    肥沼信次医師に関する本が出ていれば読みたいが、教えていただけませんか。
    歴史街道を見ていて、この医師のことを知りました。
  • 2. へろ さん

    小学校時代には家庭教師をつけられるほど苦手だったのです
    この部分、裏はとれるのだろうか。苦手教科にたいしてでなくても、当時の上流階級の人たちは、子に家庭教師をつけていたはずである。
  • 1. へろ さん

    あら探しではないが。

    同盟国ドイツで、日本人を称えるのが、そこまで勇気のいることなのかといいたくなる。
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