第2回 戦前の卒後キャリアと博士号による医局員増加
第2回では、開業が中心だった戦前の医師の卒後キャリアパスや、多くの医師が博士号取得のために医局に所属するようになっていった経緯についてお伝えします。
医師は開業するもの――戦前の医師の卒後キャリア
第1回で、明治初期には大学、医学専門学校など、医師になるために複数のルートがあったことをご紹介しました。
はじめのうちは、帝国大学卒の医学士は卒後すぐに全国の公立病院や医学校に赴任する、医学専門学校卒業生や開業医試験合格者は資格取得後すぐに開業する、というのが一般的なキャリアでした。これが1890年代になると、公立病院のポスト不足から、帝国大学卒の医師でも卒後すぐに開業する人が増えてきました。
20世紀前半になると、卒後に大学や市中病院に勤務し、臨床経験を積んだ後に順次開業していく、というキャリアパターンに変化していきます。つまり、当時の医師にとっては、勤務医として臨床経験を積む年数に個人差はあっても、最終的には開業をするのが規定のルートでした。
1920年代には、新潟、岡山などの医学専門学校が医科大学(いわゆる「旧六医科大学」)に昇格しました。これにより、1929年には「新たに医師免許を取得する人の6割以上が大学卒」という状況になります(第1回参照)。
この頃には、大卒の医師は卒後ある程度の年数、大学(医局)に所属して勤務医を続け、その後に開業するか、民間病院でさらに経験を積んでから開業する、というパターンが一般化していました。
言い換えれば、1920年代は「大学を卒業した医師の多くは医局に入る」という流れができた最初の時期でした。
民間病院中心の医療――日本独自の展開
当時の「いずれは開業する」という医師のキャリアパターンの背景には、私立病院(民間病院)を中心に拡大してきた、日本独自の医療提供体制がありました。
西洋医学が導入されたばかりの明治初期には、当然ながら西洋式の病院がほとんどなかったため、全国に次々と新しい病院が作られていきました。
1880年代までには、全国に200を超える公立の病院が建てられましたが、1890(明治23)年頃から財政難を理由に相次いで閉鎖されました。1910年には公立病院数は82院となり、以降は1930年頃まで80院前後で推移していきます。
一方で、私立の病院(特に医師が開業する個人病院)はその数を大きく伸ばしていくことになります。1888(明治21)年時点の339院が、20年後の1908(明治41)年には2倍以上の741院に。1936(昭和11)年には2,887院にのぼっています。
私立病院数の急激な増加の背景には、公立病院数が伸び悩む中で、全国で私立病院による医療提供が望まれていたという事情があります。元々、日本では江戸時代から自由開業制をとっており、政府ではなく民間中心で医療が展開されていたため、私立病院が地域に根付きやすい土壌がありました。
明治時代の日本はドイツを手本に西洋の医療を導入しましたが、西欧では中世からの修道院などでの施療を背景に、公立の医療機関を中心として医療が展開されてきました。多くの開業医に支えられた「民間中心」の医療展開は、日本ならではの特徴だといえます。
1937(昭和12)年の時点で、医師の約70%は自ら医療機関を経営しており、一般病院の96%、診療所の95%が医師の個人経営でした。
ちなみにこの当時、私立病院の診療代金は自由価格であり、伝染病などの例外を除いて全額自己負担でした。ただ、自由価格とはいっても、実際には医師会が決めた規定報酬価格に基づき請求されていたそうです。当時は高額な医療費のために病院へ行かず、民間療法や売薬で病気に対処する人も多かったといいます。国民皆保険制度が整備され、多くの人が医療の提供を受けられるようになるには、戦後の1961(昭和36)年まで待つことになります。
医師を医局に引きつけた「博士号」
1920年代になると、博士号取得のため大学医局に長く所属し続ける医師が増加しました。学位令の改正により博士号を取得しやすくなったこと、また医師にとって博士号が「社会的評価を向上させるステータス」となっていたことが、その理由です。
初めて学位令が出された1888(明治21)年から1912(明治45)年までの間、授与された医学博士号はわずか261であり、医師の中でもごく限られた人に与えられる「例外的」かつ「特別」な名誉でした。
しかし1920(大正9)年、学位令が改正されると、大学の講座担当教授に実質的な学位審査権が与えられ、博士号の授与数が一気に跳ね上がります。
医学博士号を取得した医師は「上医」と呼ばれて社会的に高く評価され、博士号を持たない医師よりもはるかに多くの収入を得ていました。また、公立一般病院の診療科長職は大半が医学博士によって占められていました。
こうしたアドバンテージを得るために、医師らは卒後も大学に残り、博士号の取得を目指したのです。当時、医局講座制が敷かれていなかった医学専門学校の卒業生の中にも、卒業後に大学医局に入って博士号取得を目指す人が出てきました。医局側もまた、研究に従事する医局員を増やすために、博士号を大いに利用しました。
猪飼周平氏による、1939年時点での九州帝国大学第二内科同窓生の平均在局期間の調査(※)をみると、医学博士取得者の平均在局期間が4.23年、非医学博士の在局期間が2.51年となっています。このことからも、医学博士号の取得希望者の増加とともに、医師の医局への在籍期間が長期化していたことがうかがえます。
医局が医師を引きつける手段として利用されていた博士号ですが、多くの医師が取得するようになった結果、しだいにその価値が薄れ「足の裏の米粒」と揶揄されるようになっていきました。これに代わる医局の「医師確保手段」として、戦後に専門医制度を背景とした「関連病院の人事ローテーション制度(医局人事制度)」が構築されていくことになります。
※猪飼周平『病院の世紀の理論』P111(有斐閣、2010)
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医局の歴史をご紹介するシリーズ第2回は、20世紀前半の「開業ありき」だった医師のキャリアパスと、博士号取得を目指す医局員の増加についてご紹介しました。
第3回では、戦時中の医学教育体制の変化と、戦後のGHQによる改革、およびその余波についてご紹介します。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
猪飼周平『病院の世紀の理論』(有斐閣、2010)
福永肇『日本病院史』(ピラールプレス、2014)
橋本鉱市「わが国における医学博士の社会的分析 ―旧学位令(大正9年)下における濫綬状況をめぐって―」
(閲覧日:2015年5月18日)
http://www.niad.ac.jp/ICSFiles/afieldfile/2008/08/29/no9_10_no07_3.pdf
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