第3回 第二次世界大戦前後の医療と医局
第3回では、戦争期の医療、医局のあり方や、戦後のGHQによる改革についてお伝えします。
医療の「官制化」
第2回では、明治から昭和初期にかけての医療が民間病院を中心に展開されてきたことをご紹介しました。
しかしその後、度重なる恐慌と国家的な戦時体制の整備の中で、医療の中心は「民」から「官」へ移っていくことになります。
大正から昭和初期にかけては、第一次大戦(1914~1918年)の戦争特需が終わった後の戦後恐慌、金融恐慌(1927年)、世界大恐慌(1929年)により、都市部、農村部ともに貧困化が進んでいました。そのため栄養不良による結核死亡率増加、乳児死亡率の増加、人口増加率の低下、そして徴兵検査甲種不合格者の激増といった保険分野のさまざまな問題が生じていました。
この状況に強い危機感を抱いたのが、戦争の準備を進めていた軍部です。人的資源の窮乏はすなわち軍の弱体化にもつながると考えた軍部は、健民健兵の日本を実現するために、衛生を管轄する中央統括行政機関の整備を要請しました。これにより、1938(昭和13)年に設置されたのが「厚生省」です。
前年に日中戦争が勃発し、戦時医療体制の需要が高まっていたこともあって、医療に対する国の関与はしだいに大きくなっていきました。
第2回で述べたように、戦前の日本の医療は開業医による民間病院(私立病院)を中心に展開されており、医師の業種団体である「医師会」も、開業医の団体として成立しました。1916(大正5)年、初の全国組織である「大日本医師会」が設立された際、総勢3万人以上の会員はすべて開業医でした。翌1917(大正6)年の総選挙で、大日本医師会は医師出身の議員14名を当選させており、政治的にも力を持つようになります。1919(大正8)年には開業医と官公立病院勤務医に対して医師会加入が義務付けられ、1923(大正12)年の医師法改正で大日本医師会は解散、「日本医師会」が成立しました。
しかし、1942(昭和17)年、それまで民間医療機関主体の医療提供を進めてきた政府が、戦争を理由に、公営医療中心の政策に大きく方針を転換します。戦時に合わせた医療体制の構築を目的として「国民医療法」が成立すると。医師会は官制団体として「健民健兵政策に従事するもの」と定義されました。翌1943(昭和18)年、私立病院を含むすべての病院が、政府出資を根幹とした特殊法人の「日本医療団」に接収されることとなりました。
医学専門学校の急増
戦時医療体制の整備のため、医療の「官制化」と併せて進められたのが、医師数増加のための施策です。
日中戦争開戦後、軍医として応召される医師が増えるにつれて医師が不足するようになり、特に1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発以降は、この傾向がますます強まりました。
医師不足解消のために国がとった施策は、医学専門学校の大量増設というものでした。
まず1940(昭和15)年5月、7つの帝国大学と6つの官立医科大学に「臨時附属医学専門部」が設置されました。ひとつの大学の中に、本来の医師養成コースである医学部と、促成の軍医養成コースである医学専門部が両立するという、二層的な医師養成ルートがとられることになったのです。
その後も、公立および私立医科大学への医学専門部の付設、男子医学専門学校や女子医学専門学校の新設が相次ぎ、1939(昭和14)年時点で26施設あった医師養成機関の数は、1945(昭和20)年の終戦時には69施設にまで膨れ上がっていました。
この時期に新設された医学専門部や医学専門学校は、戦地に送り込む医師の速成を目的としたものであり、教育年限が短縮された医師が多数育成されました。
大学医学部卒の医師と、医学専門学校卒の"速成”医師が混在することは、戦後、GHQにより問題視され、医学教育が大学医学部に(ひいては大学医局に)一元化されていくことになります。
戦時中の医学部と医局
国の政策が戦争に特化し、多くの男性が徴兵されていく中で、医局はどのように運営されていたのでしょうか。
1943(昭和18)年に(戦時中のため)名古屋大学医学部を繰り上げ卒業し、のちに軍医として戦艦大和に乗り組んだ祖父江逸郎氏は、当時の様子をこう振り返っています。
平時であれば、医学部卒業後、医師となれば、その進路は病院勤めをはじめ、医局にとどまり大学で研究をしながら臨床医としての腕を磨くとか、あるいは基礎医学教室に入局し基礎医学の研究に打ち込むなど様々の進路があり、それぞれの立場に応じて生き方を選定したのです。しかし、戦争に突入した時代です。自分の好む進路をゆっくり選定しながら医局生活を楽しむなんて余裕など全くありません。卒業と同時に大半の卒業生は陸、海軍に入隊することになるわけです。丁度この頃、戦争のため、殆んどの医学生が軍隊に入ることになり、大学が空っぽになるため、教育に支障がでるのではないかとのことで、大学院特別研究生制度が設けられ、大学院に残る場合は兵役免除という大きな特典がつけられたのです。急なことで、その内容が十分分かりかねることもあったのですが、この制度を受け大学に留まる者がわれわれの同級生の中では三名程いたのです。
出典:祖父江逸郎『軍医が見た戦艦大和』(角川書店、2013)
軍医の確保が火急の課題とはいえ、医学部卒業生をすべて戦地に送り込んでいたのでは、大学医学部が機能しなくなってしまいます。そこで、「大学院進学者は兵役免除」という制度がつくられ、教育機関および研究機関として存続できるよう配慮されていたのです。
戦時中から戦後にかけては、栄養失調に関する研究が関心を集めていたといいます。当時は食べるものが著しく不足しており、多くの国民が僅かな配給物資で糊口を凌ぐ状態でした。そのため、栄養失調の病態や治療法の研究が大きなテーマとなっていました。
戦時中、研究費や研究資材はおろか、生活物資まで不足するような状況の中でも、地道に研究を続けていた医師たちがいたからこそ、戦後の医局は復員してきた医局員を受け入れて研究や臨床に取り組んでいくことができたのです。
GHQの改革で変わったもの、変わらないもの
1945(昭和20)年、日本がポツダム宣言を受諾し無条件降伏したのち、日本はアメリカ主導のGHQ(連合軍最高司令官総司令部)による占領統治を受けることになりました。
GHQは日本の民主主義国化に努めるとともに、衛生・医療制度の改革にも着手しました。
この改革の中心になったのは、GHQの公衆衛生福祉局局長であり軍医のクロフォード・F・サムス准将でした。明治初期のドイツ式医療導入の際に関わったミュレルとホフマンも軍医だったことを考えると、日本が外国の医療を受け入れる際には必ず軍医が関わっていた、ということになります。サムスはアメリカの制度をモデルに、日本の保険・医療体制の近代化改革を進めました。
敗戦後の日本は食糧難のため栄養失調になる人や餓死する人が多数にのぼりました。また衛生環境も劣悪で、天然痘や発疹チフス、腸チフスなどの伝染病が蔓延していました。
こうした状況を改善するために、サムスは戦地からの復員者の検疫、予防接種の実施や、売春を認可する法令や条例の廃棄命令などの伝染病対策を行いました。栄養状態を改善するため、食料備蓄小麦10万トンの提供、栄養価の高い学校給食の配給が進められ、日本国民は飢餓状態を脱することになりました。併せて、公衆衛生機能の充実のため、厚生省の機構改正や保健所の機能拡充も進められていきます。
1949(昭和24)年7月には「医療法」「医師法」「歯科医師法」「薬剤師法」など、現在までつながる医療制度の根幹となる法律を成立させました。
当時の病院は、戦争末期からの医師不足や医薬品不足もあって状態は劣悪であり、手術室のガーゼや包帯は何度も洗いながら使いまわされてシミがついているような状況でした。サムスは日本の病院について、入院患者の環境や患者待遇など、病院管理の面がアメリカの病院と比べて大きく遅れており、「日本の病院水準は中世なみ」と評価しました。そして、病院管理者に経営知識や管理能力を身に付けさせることが必要だと判断します。
1947(昭和22)年、サムスは厚生省の附属機関として、国立東京第一病院内に「病院管理学校」を開設し、全国の病院長に病院経営マネジメントの教育を実施しました。
医療関連法案の整備や医療機関の整理、再編が進められたこともあり、GHQの病院改革は一定の成果を挙げました。1945(昭和20)年には使用可能な病床の利用率が25%以下だったのが、1951(昭和26)年には78.4%にまで向上しています。
しかし、1952(昭和27)年のGHQ撤退後には、「医師には病院経営マネジメントの知識と能力が必要」という考え方が定着しなかったのか、医師が経営について学ぼうとすることはほぼなくなりました。その後の日本の病院は「経営や法律、会計の知識に乏しい医師が自分の経験や勘を頼りに運営していく」という運営形態をとっていくことになります。
GHQの改革は医育教育体制にも及びました。
先述の病院環境の悪さもあってか、サムスの目には、日本の医師や医学校が低レベルなものと映ったようです。とりわけサムスは、大学医学部と医学専門学校という「日本の医学教育の二層構造」を問題視しました。医学専門学校は「速成の」「安価な」「医師不足解消のための」教育期間であり、大学と違って附属病院を保有しておらず、臨床や教育のための施設が十分ではありませんでした。そのためサムスは、医学専門学校を「二流の医師を養成する学校」と断じて、廃止を決意します。全国46校の医学専門学校視察ののち、29校は大学に昇格されましたが、17校は廃校となりました。
また、サムスは大学医学部についても、アメリカと比べて入学時の年齢が低いこと(※)、医学部が四年制であり期間が短いこと、医師の資格試験がないこと、卒後の臨床研修期間がないことを懸念と捉えました。そのためアメリカをモデルに、いくつかの改革が進められました。
まず、学士修了者のみ医学部に入学可とする「医学教育八年制化」が提案されました。これについては当時の文部省教育刷新委員会の阿部能成座長が「敗戦国日本の困窮」を理由に強固に反対し、医学部教育は六年制に落ち着きました。
医師国家試験制度は1946年に開始されました。敗戦時点では、大学医学部または医学専門学校を卒業すれば医師免許が得られましたが、これを期にすべての医師志望者が国家試験を受けることになりました。
卒後臨床研修については、GHQの命令により1946年(昭和21年)から日本にもインターン制度が導入されました。制度の内容は大学医学部卒業後、医師国家試験の受験資格を得るための義務として、医師の指導のもと1年間の実地訓練を積む必要がある、とするものでした。しかしこの命令が出された際、受け入れる病院側の体制整備や、インターン生の給与保障といった制度的な裏付けが行われませんでした。大学病院(医局)側には研修カリキュラムもほとんどなければ研修予算の手当もなく、インターン生は給与はおろか身分保障すらされず、健康保険証すらもらえませんでした。1952(昭和27)年にGHQが撤退して以降は、大学病院は制度的な根拠がないのをいいことに、大学病院はインターン生を無給の使い捨て労働力として酷使するようになりました。
そのほか、ドイツ語中心の教育から英語中心の教育へのシフトなどが進められました。
ちなみに戦後、医局という組織形態については手が加えられず、戦前の形のまま残されました。GHQは日本の官僚機構を「行政のノウハウを持ち、縦割り型で服従させやすい組織」と捉え、そのまま残して利用していました。縦割りの医局組織についても同様に捉えていたのかもしれません。
医師会に対しては、GHQは戦時の「官製医師会」を改めて医師会の組織運営を民主化することを主張し、これを受けて1947(昭和22)年に現在まで続く日本医師会が設立されます。この際、戦前の強制加入ではなく「任意加入」とするようにと指示が出されました。当時の医師会幹部は、任意加入化により会員数確保が難しくなることを懸念してこれに反対しましたが、結局「任意加入」となりました。
医局による強権的な支配の継続、およびインターン研修生の酷使は、のちの1968(昭和43)年に、東大医学部紛争に端を発した学園紛争を引き起こすことになります。
※アメリカでは最低3年間の大学教育終了後にメディカルスクールへ進学して医学教育を受けていた。
*
医局の歴史をご紹介するシリーズ第3回は、戦時体制下の医療と医局、およびGHQによる戦後改革についてご紹介しました。
第4回では、1960年代の学園紛争と医局の関わり、および医師を関連病院でローテーションさせる「医局人事制」の成立についてお伝えします。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
池上直己, J.C.キャンベル『日本の医療 統制とバランス感覚』(中公新書、1996)
祖父江逸郎『軍医が見た戦艦大和』(角川書店、2013)
福永肇『日本病院史』(ピラールプレス、2014)
小川智瑞恵「『大学院特別研究生関係』史料目録(一九四三~一九四五年度)」(閲覧日:2015年7月23日)
http://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005451.pdf
二至村菁「8年制医師養成教育―GHQサムス准将の提案」(閲覧日:2015年7月29日)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/mededjapan/44/6/44_421/_pdf
日本医師会「日本医師会通史」(閲覧日:2015年7月31日)
https://www.med.or.jp/jma/about/50th/
山川紘「172.医科大学の系譜(1):戦前編」(閲覧日:2015年7月23日)
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-172.html
山川紘「173.医科大学の系譜(2):戦後編(1)」(閲覧日:2015年7月29日)
http://www.geocities.jp/yamamrhr/ProIKE0911-173.html
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