第5回 陸軍属の軍医募集(日本・20世紀前半)
募集要項
・勤務時代:20世紀前半
・勤務地域:戦地
・勤務内容:傷病兵の治療、兵士の体調管理
仕事内容詳細
陸軍の大隊付軍医として従軍し、負傷兵の処置や疫病への対策、兵士の食事管理に尽力すべし。
負傷者を助ける軍医の役割
第二次世界大戦期の日本の軍隊、いわゆる旧日本軍の陸軍では、歩兵1個大隊(600~1,000名前後)につき2名の軍医が勤務していました。
近く戦闘が予期される場合、2名のうち1名の軍医が前線のできるだけ近くに仮包帯所(隊包帯所)という応急救護所を開設します。
もう1名の軍医は前線で救護活動(火線救護)をする役割と位置づけられていました。しかし実際には、大隊長等の負傷に備えて大隊本部に留められたり、そもそも大隊に軍医が1名しかいなかったりということも多かったようです。
いざ戦闘が始まり負傷者が出ると、まず前線の一兵士または衛生兵が包帯を巻く等の一次的な処置をしました。衛生兵は医師ではない治療担当の兵士です。すべての兵士は治療のための「包帯包(※1)」を携行しており、特に衛生兵は「包帯囊(※2)」というカバンを携帯していました。
※1 三角巾1枚と消毒ガーゼ2枚
※2 包帯包の予備やヨーチン(ヨードチンキ)などが入った皮のカバン
前線で応急処置を受けた兵士は仮包帯所に下げられます。ここで軍医により、出血多量の負傷者への止血帯装着、骨折者への副え木による処置などの応急処置が行われました。仮包帯所には「隊医きゅう」という医薬品箱が置かれていたほか、軍医は「軍医携帯囊」というカバンを持っており、この中には外科の道具や強心剤、鎮痛剤などの薬剤、注射器などが入っていました。
仮包帯所には負傷者を収容しておけなかったため、手当の終わった負傷者は、できるだけ早く後方の野戦病院に送られました。
野戦病院は前線の負傷者を最初に収容する病院です。ここにも軍医が詰めており、負傷者に本格的な手術や外科的処置が行われました。1個師団(6,000~20,000名前後)につき第一から第四野まで最大4つの野戦病院が編成されました。1つの野戦病院の収容患者数は約500名で、定員がオーバーしないように、重症患者を中心にさらに後方の兵站病院、外地の陸軍病院、内地の陸軍病院へと移送されていく仕組みでした。
戦闘ではなく救護が役割とはいえ、行軍中や宿営中に敵の襲撃を受けるなど、戦地では軍医も命の危険にさらされます。マレー半島行軍中にイギリス軍飛行機の急襲を受けた、元陸軍軍医の柳沢玄一郎氏は、当時の様子を次のように書き記しています。
機銃掃射弾の一発が、私が伏していたゴムの木の反対側の根本に直撃した。その衝撃は凄まじく、体の内臓がえぐられて、頭のシンにひびく強烈な衝撃をおぼえた。とたんに目の前が暗くなり、うしろに仰むけにひっくりかえった。(中略)島田戦車隊の兵隊が、左大腿部のつけ根に敵機の機銃掃射で貫通銃創をうけ、皮膚が大きくやぶれ、骨は複雑に骨折し、多量の肉片が飛びちり、太い血管が切れて大出血だ。急性失血死の危険があった。
私はすばやく、コッヘル鉗子を取りだし、ねらいを定めて、切れた血管部分をはさんで止血した。兵隊の各自が、常に携帯している消毒ガーゼ、三角布包みをあつめて、懸命の処理をおえた。兵の一命は取りとめたようだ。私の両腕は真っ赤で血だらけだ。
出典:柳沢玄一郎「軍医戦記 生と死のニューギニア戦」(光人社NF文庫、2003)
多くの軍医が他の兵士と同様に、敵兵の手にかかる、追い詰められて自決する、飢えや感染症で倒れる、また海軍であれば乗艦が撃沈されるなどして、戦地で命を落としました。
軍医のキャリアパス
軍医になるためには、まず一般的な医師を目指す場合と同様に医学校(大学医学部または医学専門学校)に入学する必要がありました。
在学中に陸軍または海軍の依託学生(医学専門学校の場合は依託生徒)に志願し、試験に合格すると、医学校卒業まで軍から手当をもらいながら勉強することになります。勉強する内容は一般の医学生と同様でしたが、夏休みには軍隊に配属されて三週間の「夏季教育」を受ける必要がありました。夏季教育は、背嚢や飯盒、小銃といった装備を身に付けての行軍の訓練や、乗馬訓練など、兵員としての基礎訓練期間にあたるものでした。
医学校卒業後、陸軍の場合は歩兵連隊に衛生部見習士官として入隊し、2カ月間の訓練後には陸軍軍医中尉に任官します。当時は医師国家試験がなく、医学校を卒業すれば医師免許を授与されていました。
その後は陸軍軍医学校に派遣され、1年間、軍陣医学と軍事学の教育を受けました。これを卒業すると改めて各部隊や官衙、学校に配属され、軍医として活躍することになります。
戦争が激化して軍医が不足するようになってくると、新たに「短期現役軍医」という制度が作られました。これは医学校卒業後に2カ月間の軍医教育を受けて、2年間のみ現役の軍医をする制度です。速成で任官できるため人気があり、多くの医学校卒業生が志願しました。
さらに戦時動員数が増え、短期現役軍医の制度でも軍医を確保できなくなると、医師免許を持っている男性であれば誰でも軍医になれる、「軍医予備員」の制度ができました。これはあくまでも志願制でしたが、戦争末期には、軍医予備員に志願しない医師には一兵卒としての召集令状が届けられました。これを俗に、非戦的な医師に対する「懲罰召集」といいます。懲罰召集を受けた医師は、一兵卒として前線に立たされるよりはと、軍医予備員に志願することになりました。
当時の「国民皆兵」の風潮には誰も逆らえず、結局のところ、女医と高齢の医師と身体に障害を持った医師以外は、みな軍医にならざるをえなかったのです。
戦地の脅威は敵軍のみならず
負傷兵の治療は軍医の重要な仕事でしたが、軍医の務めはそれだけではありませんでした。
東南アジアや南太平洋に進出していた旧日本軍を大いに悩ませたのが、マラリアやデング熱、コレラといった伝染病でした。対策としてキニーネやコレラワクチンなどの薬は用意されていたものの、戦線の拡大とともにこれらの薬も不足するようになり、いっそう対処が難しくなっていきました。ソロモン諸島に展開していた部隊では、マラリア剤が不足した際に現地の「シマソケイ」の樹皮を薬として用いるようにとの命令が下されましたが、効果があったかどうかは疑問視されています。
また食料が不足する戦地では、栄養失調も深刻な問題でした。元軍医で『ソロモン軍医戦記』の著者、平尾正治氏は、栄養失調が原因で頻発した「熱帯性下腿潰瘍」について書き残しています。
マラリアのほかは熱帯性下腿潰瘍が多かった。この下腿潰瘍はまことにたちの悪い病気だった。食料不足のため栄養失調となり、全身の抵抗力が低下すると、蚊やブヨにくわれたあとのかき傷や小さなすり傷、あるいは刺し傷がうんでくさりはじめる。特にひざから下に多かった。それが次第にひろがって、ついには筋肉や、骨まで露出するほどの重症例もあった。この傷が痛むので兵たちは悲鳴をあげていた。この潰瘍はなかなかなおりにくい。傷口にリバノール肝油をぬり、布きれ(ガーゼはもうなかった)をあててやるのだが、その処置にかなりの時間がかかった。
出典:平尾正治「ソロモン軍医戦記 軍医大尉が見た海軍陸戦隊の死闘」(光人社NF文庫、2007)
敗戦後を支えた軍医たち
1945(昭和20)年8月の終戦後、生き残っていた軍医たちは、他の兵員とともに日本へ引き揚げることになりました。ただ、すべての軍医がすぐに帰国したわけではありませんでした。ビルマ(現ミャンマー)でインパール作戦に従事した元軍医の中野信夫氏は、捕虜として架橋工事を行う作業隊の診療を行い、終戦から1年近く経って帰国したことを書き残しています。
海外からの兵士の復員、民間人の引き揚げに際しても、医師の力が必要でした。
戦艦「大和」で軍医を務め、終戦時には内地勤務をしていた祖父江逸郎氏は、終戦後に改めて召集を受けて復員輸送艦に乗り込みました。戦争で南方諸島に取り残された兵士たちの復員業務に従事したのです。祖父江氏はこの経験について「戦後処理という重要な仕事の一端に携わることができ、ことに医学・医療の面から何がしかの役割を果たせたことに大きな喜びを感じました」と記しています。同氏はその後さらに、復員者に対して行われた、港での伝染性疾患に関する検疫業務にも従事しています。
多くの苦しみ、多くの患者、そして多くの死者を生み出した戦争のさなか、軍医たちは一人でも多くを救おうと必死に尽力しました。こうした方々に敬意を表しつつも、軍医という役割が不要な世界になることを願ってやみません。
(文・エピロギ編集部)
<参考>
関亮「軍医サンよもやま物語 軍医診療アラカルト」(光人社NF文庫、1998)
祖父江逸郎「軍医が見た戦艦大和 一期一会の奇跡」(角川書店、2013)
中野信夫「軍医殿! 腹をやられました インパール作戦ビルマ敗走記」(かもがわブックレット、2014)
平尾正治「ソロモン軍医戦記 軍医大尉が見た海軍陸戦隊の死闘」(光人社NF文庫、2007)
柳沢玄一郎「軍医戦記 生と死のニューギニア戦」(光人社NF文庫、2003)
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