決断の時―キャリアの岐路で、医師はどう考え、どう選択したのか

第3話 教授選での敗退……。挫折を経て見えてきたもう一つの道

医師の長いキャリアの中には、重大な決断を迫られる場面が何度か出てきます。本連載では、「シリーズ・決断の時」と題して、それぞれの医師が「自身のキャリアに関する重要な局面でどのように考えて決断したのか」について、エピソード形式でご紹介します。

第3回となる今回は、42歳の糖尿病内科医師のエピソードです。今後のキャリアについての1つの参考になれば幸いです。

 

順調に歩んできたエリート医師への道

北条信介医師(仮名)42歳、糖尿病内科専門医、准教授。

これまで大学医局内で順調に昇進し、いわゆるエリートコースを歩んでいた。

開業医の家庭に育ち、子どものころから当たり前のように自分も医師になるものだと思っており、親からもそう期待されていた。常に数学年先の内容を先取りして勉強し、成績は常にトップクラスだった。

その後は九州の国立大学にストレートで合格し、先輩に薦められるままに糖尿病内科の道に進んでいた。教授からの信任は厚く准教授まで順調に昇進し、いずれは自分も教授になれると考えていた。そんな折、いよいよ教授選が行なわれることになった。北条医師ももちろん候補の一人になっており、現教授との良好な関係もあって、最有力の候補と目されていた。

 

教授選でのまさかの敗退……。挫折の中で見失った仕事への熱意

しかし、最終的に教授になったのは別の医師だった。しかもその医師は自分とは医局内でも特に折り合いの悪い医師だった。その結果、医局内での自分の立場は一気に危うくなり、次の人事では地方の病院に飛ばされて役職も医長という、事実上の左遷を告げられた。

その病院に赴任したら、もはや教授になる道は絶たれる。北条医師は、いきなり目の前が真っ暗になったように感じていた。「これまで順調に人生を歩んできたのだから、今回もうまくいくだろう」という漠然とした自信が北条医師にはあった。

それだけに、当たり前だと思っていた道が閉ざされた衝撃は大きかった。北条医師にとって、人生で初めて味わう大きな挫折だった。

無意識のうちに、臨床も後進指導も雑になっている自分がいた。論文作成にも身が入らない。「論文を書いても出世できないならば……」と思うと、頑張ることの意味も見出せなくなっていた。

 

休暇中に見つめ直した、医者としての自分の方向性

そんなとき、変わるきっかけをくれたのは妻だった。心が荒んでいた北条医師に、休暇をとるよう強く勧めたのだ。精神的に追い詰められる前に休暇をとったことによって、やっと冷静になって前を見られるようになってきた。

休暇の間に、自分自身が本当は何に興味をもっていたのかということから振り返り、これから何をやりたいのか、本当の意味で見つめ直すことができた。なんとなく「医学部に入る」「教授になる」ではなく、やりたいことを冷静に突き詰めて考えられたことは、思いのほか、前に進むための大きなきっかけになった。

そもそも糖尿病内科を選んだのは、食や運動も含めて、全身管理をしたいと思ったから。もちろんその気持ちは今も変わらない。ただ、実はもう1つ、やってみたいことがあった。

それは「内科としてさまざまな症例をトータルで診たい」という思いだ。

大学病院で勤務している時、「なんとなく体調が悪いのだけど、どこ(どの科)で診てもらったらいいかわからない」という理由で来た患者を、とりあえず診ることが多々あった(心の中では「まずは近くのクリニックに受診してよ」と思うこともあったが……)。

そもそも重篤な患者も含めて、「交通整理」をする(しかるべき診療科に振り分ける)役目があれば、医療従事者、患者双方の負担が減るのではないか、と常々思っていた。

さらに健診で複数の異常を指摘された未病の患者への指導や、多種多様な専門医への橋渡しならば、これまでの自分の経験が生かせるという確信もあった。

 

半信半疑の中で相談した転職支援会社

そこでインターネット上で幾つか病院のホームページを調べてみると、多く目にしたのが「総合診療科」だった。

もちろん聞いたことはあったが、病院ごとの立ち位置はさまざま。「救急も含めて全てをまずは診る」「内科疾患に特化して、各専門家に振り分け」などなど、同じ「総合診療科」でも病院によって立ち位置は多種多様であることがわかってきた。

ただ、ネットでわかるのはかろうじて診療科としての立ち位置までで、とても内情までは把握できない。「設立の経緯は?」「常勤医の年齢構成、従来の専門科目は?」「脳梗塞等、専門外の急患への対処は?」「集患はどうやっているのか?」……。気になる点がいくつも出てきた。

そうして「医師の求人」だったり「医師 転職」などと検索していると、ちらほら紹介会社の広告が出てくる。自分だけでの情報収集に行き詰まっていたこともあり、求人の多そうな紹介会社を幾つか選んで、サービスを申し込んでみることにした。

正直ネットで見つけた会社で大丈夫かなという気持ちもあったが、このままパソコンの前で考えたところでらちが明かない。話を聞いてみて、意味がないと感じたらすぐに断ればいい。まずは担当者と会ってみることにした。

 

舞い込んできた総合診療科の立ち上げ話

担当者が口にしたのは、「どの病院も、他科との関係性構築に苦慮している」という事だった。比較的新しく立ち上がった科であるが、これまでの専門性重視とは反対の流れで、混乱が生じる事も珍しくなく、総合診療科と各科の中で軋轢が生じているケースも少なくないらしい。

「また人間関係で悩まされるのか……」

気持ちが萎んでいくのを察したのか、担当者が話を続けていく。

「今後、総合診療科を立ち上げよう、と考えている病院もあります」

近城総合病院(仮名)。近隣に大学病院があるため超急性期の患者はあまり送られてこないが、患者数は年々増加しており、「交通整理」の役目として総合診療科に期待している、という内容だった。

立ち上げから関わる……。考えたことがなかったが、これだったら、自分の想いが充分反映されて、他科の医師やスタッフとも早いうちから良い関係を築けるのではないか。そう考えると俄然、興味が湧いてきた。

院長は一回り年上の消化器内科の医師。病院経営のキャリアも長いというのは安心できた。内科系の常勤医も40歳前が多く、同じ大学出身の医師も何名かいるようだった。また、大学病院との棲み分けもしっかりできているようで、集患も問題なさそうだ。

 

「民間病院=利益至上主義」ではない

そこで、担当者に面談依頼をお願いしたのだが、1つ気になっていることもあった。それは民間病院であるという点だった。

これまで周囲からも「採算重視の診療を求められた」という話を、度々耳にすることがあり、どうしても民間病院=利益至上主義というイメージが拭えなかったのだ。

そこで、他に相談していた紹介会社から話の挙がった「絶対潰れず、安定した」公立病院にも足を運ぶことにした。

近城総合病院、面談日当日。

院長の総合診療科に対する想いは共感でき、むしろ「全面的に任せたいと思っているので、北条先生の考えを聞かせてください」と言ってもらえ、話が弾んだ。そこで思い切って、気になっていた「利益至上主義」に関して、若干意地悪とも取れる質問をぶつけてみた。

「任せてくれるとはいっても、例えば(診療報酬)点数的な目標は定められるのではないでしょうか。」

それに対して病院の答えは、

「もちろん経営の側面も考えてもらいたいとは思っています。ただ、まだ立ち上げ前でやってみないとわからない。そういった目標も一緒に考えていきましょう。」

なるほど、確かに。

また後日分かったのだが、部長職として基本給が思っていたより200万円以上高い上に、インセンティブ要素も大きく加わる。北条医師の目には「利益至上主義の診療をさせられる」のではなく「勤務する医師や患者を大切にしつつ、民間病院として持続可能な程度に採算を取れるよう運営をしている」と映った。

 

すぐに決断をしようとした自分への思いがけない「待った」

さらに、この病院では事務方がしっかりしているようだった。

北条医師が何も言わなくても、事務長が疾患別治療実績や各科の診療方針を分かりやすく伝えてくれたのだ。これならば安心して任せられる。

面談を終え、その日のうちに家族に話をした段階で、すでにお世話になろうという気持ちは固まりつつあった。

そこで、近城総合病院を紹介してくれた担当者に「他の紹介会社経由の公立病院には、断りの連絡を入れようかと思っている」と伝えたのだが、その返答は思いがけないものだった。

「時間が許す限り、気になる病院は全て話を聞いてください。後で、あの公立病院に行っておけばよかった、と後悔だけはしてほしくありません」

その言葉に突き動かされるように、結局、全部で4つの病院に足を運んだ。そして、その度に近城総合病院で勤務したいという思が強くなり、結果的により納得した上で、近城総合病院で勤務することを決断できた。

 

教授の道が閉ざされたからこそ見つけられた、本当にやりたいこと

3年後。

総合診療科は近城総合病院にとって中核的な役割を担うまでになり、体制も充実してきた。そうなると、総合診療科の責任者として院長と意見がぶつかることも出てきた。ただ、病院や医療に対する基本的な安方向性や思いは同じである。お互いに信頼した上で「自分たちで病院をつくっている」という充実感が常に感じられている。ただ教授を目指していただけのあのころとは、違う。

ちなみに、候補に挙がっていた公立病院は、財政難や不祥事がニュースになっていた。ただ、今の北条医師にはあまり関係のないことだ。親からクリニックを引き継いでほしい、という話も出ているが、まだまだこの病院でやりたいことはたくさんある。

 

医局で教授になる道が閉ざされた時は正直、目の前が真っ暗になった。しかし、今思えば、だからこそ本当にやりたかったことが見つかった、と感じている。

 

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森川 幸司(もりかわ・こうじ)
大手の出版関連企業から転職して株式会社メディウェルに入社後、関東を中心にコンサルタントとして300人以上の医師のキャリア支援に従事する。「自分が先生の立場だったら、家族の立場だったら…」という想いから、「自分事としてとことん本気になる」ということを仕事上の信条とする。
2011年5月、ステージIVの大腸がんとそこから転移した肝臓がんの診断が下り、それ以降は手術と抗がん剤による闘病生活が始まる。肝臓がんの再発や肺への転移なども経験し、入退院を繰り返しながら、現在は管理部門に所属し他のコンサルタントの支援を行なっている。
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