第4回 時の分け目に揺れた女医 丸茂むね
女性病院院長の誕生[明治初頭~明治後期編]
シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。
▼これまでの「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」
第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医(楠本イネ・荻野吟子)
第2回 時代の常識に抗った女医(吉岡彌生)
第3回 志半ばで旅立った女医(右田アサ)
第4回は、医学者として世界初のレントゲン撮影に成功した丸茂文良の助手を務め上げ、女性として日本で初めて開業病院の院長になった「丸茂むね」を取り上げます。
丸茂むねは済生学舎への入学からわずか3年で医師になりましたが、夢を叶えてもなお、古い慣習に悩まされることになりました。
丸茂むね 日本で初めて開業病院院長となった女性
むねと文良
1893年、東京の上野桜木町(現在の台東区東上野)にあった桜木病院が、ある医師夫婦によって買い取られ、新たな病院が開設されました。丸茂病院。丸茂文良とその妻・むねが経営する、外科と皮膚科の病院です。
敷地面積は1,000坪ほどで、外観はまるで小学校のようだったといいます。書生、看護師、雑用人など、合わせて50人以上の従業員が働く大きな病院でした。
真面目で勤勉な医師・文良と、努力家の女医・むね。
おしどり夫婦が営む丸茂病院は、すぐに患者のあいだで評判となりました。
しかし、順風満帆に見えるむねの人生は、苦悩の果てにしか手に入れることのできないものでした。
「当たり前」への疑問
1869年、下街道高山宿(現在の土岐市土岐津町)で、深萱むねが誕生しました。百姓一揆が起こるような時代でしたが、庄屋だった深萱家は北条氏の末裔で、当時の暮らし向きは悪くなかったといいます。一揆で捕らえた罪人を深萱家まで連れてきて、そこで罰を与えることもあったと、むねは祖母から聞かされていました。
7歳で小学校に通い始めたむねでしたが、この頃から徐々に深萱家の財政状況が傾き始めます。
「女に学問は必要ない」。父の言葉に抗うすべを、幼い彼女は持ち合わせていませんでした。
その後、むねは郵便局で事務の手伝いを始めます。趣味は読書。暇さえあれば小説を読み、そこで描かれている女性のいきいきとした生き方に思いを馳せるようになりました。
なぜ女性は勉強してはいけないのか。なぜ罪人はひどい仕打ちを受けなければならなかったのか――。世の中の「当たり前」に対し、むねは疑問を抱くようになりました。
日本で7番目の女医
1887年、18歳になったむねは伯父の盛一郎を頼りに上京します。家族の同意を得られないまま、済生学舎に入学したのでした。
むねが医師を目指した理由は定かではありませんが、ただただ賢くなることを己の使命としていたようです。
そんなむねを精神的に支えたのが、将来の夫となる丸茂文良でした。 文良は、むねが通った済生学舎で講師をしていた人物です。むねが苦手だった物理の授業を担当していた彼は、至極丁寧に指導にあたったそうです。
講師とはいえ、当時の文良は大学生。若い2人が共有する時間が特別なものに変化するのは、ごく自然なことだったのかもしれません。 1890年、むねは21歳で後期医術開業試験に合格します。入学からたった3年で、彼女は日本で7番目の女性医師になったのです。
そして済生学舎を卒業後、彼女は辛い時を共に過ごした文良と、めでたく結婚したのでした。
丸茂文良という医師
むねの夫・丸茂文良は、済生学舎の講師として物理学と外科学の講義を担当していました。1889年に帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)を卒業して医学士となってからも、引き続き講師として在籍。済生学舎では、のちに細菌学者として大成する野口英世を指導していたといわれています。
文良は、明治期の日本医学の発展に大きな影響を与えたドイツ人外科医のユリウス・スクリバに師事し、西洋医学を学びました。スクリバの自宅でX線写真を見せてもらったことがきっかけとなり、放射線医学の道へ進んだようです。
医師としても多くの患者に信頼され、肺結核に侵されていた女流作家、樋口一葉を診察したともいわれています。
また、1893年に済生学舎で創設された「淑徳会」という団体に、文良は賛成員として参加しています。淑徳会が女子医学生の立場を守るために立ち上げられた「女医学生懇談会」の後身であることから、彼が女性医師に対して肯定的な意見を持っていた人物だったことがうかがえます。
妻としてのあるべき姿
むねと文良の結婚生活は、常に穏やかなわけではありませんでした。
講師と学生の関係だった頃は「医師になりたい」というむねの夢に寄り添った文良でしたが、夫としては「良き妻」であることをむねに求めたようです。もちろん当時の良き妻とは、夫の三歩後ろを歩く妻、夫の言うことを聞く妻のこと。
むねは、「なぜ自分は世間の女性のように夫に従えないのか」と思い悩みました。彼女の心には、幼き日に思いを馳せた、物語のなかで活躍する女性たちの姿が残っていたのでしょう。古い慣習に従うか、女性が生き方を選択する新しい道に進むか。
きっと悩んだ違いありませんが、むねは真宗大谷派の僧侶・近角常観の元へ通い、話を聴くことで、夫の考えを受け止められるように努めたといいます。
つまり、彼女が選択したのは、古い慣習の先にある幸せでした。日本で7番目の女医になった彼女も、「女は良き妻であるべきだ」という慣習には抗えなかった――むしろ、抗うべきではないと考えていたのかもしれません。
助手として見届けた夫の偉業
1995年にドイツでヴィルヘルム・レントゲンがX線を発見してからわずか半年後、文良は「レントゲン氏の所謂X光線のデモンストラチオン」の講演を行いました。 それから間もなく、彼は済生学舎の電気技師と共にX線発生装置を作成し、医学者として世界で初めて、レントゲン撮影を成功させたのでした。
「X線を医学に利用できないだろうか」と考えた文良は、X線の殺菌作用(コレラやチフスなどの細菌への影響)に関する実験など、先駆的な研究を実施。彼は当時から学生に対して「X線は必ずがん治療に役立つ」と明言するなど、鋭い先見の明を持つ人物だったようです。
病理学や生理学を専門としていたむねは、そんな夫の研究を熱心に手伝いました。 しかし、X線の講演でも、レントゲン撮影でも、手術でも、むねは文良の助手でしかありませんでした。 彼女はいつの間にか、「良き妻としての医師」になっていたのでした。
日本で初めての女性病院院長になるが……
1906年、食道がんを患った文良は、45歳の若さでこの世を去ります。むねは夫の友人だった濱野太吉と天本治の力を借り、文良の後を継ぐことにしました。
そして同年、丸茂病院の院長に就任。日本で初めて、女性の開業病院院長となりました。
ところが、むねが丸茂病院の院長を務めた期間は約3年。そのあいだ、彼女が医師として、あるいは院長としてどのような働きをしたかについては、残念ながら明らかになっていません。1909年に40歳で院長職を退いてから、むねがどこで何をして暮らしていたのか、それも不明です。
享年76歳。晩年は本郷区駒込西片町(現在の文京区西方)で、1944年まで家族と余生を過ごしたといいます。
当たり前への疑問の先にあった、当たり前の幸せ
日本初の女性眼科医となった右田アサを応援した人たちのように、深萱むねの隣にもまた、医師になるという夢を支えた人物、丸茂文良がいました。
しかし、先進的な考えを持っていた文良でさえ、「妻は夫に従うべきだ」と思っていたように見えます。
もちろん、彼の支えなしにむねが医師になれたとは言い切れませんし、彼女自身が「良き妻としての医師」であることに幸せを感じていたようにも思えます。
だからこそ、丸茂むねは夫のいない世界で医師を長く続けなかったのかもしれません。
ただ、もしも彼らが古い慣習に縛られていなかったら、丸茂むねという女性は1人の医師として違った活躍をしていたのではないか――。そんな想像もしてしまいます。
(文・エピロギ編集部)
※エピロギ読者の皆さまへお願い
丸茂むねが院長職を退いた1909年以降の同氏に関する情報を探しています。
情報を提供してくださる方は、本記事下部の「コメントを投稿する」もしくは「お問い合わせフォーム」まで、よろしくお願いいたします。
<参考>
日本医科大学歴史小説「丸茂むね物語」(学校法人日本医科大学「意気健康07冬号」、2013)
(http://ikikenko.nms.ac.jp/entame/rekisisyousetu/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC%20%E4%B8%B8%E8%8C%82%E3%82%80%E3%81%AD%E7%89%A9%E8%AA%9E)
坂内忠明「一葉、文良、X線」(NPO法人 放射線教育フォーラム『放射線教育フォーラムニュースレター No.29』、2004)
(http://www.ref.or.jp/book/book_newsletter_029.pdf)
鈴木宗治「エックス線発見と19世紀末の日本における受入れ方」(Osaka University Knowledge Archive)
(http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/18038/1/JJRS-56-5-241-250.pdf)
レファレンス共同データベース 質問「丸茂文良について知りたい」
(http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000001318)
『目で見る 学校法人日本医科大学130年史 熱き教員 学生 同窓生たちの足跡』(学校法人日本医科大学、2009)
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