いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

第5回 異境の地に羽ばたいた女医 宇良田唯

女性医学博士の誕生[明治中期~昭和初頭編]

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成24年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/12/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。


シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。

▼これまでの「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」
第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医(楠本イネ・荻野吟子)
第2回 時代の常識に抗った女医(吉岡彌生)
第3回 志半ばで旅立った女医(右田アサ)
第4回 時の分け目に揺れた女医(丸茂むね)

 

第5回は、日本人女性として初めてドイツで医学博士の学位を手に入れた「宇良田唯」を取り上げます。嫁ぎ先からの家出、留学、満州での開院……彼女が歩んだ波乱万丈な人生は、ただひたすらに医師として歩んだ道でした。

 

宇良田唯 ドイツで医学博士の学位を取得した日本人女性

出奔の理由は「勉強がしたい」から

1890年、熊本県の牛深(現在の天草市牛深町)に生まれた宇良田唯は、18歳で結婚します。相手は同郷の富豪である「塩屋」の若主人。「家庭に入ることが女の幸せ」だった当時において、それは申し分ないほどに裕福な嫁ぎ先でした。

しかし、結婚から3カ月もたたないある日、唯は突然婚家から姿を消してしまいます。彼女が残した置き手紙には、こう書かれていました。

「私は外の世界で勉強がしたい」

幼い頃から賢く、男っぽい性格だったという唯。見つかって嫁ぎ先に連れ戻されても再び飛び出し、ついには遠縁に当たる「吉田毒消丸本舗」に住み込んでしまいました。

彼女の出奔については諸説あり、結婚式当日に行方をくらませたというエピソードもあります。

まずは薬剤師になる

1890年、吉田毒消丸本舗に下宿をしながら、唯は「私立熊本薬学校」に入学します。彼女が医学の道に進んだのは、漢方医である父・宇良田玄彰の影響も大きかったことでしょう。

入学から2年後、唯は薬学校を卒業し、その年のうちに学科試験と実地試験を突破。
合格証明書を携えて内務省に免状を申請し、1894年には正式な薬剤師として登録されました。

次に目指すは医師

薬剤師免許を取得後、唯は父と共に熊本の新細工町(現在の新町)で薬局を始めましたが、2年もたたずに店を閉めてしまいます。
その理由は、上京して「済生学舎」に入学するため。つまり、医師になるためでした。

おそらく唯は、済生学舎では死に物狂いで勉強したに違いありません。なぜなら、当時の済生学舎が修了の目標年数を3年をとしていたところ、1896年に入学した唯はたったの1年半で学問を修めたのです。そして1898年には後期試験に合格し、1899年に医術開業免許を獲得、医師免許を取得しました。

学生時代、唯は布団の縦半分を折り、そこで寝ていたそうです。当然、寝返りを打てば畳に転がって目が覚めます。彼女はこれを狙って、転がり起きては勉学に励んだといいます。

たった1人で海の向こうへ

済生学舎を卒業した唯は、細菌学者である北里柴三郎の「伝染病研究所」に入所して学んだあと、牛深に帰って医院を開業します。

しかし、彼女は故郷に腰を据えませんでした。1年半ほど牛深で医師を務めた彼女は、1904年に再び上京。独学でドイツ語と英語の勉強を始めました。もちろん、これはドイツに留学するためです。

日本と同じように、当時はドイツでも女性を受け入れる大学は多くなかったようですが、マールブルク大学が唯の入学を許可しました。
そして1903年、29歳になった唯は恩師である北里柴三郎からの紹介状を手に、たった1人でドイツに旅立ったのです。
私は外の世界で勉強がしたい――。嫁ぎ先から飛び出すときに抱いたその願いが、海を超えて叶えられようとしていました。

食らいつく日々

唯が留学を目指したきっかけは、牛深に多かった眼病の存在が大きかったといいます。故郷の人々を苦しめた病気を研究したい。聡明な彼女は、幼い頃からそんなことを思っていたのかもしれません。

マールブルク大学の眼科教室に入った唯は、朝から晩まで講義に食らいつきました。当時のドイツの大学では、午前7時から午後7時まで、ほぼ休みなしに講義が続けられたそうです。眼科の研究をするためにドイツまで来たのに、全科のやり直しをさせられたといいます。

慌ただしい毎日を必死の思いで過ごしていた唯ですが、そんな彼女に追い打ちをかけるような出来事が起こります。

父の死を乗り越えて手に入れた医学博士号

留学開始から5カ月ほどがたったときのこと。父の玄彰が亡くなりました。漢方医であった彼は、唯の心に医師という将来像を芽生えさせた最初の人物だったはずです。
悲しみに暮れた唯は、しかし、己の夢に突き進みました。

そして、ドイツに来てから2年後の1905年2月、「クレーデ点眼液の効果に関する実験的研究」で、ついに彼女は大学から医学博士の学位を授与されたのです。唯、このとき33歳。
女子である彼女には、男子の博士論文候補生の3倍もの試験が課されたといいます。

当時の日本では、男性にしか学位が与えられていませんでした。国内で初めて医学博士になった人物としては宮川庚子が有名ですが、彼女が学位を取得したのは1930年。
それより25年も前に唯がドクトル・メディツィーネの称号を手に入れた事実は、もはや偉業というほかありません。

 

病気に苦しむ人を救うのが使命~医師として生き抜いた一生

今度は2人で海の向こうへ

1905年、唯は医学博士の学位を手に帰国します。故郷の人々は、港に船団を組んで彼女の凱旋を祝福したそうです。
彼女は生まれ育った牛深で念願の眼科医院を開業しましたが、その翌年には東京の学習院女子部からの熱烈なオファーがあり上京。神田で眼科を営む傍ら、教師として働きました。
帰国から5年後には、北里柴三郎の紹介で、彼の門下生だった薬剤師・中村常三郎と結婚。39歳で中村唯となりました。

医学博士になり、眼科医になり、教師になり、妻になった唯。幼い頃から抱いた夢と、一度は放棄した女性の幸せを手にした彼女でしたが、その環境に落ち着くことはありませんでした。
自分の使命は病気に苦しむ人を救うこと。そう考えた唯は、自らの進むべき道を探すかのように、北里柴三郎の元を訪れます。そこで耳にしたのが、満州(現在の中国)の目に余る医療事情でした。
そうして1912年、唯と常三郎は満州に渡ったのです。

2人の生活が慎ましかった理由

鉄筋コンクリート、3階建て、入院部屋15室。それが、唯が天津で開院した「同仁病院」です。1階では夫の常三郎が薬局と印刷所を経営していました。
日本人看護師を4人引き連れ、眼科だけでなく産婦人科、内科、小児科の診療も行ったといいます。

唯は通訳を雇わず、かつて学んだ英語とドイツ語、そして新たに習得した中国語を駆使し、患者の診療に当たりました。
病院は賑わいましたが、中村夫妻は極めて質素な生活を送ったそうです。それは、唯が貧しい人に治療費を請求せず、むしろお金を与えて治療を受けさせていたからでした。

後悔しかけた医師という仕事

苦しむ患者を救うことを己の使命としていた唯でしたが、その人生でたった1度だけ、医師になったことを後悔した瞬間がありました。
それは、1931年に満州事変が起こった翌年、最愛の夫である常三郎を亡くしたときです。医師として忙しく働いていた唯は、満足に夫を看護できず、急変に気付かなかったといいます。

唯はのちに「やめようかと思った」と友人に話したそうですが、自らに課した使命に抗うことはしませんでした。紛争が激しさを増すまで天津で医師として働いた唯。1933年に帰国したとき、彼女は61歳になっていました。
唯が満州で医師をしていた期間はおよそ20年。故郷である牛深よりも、医師になる夢を叶えた東京よりも、彼女は長い年月を異境の地で過ごしたのでした。

医療に捧げた人生

帰国後、唯は牛深で1年ほど医院を営んでから東京に移り、再び医院を開業しましたが、働き続けたその身体は、いつしか病魔に冒されていました。

1936年、宇良田唯は肝臓がんでこの世を去ります。享年64歳。彼女の遺骨は、夫の常三郎が眠る島原の墓と、故郷である牛深の墓に納められたそうです。
彼女が歩んだ人生は、少しの淀みもなく、医療に捧げられたものでした。

 

男尊女卑を物ともしない心の持ち主

公許女医第1号の荻野吟子がそうだったように、宇良田唯も学生時代は男装して学校に通っていました。
上野の精養軒へ食事にいくとき、人力車の車夫から「旦那、どこへめえりませう(旦那、どこへ参りましょう)」と言われた唯は、男性に間違われたことを喜んだそうです。幼い頃の男っぽい性格は、大人になるまで変わらなかったのでしょう。

宇良田唯という人物は、男尊女卑に悩まされていたというより、「いかに男のように振る舞うか」を楽しむ余裕を持った女性だったのではないでしょうか。
もちろん、女子差別のある環境に辛い思いをしたはずですが、済生学舎入学からたった3年で医師になり、留学からたった2年で医学博士を取得できたのは、そうした強くて広い心を持っていたからこそかもしれません。

 

(文・エピロギ編集部)

 

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<参考>
小川眞理子「<書評>石原あえか『ドクトルたちの奮闘記:ゲーテが導く日独医学交流』」(お茶の水女子大学 ジェンダー研究センター「ジェンダー研究 第16号」、2013)
http://www.igs.ocha.ac.jp/igs/IGS_publication/journal/16/16.pdf
「日本で最初の学位を取った女医(眼科医師) 中村唯さん(旧姓宇良田)」(天草・牛深ご案内ホームページ)
今村壽明「九州出身の女性科学者達(<特集>化学風土記:沖縄から北海道まで)」(社団法人日本化学会「化学と教育 44巻1号」、1996)
http://ci.nii.ac.jp/els/110001829063.pdf?id=ART0001987717&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1459238619&cp=
「ふるさとのある風景 宇良田玄彰と唯」(松本内科・眼科「ひだまり 第62号」、2014)
公益財団法人 宮川庚子記念研究財団「財団概要」
http://www.mmrf.jp/about/
東京女子医科大学「吉岡彌生Q&A」
http://www.twmu.ac.jp/univ/about/faq.php

『目で見る 学校法人日本医科大学130年史 熱き教員 学生 同窓生たちの足跡』(学校法人日本医科大学、2009)
西條敏美『理系の扉を開いた日本の女性たち-ゆかりの地を訪ねて』(新泉社、2009)

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