いばらの道を駆け抜けた女性医師たち

【続編】時の分け目に揺れた女医 丸茂むね

女性病院院長の誕生[明治初頭~明治後期編]

現代の日本の医師約30万人のうち、約2割を女性が占めています。厚生労働省が実施した「平成28年 医師・歯科医師・薬剤師調査の概況」(https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/ishi/16/index.html)によると、総医師数に占める女性の増加率は男性を上回っています。しかし、「医師=女性も活躍する職業」というイメージが世間に広く浸透したとは、まだまだ言いづらいのが現状です。

シリーズ「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」では、女性医師を取り巻いてきた問題や課題の変遷を、彼女たちの足跡をたどりながら見ていきます。

▼これまでの「いばらの道を駆け抜けた女性医師たち」
第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医(楠本イネ・荻野吟子)
第2回 時代の常識に抗った女医(吉岡彌生)
第3回 志半ばで旅立った女医(右田アサ)
第4回 時の分け目に揺れた女医(丸茂むね)
第5回 異境の地に羽ばたいた女医(宇良田唯)
最終回 散った夫がくれた途~戦中、戦後を駆け抜ける~ 96歳現役の女医・梅木信子
番外編 其ノ壹 幻の明日を夢見た女医(野中婉)
番外編 其ノ貮 夜明けを目にした二人の女医(榎本住・高場乱)

 

第4回で取り上げた日本初の女性病院院長「丸茂むね」。国内で7人目の女性医師として医術開業試験に合格するほどの努力家でありながらも、結婚後は病院経営や研究に忙しい夫・丸茂文良を支える道を選びます。若くしてこの世を去った夫の後を継ぐ形で院長に就任しますが、その期間はわずか3年と短いものでした。

 

妻として、母として、院長として

開業の勧めを断り、文良との結婚を選んだむね

今からおよそ130年前の1890(明治23)年まで時間を戻してみましょう。むねは医師を志し、小学校中退というハンデがありながら「一度思い立ったことを途中で辞めるのは恥」と、男性ばかりの済生学舎で優秀な成績を修め、入学からわずか3年で医術開業試験に合格しました。
当時は試験に合格してすぐに開業することは珍しくありませんでした。1885(明治18)年の荻野吟子にはじまり、86年に生沢くの、87年に高橋みつと、女性医師たちが続々と婦人科を開業し評判となっていたのです。こうした流れもあってか、親戚や友人たちはむねに「すぐに開業しては」と勧めますが、むねはそれを固辞し、合格後間もない1891(明治24)年に文良と結婚します。その当時の心境について、晩年のむねはこのように語っています。

「昔の女大学流の教育を受けた私は欧米崇拝男女同権など大きらひで夫と共に表立った女医を開業するなどは寧ろ恥かしく思って遂に致しませんでした」(丸茂むね「懺悔」)

大変な努力家だったむねですが、その胸中深くには「女は出すぎぬよう」「夫を辱めないよう」という祖母の教えが刻み込まれていたのかもしれません。

家庭に仕事に奔走する日々

結婚の同年に一人娘となる文が誕生し、その2年後には丸茂病院を開業するなど、むねを取り巻く環境はめまぐるしく変わっていきます。むねは良妻賢母として家庭を守る一方、病院では秘書や会計のみならず、医師の資格を生かし文良の代診や手術の助手を務めることもあり、その生活は多忙を極めました。

夫の助手は病院の仕事にとどまりませんでした。病理学や生理学を専門としていたむねは文良のX線実験を手伝って、培養した結核菌やチフス菌にX線を照射してその繁殖状態を観察するようなこともありました。

夫の死、そして日本初の女性院長に

「医師になりたい」という夢があったむねは、夫の三歩後ろを歩き、夫の言うことを聞く「良き妻」でいることに思い悩みました。事業をめぐって夫婦の意見が対立するたびに「なぜ夫に素直に従うことができないのか」と苦悩し、その救済を信仰に求めました。
当初は浅草本願寺別院の婦人法話會に熱心に通ったものの満足できず、知人の紹介で真宗大谷派の僧侶・近角常観に教えを請うことにしました。そこで、何事においても自らの力でどうにかしようという考えを捨て、仏の力を信じて絶対服従すればよいという考え(他力本願、絶対他力)と出会い、改心します。
それ以降は人と意見を違えることがあっても争うことなく、自らを客観視することができるようになったといいます。こうして長い年月をかけ2人は望みどおり一心同体となったのでした。

しかし、そうした夫婦の生活も長くは続きませんでした。1906(明治39)年3月に、文良が食道がんのため45歳という若さで亡くなってしまいます。
死期を悟った文良はその前年に、東京帝国大学に在籍していた中村猛を丸茂病院の次期院長にしようと養子に迎えていました。むねが院長職に就いたとき、後継者である猛が学業を修めるまでの間という心積もりをしていたため、病院は猛の実兄・中村舒と、その同期である濱野太吉、天本治などと協力し維持しました。そのかいあって、丸茂病院は文良亡き後も繁盛したといいます。

「公益」のために貢献したい、という大きな志

むねが院長として具体的にどのような働きをしたかは、残念ながら記録にほとんど残っていません。しかし数少ない手掛かりとなるのが、東京府知事宛に出されたむね直筆の「請願書」です。院長に就任した年に書かれたこの請願書は、翌1907(明治40)年に開催予定だった東京勧業博覧会のために、派遣する丸茂病院の医師や、治療に必要な物資の寄付を申し出る内容でした。

「故院長の意志に有之候二付傷病者二対シ応急臨機の手当ヲ為スガタメニ医員看護人ヲ派遣シ治療二従事セシムルハ申ス二及バズ薬品其他治療上必要ナル材料等ハ一切寄付致シ……(略)」(丸茂むね「請願書」)

むね直筆の「請願書」

その文面からは、自ら医師として身を立てることはなくとも、「医業に携わるものとして公益のために貢献したい」という彼女の強い意志が伝わってきます。

夫亡き後も精力的に働いたことの背景には、むねが幼い頃、寝床で祖父が毎晩語り聞かせてくれたという軍記物語の存在があったのかもしれません。「頭にコベリついた」とむねが語るのが『韓信の股くぐり』に登場する教え「大きな志のある者は、目の前の小さな屈辱には耐え忍ばなければならない」というものです。
むねは夫である文良を「大義名分を重んじる人」と表現しています。結婚後の彼女の選択は、夫の死後もその志と共に生きようとしていた覚悟の表れなのかもしれません。

 

病院の譲渡、その後の丸茂家

丸茂病院の譲渡

院長に就任して3年が経った1909(明治42)年、むねは院長を辞し、丸茂病院を譲渡してしまいます。病院はこれまで診療を支えてきた濱野太吉に譲り、濱野病院となりました。
病院譲渡の理由については、「後継者に」と期待した猛が基礎研究の道に進むことを選んだためと考えられています。医師開業試験に合格しながら一人の医者として独立の道を選ばなかったときのように、むねはまたしてもその立場を手放してしまうのでした。

仲御徒町にあった自宅は天本治に譲り、一家は大学に程近い駒込西片町へ転居して新たな生活をスタートさせました。大学を卒業した猛は、文良とむねの一人娘・文と結婚。信子と治子という2人の女の子にも恵まれます。仕事や子育てに追われた20代、30代を経て、むねは穏やかな生活を手に入れたかのように思えました。

関東大震災の混乱の中で

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。病弱な孫娘・信子の療養のために滞在していた鎌倉で被災したむねは、信子を伴い東京へと戻ります。震災後の混乱の中、もうひとりの孫娘・治子が脳炎を発症し、わずか5歳で死去。悲しい出来事はさらに続き、震災後の無理が祟ったためか、猛が文良の跡をたどるように早世してしまいます。享年43歳でした。丸茂家には女ばかりが3人残されたのです。

丸茂家の女性たち

自らが仕事か家庭かというジレンマに苦しんだことの裏返しだったのでしょうか、むねはあくまで「婦人らしき婦人に養成するつもり」と、娘の文には専門教育を受けさせませんでした。それでも勤勉なむねの血を引いたためか、数学が得意だった孫娘の信子は日本女子大学数学専攻部を卒業後、さらに大阪帝国大学理学部数学科で学士号を取得。将来有望な女性でしたが、残念なことに、学士号を取得した28歳のときに肺結核で亡くなってしまいます。

夫のため、家のためにその身をささげた人生

晩年、家族の思い出の残る文京区西片で、娘の文と2人静かに生活していたむねですが、実家・深萱家のことが長年気がかりでした。深萱家は、経済状況が苦しくなった際「人手に渡すよりは」と生前の文良が買い受け守ってくれた家屋で、明治天皇が巡行の際にお立ち寄りになったこともある由緒正しいものでした。
深萱家を継いだむねの弟・宗助も亡くなり、適当な相続人もいなかったことから、実家家屋を「聖蹟」として土岐津町に寄付します。この時もむねの胸の内にあったのは、夫の心遣いを無駄にしたくないという思いでした。

それを見届けて役目を終えたかのように、1944(昭和19)年、むねは西片の自宅で死去。76歳でした。最後まで自分の身を立てることより、夫のため、家のためにその身をささげた人生でした。

 

良妻賢母とたたえられたその裏で

医師だけではなく、小説家、音楽家、教師など、社会的な地位の高い職業に女性が就く機会が増えはじめていた明治時代。その中でむねはあえて夫を支える立場に徹しました。夫を陰日向に支えるその姿は「良妻賢母」として世間からもたたえられましたが、その内心はどのようなものだったのでしょうか。

晩年のむねは自らの人生を振り返り「懺悔」という文章を残しています。そのページの欄外にはこんな一節が書きつけられていました。

「私は女医がきらひではない。折角合格した上は開業する積りであったが、結婚した故夫に服従※して自分を立てなかった」(丸茂むね「懺悔」)

※浄土真宗における「他力本願(絶対他力)」の思想に基づくもので、「自らの意に反して権力や命令に従う」というより、「全面的に信頼する」という意味合いが近いと思われます。

100年以上前の日本で、妻として、母として、医師としてどう生きるか悩んだむね。時代こそ違いますが、その姿は現代の女性にも通ずるところがあります。もし彼女が現代に生きていたなら、どんな選択をしたのでしょうか。新しい時代の幕開けを受けて、ついそんな想像をしてしまいます。

(文・エピロギ編集部)

※今回の「続編」は日本医科大学で事務職員をされていた川村隆明さんより資料を提供いただき、丸茂むねが院長引退後の消息を知ることができたことで、実現いたしました。エピロギ編集部への資料のご提供、誠にありがとうございました。

 

<参考>
・川村隆明「丸茂(深萱)むね医師物語」
・日本医科大学歴史小説「丸茂むね物語」(学校法人日本医科大学『意気健康07冬号』、2013)
・丸茂むね「懺悔」
・丸茂むね「請願書」
・丸茂むね「深萱家につき思い出るままに」
・田村江東『活動せる実業界の婦人』
・石井研堂『明治文化全集 別巻(増補改訂版 明治事物起源)』
・「報知新聞」明治29年4月9日
・杉野大澤「醫人文人あれこれ 樋口一葉と丸茂文良(1)~(3)」(『日本医事新報』昭和32年3月2日号)

 

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